南大島:【壁】付近(6)
ギュンター警備隊長がやって来ると空気がぴりっとした。
リンはわけもなく緊張する。ギュンターは話してみると意外に気さくで面倒見の良い人だったが、何しろ顔立ちが厳格に過ぎるし、何しろ有名人である。以前【夜】に向けて【穴】が落ちたときにガストンが補佐役に抜擢され、リンもおまけで助手を務めさせてもらった。あの時思ったとおり、ギュンターとガストンはとても気の置けない間柄であるらしい。ギュンターはガストンのケガを見るとふんと鼻を鳴らした。
「なんて有り様だ、ジル。いよいよ焼きが回ったんじゃないのか。俺に隊長を押し付けといて自分はまたスタンドプレイだと? 何度目だ、ええ? こういう場合は事前に俺を呼べと何遍言ったらわかるんだ。尻ぬぐいだけさせられるこっちの身にもなってみろ!」
「悪かった。今回は嵐のせいもあるだろ、そう怒るな」
ガストンは苦笑している。ギュンターは罵倒して少し気が済んだらしい。ガストンの前に座り込んだ。
ケガの痛みに顔をしかめながらガストンが口を開く。
「【炎の闇】だ。フェルディナントの箒が今追ってくれている。島の西端を目指していると先程聞いたが――」
「今も進路は変えていません」
フェルドは今は座り込んでいた。こちらも痛そうに顔をしかめているが、少しずつ背筋を伸ばして、ギュンターを真っすぐに見た。ギュンターは頷き隊員たちに指示を出した。四人のうち三人がぱっと走り出す。
それからガストンは要領よくギュンターに事情を話した。リンは注意深くそれを聞いていたが、ふと気づいた。ウィナロフの姿が消えている。逃げ足の速い人だ。
「――わかった」
ギュンターは立ち上がり、今度はフェルドの方へ行った。目の前に座り込んで、深々と頭を下げる。
「ありがとう、フェルディナント=ラクエル・マヌエル。君の働きに感謝する。その上相棒の身が心配だろうに、箒をグールドから離さないでくれてありがとう。相棒を我々も捜そう」
一緒に来た警備隊員の最後の一人がギュンターの視線を受けて走って行った。フェルドがため息を漏らし、ギュンターが安心させるように微笑んだ。
「しかし君達は、よくよく厄介事に巻き込まれる性質のようだね」
ガストンが頷く。
「全くだ。だが出張医療と今回の件は繋がっているようだから、偶然が重なったと考えるのは正しくない」
ギュンターはガストンを振り返った。
「それは……我々が校長を追い詰めれば、彼女を狙う【魔女ビル】の誰かも捕らえられると言うことになるな」
「どうかな、まだそう判断できる段階には至っていないんじゃないか。だがそうだといいな」
「……全くだな」
「あいつが西の端に着きました。崖になってる」
唐突にフェルドが言った。ギュンターは胸元に下げた四角い小さな機械を手にして、その機械に向かって言った。
「――標的が島の西端に着いたそうだ。位置は? ――そうか、充分に注意して周囲を包囲しろ。銃が一挺、ナイフ一振りが確認されてる。……よし」
「待ってください」フェルドが鋭い声を上げた。「……飛び込みやがった!」
「飛び込んだそうだ!」
しばらく、その機械の向こうから大勢の叫び交わす声が流れてきた。フェルドは目を閉じて険しい顔をしていたが、数分後に目を開けて、ギュンターを見た。
「……見失いました。すみません」
「いや、充分だ。水の中を箒で追うのは無理だろう、君はレイエルではないのだから」
ギュンターは言い、腰を浮かせた。
「箒をもう戻してくれて構わない。グールドはエスメラルダ出身のルクルスなのだから、人魚の脅威を知らないわけではないだろう、だから、船がたくさん着いたことで自棄になったのかもしれない」
そうかなあ、とリンは考えた。
あの男が、そう簡単に自棄になどなるだろうか。
フェルドも同じ考えらしく、無言だった。ギュンターは言葉を重ねた。
「今日この場所に君達が居合わせてくれたことは我々にとってとても幸運なことだった。だが――君達がここにいることを〈アスタ〉は知らないのだろう?」
「そうです」
「よし。わかった。心配するな。アリバイは頼んできたんだろうね?」
フェルドがもう一度頷き、ギュンターも頷いた。口裏はあわせるから心配するなと、警備隊長が請け合ったのだから大丈夫だろう。リンはその時、背後の森の中で、駆けつけて来ている保護局員たちが驚きの声をあげたのを聞いた。驚きの声と――安堵の声と。
振り返る。
ラルフとマリアラが、警備隊員たちに取り囲まれている。
ラルフが威嚇しているようだ。リンはほっとして走った。
「マリアラ!」
*
ようやく【壁】の空気孔のある野原に着いたとき、そこにはラルフの話よりも大勢の人達が集まっているようだった。上陸してきた保護局員たちなのだろう。皆知らない顔ばかりだった。若い人がとても多い。マリアラとラルフに気づいて彼らが近づいてくるのを、ラルフが毛を逆立てる猫のような形相で威嚇する。
「なんだよ、あんたら――」
「マリアラ!」
リンの声がした。同時に人垣の向こうから彼女が現れて、まっしぐらに飛びついてきた。
「無事でよかった……!」
「リン」
マリアラはホッとして、リンの細い身体を抱きしめ返した。道すがらにラルフから、どんな状況だったのかを聞いていた。今さらながらにゾッとする。リンが無傷で済んだのはフェルドがリンを隔離してくれたからだ。
リンがいつか保護局員になったら、こういう現場に何度も居合わせることになるだろう。その時リンを隔離してくれる誰かがいるとは限らないし、そもそも一人前になったリンは隔離されることを良しとはしないだろう。
