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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の別離
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第一章 グムヌス議員からの要望

   午前八時  ミランダ


 ミランダは朝まだきから起き出して、今もまだ悩んでいる。

 シグルドとの待ち合わせは十時だ。


『ミランダ、大丈夫です。とってもきちんとしていて可愛いです』


 ヴィレスタが――驚異的な忍耐力で――そう繰り返してくれる。その言葉を聞くのは何度目だろう。少なくとも両手に余るほどは聞いた気がする。それでも、ミランダは鏡の前から離れることができなかった。


 ワンピースにした。ふりふりではなくひらひらがついている。肩の辺りはごく淡い色なのだが、下へ行くにつれて青みを増し、裾は濃い深い海色だ。誰もがミランダによく似合うと褒めてくれたものだ。足元には、踵が少しだけ高い、つま先のほっそりしたブーツを選んでいる。まっすぐな黒髪は熟慮のすえ結うことにして、控えめな飾りをつけてある。本当は揃いの耳飾りと首飾りもつけたいのだ。けれどあまりに派手な気がして踏み切れない。今は小さなペンダントをつけている。高級レストランとか格調高い美術館とかに行くわけもないのだから、これくらいが似つかわしいだろう。


 たぶんちゃんとしていると思う。ひとつひとつは趣味がいいはずだし、ミランダによく似合うはずだ、けれど、この組み合わせだとどうにも胸元のひらひらが自己主張しすぎな気がする。


 どうしよう。先週から手持ちの服を総動員してあれこれ思考を重ねたすえに、ようやくたどり着いた組み合わせなのに、今朝になってひらひらが気になり始めるとは。でもこれを取ってしまったらそれはそれでおかしい気がする。ミランダはわななく息を吸った。

 そして吐いた。


「シグルドにとってはきっとどうでもいいことよね……」


 先輩たちはよく嘆いている。服装はおろか髪型さえ変えてるのに全く変化に気づかない男性たちが、この世にいかに溢れていることか。シグルドはそもそもルクルスで、最近まで島で子供たちの世話役として過ごしていた。お洒落や髪型と言ったことにこんなにうろうろ悩んでしまうミランダを、軽薄だと思うかもしれない。


『さあ、それはわかりませんが』ヴィレスタは相変わらず穏やかだった。『でも客観的に見て、その服を着たミランダはとっても素敵です。髪形もよく似合います。【国境】を出ることを考えれば少々心配です。レイエルとばれなくても、いろんな人が寄って来そうですから』

「そ……そう?」


 そうです、という重々しい頷きを得て、ミランダはようやく鏡から目をもぎはなした。これ以上は時間の無駄だ。朝から数時間を浪費してしまった。リファスからは鉄道で四時間かかるから、シグルドは今頃もうこちらに向かっている。そう思うと立ちすくみそうになるのだが、とにかく、ミランダは心を落ち着けるためにその辺を片付け始めた。

 ついでに持ち物をチェックする。


「ハンカチでしょティッシュでしょ……お財布、絶対忘れちゃ駄目だし」


 魔女としての生活が四年になるミランダは、財布をもつ習慣がなくなっている。この財布だって出張医療のためにわざわざ買ったくらいだ。シグルドは駅員になったばかりなのだし、鉄道代もばかにならないのだから、昼食などはすべてミランダが出させてもらわなければならない。けれどそれを、押し付けがましくなく、自然にさりげなく納得させるなんて不可能な気もする。却って気を悪くさせたらどうしよう。そう思いながらもミランダは財布を覗き、ちゃんとお金も入っているのを確かめた。

 そして気づいた。


「……あああっ!」

『どうかしましたか』


 ヴィレスタは優しい。今度はなんですか、とは言わなかった。

 ミランダは、財布を開いたまま叫んだ。


「こないだの出張医療でアナカルシスの通貨にしてもらったの、そのままにしちゃってた……! どうしよう、エスメラルダのお金ちょっとしかないかも! 足りなかったら、」

『十時ですから途中で下ろすのも問題ないです。そもそも今日行くのはエスメラルダの駅ですが、国土としてはアナカルシスです。どちらの通貨も使えるはずです』

「あ、ああ、そ、そっか」


 そもそも数日前に、下ろしに行くかどうかで似たような会話をした気がする。落ち着け、と自分に言い聞かせて、ミランダはそれからしばらく、持って行く鞄の色と形について悩んだ。ヴィレスタは辛抱強くそれを待っている。



 〈アスタ〉が連絡してきたのは、靴に曇りや汚れがないかの最終チェック(三度目)をしているときだった。


『おはよう、ミランダ。……あら、素敵だわ』〈アスタ〉は珍しく脱線した。『今日はおめかしなのね。とっても素敵よ。本当によく似合うわ』

「そ……そう?」


 それが社交辞令だとしてもほっとしてしまう。

 〈アスタ〉はそれから、やや申し訳無さそうに言った。

『そんなにおめかしして準備しているところに申し訳ないのだけれど……グムヌス議員が朝一番で来たいそうなのよ』

「えええっ!」


 ミランダは我ながら悲壮な悲鳴をあげた。〈アスタ〉が更に申し訳無さそうな顔をする。


『今日はミランダは休日なのだと何度も伝えたのだけれど、今日しか体があかないとかで。ジェイディスが、ミランダに聞いてもらえないかと言うのよ。ほら、予算編成が近いしねえ……』

「うう……」

『待ち合わせは何時なの?』

「……うう」


 〈アスタ〉に、今日はデートなのだということまで伝えてはいないのだが、ミランダのおめかしぶりを見て、誰かと待ち合わせをしているのだという程度の推測はできたらしい。ミランダはがくりと頭をたれた。予算編成の近いこの時期、医局としては、元老院の常連であり古株でもありかなりの発言力を有するグムヌス議員の機嫌を損ねるわけにはいかない。その事情はわかり過ぎるほどわかっている。医局の責任者であるジェイディスは、医局の構成員全員に絶大に慕われている女傑であり患者の我が儘には毅然とした対応を取ることが多いが、それにしても今回は相手と時期が悪い。


「……十時」


 諦めて答えると、〈アスタ〉がホッとした声を上げた。


『八時半には来たいそうよ。グムヌス議員はおしゃべり好きな方だけれど、三十分もあれば充分じゃないかしら。……お願いできない……?』


 仕方ない。ミランダはため息を隠した。

 グムヌス氏に気に入られてしまったのが運の尽きだったのだ。


「……わかりました。行きます」


 答えると〈アスタ〉は喜んだ。とても嬉しそうに、助かったわと言う感情を前面に出した。彼女には人間と変わらない感情があるのではないかと、思ってしまうのはこういうときだ。


『ごめんなさいね。この埋め合わせはきっとするわ』

「期待してる」


 そう答えてミランダはワンピースを脱いだ。【魔女ビル】から【国境】まではトロッコと動道を駆使すれば十五分もかからずに着くし、【国境】から鉄道の駅までは、いざとなれば(今日は私事なので気は引けるが)箒に乗れば数分で着く。着替えと身支度の時間も入れれば三十分。グムヌス氏がどんなに長っ尻でも、大けがや重篤な病気というわけではないのだし、全身の凝りをほぐして血行を良くして疲労を改善させるだけだから、〈アスタ〉の言うとおり三十分もあれば充分だ。間に合う、絶対間に合う。遅刻なんてあり得ない。ミランダはそれでも、髪をほどくのはやめにした。今日は大事な用があるのだと、グムヌス氏にアピールできるかもしれない。


 ――ところが。

 それが裏目に出るのだった。

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