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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の奮闘
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終章 海上

 昨夜の嵐が嘘のような、晴れ渡る青空だった。


 ラルフは時折起こるさわやかな風を巧みに捉えて船を走らせていた。といっても今日は昨日とはうって変わって穏やかな天気で、風もほとんどなく、進みは遅々としていた。


 先日までと変わらない景色だった。青い空と青い海に挟まれて、エスメラルダの本土が見える。なだらかな平地に二本の巨大なビルがそびえ、その周囲を無数の建物が取り囲むその景色は、ここからでは人々の営みが雪山の斜面をはい上がっているように見える。まるで光を求めて壁面をはい上がる蔦のように。


 昨日までは羨望と、その裏返しである侮蔑の対象でしかなかった。あそこに住むのは自分たちとは別の世界の人間たちなのだと、思おうとしていた。


 けれど今日はもう分かっている。あそこに住んでいるのも同じ人間たちだ。言葉も通じるし、一緒にご飯も食べられる、ただ少し違うことができるというだけの人たち。


 ――そしてこいつも。


 ラルフは船の上に仰向けに寝そべって身動きもしないウィナロフに視線を向けた。

 日よけにと上着を顔にかけているので、立っているラルフからは薄い唇しか見えない。


「ねー、ウィン」


 寝ていないのは分かっている。声をかけると、ウィナロフは瞬時、寝たふりをしようかどうか迷ったようだった。けれどラルフが相手では意味がないと思い直したのだろう、渋々上着を持ち上げて透き間から覗いた。


「んー?」

「フェルドとマリアラに、どうやって連絡すんの」

「んー」上着が元どおりその目を隠してしまった。「今から考える。先生を無事に出す方策も考えて……準備整えて、七日くらいしたらまた来る」

「ふうん? じゃあその頃、舟、出しとこっか」

「ん……いや、むだ足になるかも……いや、その場合は夜来ればいいのか……うー」


 珍しく口の中でもごもご言った。寝ぼけているのだろうか。


「ウィン?」

「んー。……頼む」

「うん」


 沈黙が落ちた。ラルフはエスメラルダの景色を見て、また口を開いた。


「ウィン。……俺さ、狩人目指すのやめたよ」


 ウィナロフの目が再び上着から覗いた。

 ややして、その目が細くなった。

 微笑った、とラルフは思う。微笑いやがった、こいつ。


「ああ。それがいい」

「うん。……でね、ウィン。俺、結構、あんたのこと好きなんだよ。あんたが思ってるよりずっと。たぶんね」


 目が更に細くなった。今度は疑いのまなざしだ。いや疑いではなく、警戒だろうか。


「……なんだそれ」

「だからあんたが狩人やってるのも俺は嫌だ。グールドみたいなやつの仲間をやってるのが嫌なんだ。ねえウィン、狩人、やめる気ないの? ルクルスの支援とか、狩人じゃなくたってできるだろ」


 ため息と共に、再び上着が顔にかかる。呻くような言葉が聞こえた。


「どいつもこいつも何で同じことばっか言うかな……」

「……やめて欲しいんだよ。【銃】なんて似合わないよ」


 そう言っても、やめてなどくれはしないのだろうけれど。


 幼い頃は、自分が我が儘ではなく利己的な気持ちからでもなく、理を尽くして心底本気で頼みこめば、聞いてくれない大人などいないと信じていた。自分の、全ての人間の言葉には、それほどの力があると信じていたのだ。


 けれど今はもう知っている。ラルフがどんなに望んで、どんなにそうあれと願っても、それに添えないこともあるのだと。


 だから言うだけだ。知っておいてもらうだけだ。

 そう思っていると、ウィナロフが言った。


「……わかったよ」

「わか……わかっ、た!?」


 ラルフは思わず帆綱から手を放してウィナロフの上着に飛びつき、引きはがした。何すんだよ、と眩しげに顔をしかめてウィナロフが上着を取り返した。顔にかけて、渋々起き直った。上着の下で顔をしかめて目をぱちぱちさせている。まだ朝方とは言え今日の空は雲一つなく、海の上は輝かしいほど明るい。

 座り込んで、ため息混じりに言うのが聞こえた。


「今度こそは上手くいくかもしれないし……背水の陣を敷くってのもいいかもしれない」

「うまくいくって、何が?」


 その質問には答えず、ウィナロフは上着の下から、ラルフを真っすぐ見上げてうなずいた。


「いいよ、ラルフ。もう少ししていろいろ片付いたら、やめる」

「ホント!? ホントだね!? 絶対だね! 約束だよ!?」

「ああ」


 はぐらかさず、断言した。ラルフは嬉しくなった。

 一昨日は、まだまだやめる気なさそうだったのに。ラルフと同様に、昨日一日で心境の変化があったのだろう。当然だとラルフは考えた。フェルドとマリアラという二人のマヌエルと一緒にしばらく過ごしたのだし、グールドが、親玉がウィナロフをないがしろにしたと、言ったみたいだったし。


 ――そっかあ……


 ラルフは微笑んで、再びエスメラルダを見上げた。斜面をはい上がる蔦のような人々の営みを。


 いろいろ片付いたら、ウィナロフは狩人をやめると明言した。今日、先生を伴わずに急いでアナカルシスに帰るというのも、きっと、『いろいろ片付』けに行くのだろう。

 早くそれが終わればいい。

 ラルフはその時、嬉しかった。ラルフにとってウィナロフは、自由な世界の象徴のような存在だった。その男が、昨日出会ったフェルドとマリアラというふたりと、敵じゃなくなるということが。ラルフの憧れと、ラルフの心のより所というふたつが相反しあわなくなるということが、その時、本当に、嬉しかったのだった。


 本当に。

これで『魔女の奮闘』は終了です。お付き合いありがとうございます。

次は『魔女の別離』となります。

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