ガストンとベネットの傷はひどかった。警備隊員の人たちが包帯で血止めだけはしているようなのだが、魔女の本能がうずくようなひどいケガだった。彼らは一人前だからなのだと思わずにはいられない。いつかリンは彼らと同じ境遇になる。そんな危ない仕事はやめて欲しいと言いたいが、自分が軽々しく言える立場でないことも重々分かっている。
この場にディノを始めとする“独り身”の右巻きたちがいないのは何故なのだろう。狩人が相手だから呼ばれなかったのだろうか。
リンに連れられてフェルドのところへ行くと、フェルドはマリアラを見て顔をしかめた。ラルフの話ではひっくり返ったまま動けないようだということだったが、今は身体を起こして、地面の上にあぐらをかいて座り込んでいた。ガストンもベネットもリンも警備隊員たちも、まずはフェルドを動けるようにしろと口を揃えたので、マリアラはおずおずとフェルドのそばへ行った。イェイラの話がまだ頭の中でわんわん鳴り渡っているのに加え、フェルドがなんだか、ひどく怒っているように見えるので。
「遅くなってごめんね、フェルド」
「……いや、そんなのはいいんだけどさ」
じゃあ何で怒っているのだろう。どうしても、気後れせずにいられない。
フェルドは立っている状態の時に額を【銃】で撃たれたという。大陸鉄道で狩人に襲われたときの記憶を思い返せば、今身体を起こしていられるのが不思議だ。首の後ろに左手をかざすと、フェルドが身体の力を抜いた。痛くて怒っていたのだろうと思うことにする。
「大変だったね、フェルド。狩人が入れなかったって聞いたよ。ありがとう。お疲れ様」
そう言うと、フェルドがマリアラを睨んだ。
この目は以前も見たと、マリアラは考えた。
――そうだ。出張医療の帰り、あの鉄道の中で、同じ目をして睨まれた。
「なんで出張所から出たんだよ」
そうか、怒っているわけじゃないんだ。じわりと、胸に温かな何かが湧いた。
そして考えた。――湧いてしまった。
なんて浅ましいのだろう。フェルドが心配してくれた。マリアラには本来、そんな権利などないのに。それがわかってしまったのに――こんなにも嬉しいなんて。
「先生をルクルスの人たちが守って出て行ったの。ハイデンさんとネイロンさんという人が残ってくれた。そこへザールさんが来て……【銃】で狙われたから」
「ミフは?」
「……」
ラルフの入れ知恵をおさらいした。
言わなければ駄目だと、ラルフは言った。そう、言わなければフェルドを納得させるなんて無理だ。
「……イェイラが」
フェルドは座り直した。「イェイラが?」
「そう。その……」
言いにくい。告げ口をするようで、いたたまれない。
「……えっと……やっぱり【銃】を持って、わたしのことを撃とうとしたの……」
隠しておきたかった。知らないでいて欲しかった。
“フェルドはショックだろうからね”――ラルフはそう言った。何てラルフは優しくて賢い子なのだろうとマリアラは思った。それに引き替え、なんて自分は浅ましくて、身勝手なのだろう。
マリアラが隠しておきたかったのは、フェルドの気持ちを慮ったからじゃない。
イェイラが本当の片割れなのだと言うことを、フェルドに知られたくなかったからだ。
フェルドが知ったらどうなるのだろう。本当の相手を知ってなお、こんなに魔力の弱い出来損ないのマリアラに、いつまでも付き合ってくれる――そんなことが起こりうるわけがない。だから延命を図ったのだ。相棒という、このかりそめの立場を少しでも長く。いつか別離が訪れるのだとしても、それまでの時間を、少しでも。
でもラルフの言うとおり、確かに秘密にしておけることではなかった。マリアラの身勝手でフェルドから真実を隠すわけにはいかない。ミフが凍らせられてしまった事実についても、魔女の関与を抜いては説明ができない。マリアラがもたもた思いつく程度の稚拙な嘘で、フェルドをごまかせるはずもない。
フェルドが事態を悟るのを、マリアラは黙って見守るしかなかった。
フェルドはずっとイェイラが苦手で、医局を避けていた。雪山でケガをしたときは何でもないと隠そうとしたし、イーレンタールと一緒に空から落ちたときには血まみれのまま街中を飛んで、ディアナの治療院に来る始末だった。イェイラはフェルドに“何か宝物”を持っているはずだと話し、そんなものないと言っても信じなかったと、以前話していた。
マリアラがイェイラに殺されそうになったのは、フェルドが原因だ。イェイラの関与を話したら、フェルドがそれを結論づけるのは避けられない。イェイラが恨めしかった。きっと傷つくとわかっていたのに、それでも隠しておけない事態になってしまった。
彼自身にはどうしようもないことなのに。避けられることではなかったことなのに。
それでもそれは、厳然たる事実だった。
「……理由は?」
フェルドが低い声で訊ね、マリアラは首を振った。
「わからない。でもミフは水に取り込まれて凍らされちゃったの。ラスなら治してくれるかな……」
「ほんとに?」
重ねて訊ねられ、目を伏せる。無理だと、思う。今ここで。こんな状態で。フェルドの本当の片割れが誰だったのかを思い知らされたばかりの今、平然とその事実を口にできるほどマリアラは強くはなかった。フェルドがじっとマリアラを見ているのを痛いほどに感じるが、顔を上げることができなかった。何と言うことだ――本当に、何と言うことだろう。フェルドの顔をまともに見られなくなる日が来るなんて。
ややしてフェルドは、ひとつ息をついた。
「そっか」
優しい人だと、マリアラは思う。
「でもほんと、無事で良かったよ。……ごめんな」
ううん――出た声は我ながら、呻き声のようだった。




