エピローグ
一週間後。
穏やかな、気持ちのいい昼下がり。
リンは自分の部屋で、香茶を飲みながら本を眺めている。が、内容がちっとも頭に入ってこない。湧き上がる衝動を発散しようと、五分ごとに立ち上がってはうろうろ歩き回らずにはいられない。同室の、自分の机で雑誌をめくっているダリアも呆れ顔だ。
「ねーリン、ちょっと落ち着きなよ」
「落ち着いてる。落ち着いてるよ」
「どこがよ」
「あっ!」
窓の外ををすかし見てリンは声をあげた。ダリアが腰を浮かせる。
「来たの?」
「違う」リンは顔をしかめた。「やだなー……なんでよりによってあの子達なの」
寮の前の広場を、三人の少女が通りかかったのだ。
リン自身の知り合いではないが、顔くらいは知っている。
近くの寮の子達だ。かつてマリアラの同寮で、専攻も一緒で、マリアラが孵化したと同時に排斥した、あの三人組。
「……ってなんでそこで立ち止まんのよ、あっち行け! しっしっ!」
「犬じゃないし聞こえてないし」
「どうしよう、これじゃあマリアラが来づらいじゃない……!」
「追っ払って来れば?」
「口実は!?」
「ないよねー」
「ダリア冷たいよ!」
「しょーがないよ、リン」
ダリアは冷静に香茶をこくりと飲んだ。
「もともと魔力が強ければ、孵化しそうな子だけ集められた寮に入れられるけど、マリアラはそうじゃなかったからしょーがないの。孵化したら、それまでの友達とは疎遠になっちゃうものなの。リンは前から仲良かったって白状してくれたけど」
「白状ってなによ」
「リンの心情としては近いんじゃない? あたしに黙ってたもんね。言いづらかったんでしょ」
「う……」
「リンみたいにね、孵化する前から友達で、孵化した後も仲良くしていきたいって思うようなのは特別よ。希少価値よ、レアケースなのよ」
「そう……? ダリアでさえ、そう思うの?」
「そうねえ、あたしは、マリアラと、孵化する前から友達じゃなくて良かったなあって思ったわ」
正直に言われ、リンは鼻白んだ。ダリアはにっこり笑う。
「だから嬉しい。今日初めてマリアラと、仲良くなれそうなのがね。初めっからマヌエルだってわかってれば、仲良くなる自信はあるわよ。でも、たとえばリンがさ、突然孵化してマヌエルになっちゃうのはキツイ。しょうがないってわかっていても、裏切られたような気にね、なっちゃうと思う。どうしても」
「……あたしも、そうだったよ」
「うん、だからさ。リンがすごいなって思うわけよ。でもリン、自覚した方がいいわ。あんたみたいなのはレアケースなんだから、他の子にまでその心構えを要求するのは酷だわよ。リンにはどうしようもないことなの。これは、マリアラが乗り越えなきゃいけないことなんだから。来なければ来ないで、しょうがないわよ。リンにできることは、約束すっぽかされても怒らないであげることくらいよ」
「ううう~」
三人は、通りがかった知り合いと立ち話をしているようだ。リンは両手の指を曲げてそちらに向けた。
「失せろ~失せろ~」
「やめなって。リンが【魔女ビル】に行けばよかったのに」
「ダリアが会いたいからここに呼べって言ったんじゃん……!」
「ここに呼べとは言ってない。あたし的には【魔女ビル】最上階の喫茶店で名物パフェでも構わなかったのよ?」
「嘘だ! 偶然を装って通りかかって友達になるって言った!」
「【魔女ビル】の喫茶店で通りかかっても良かったってことよ」
「一般学生が【魔女ビル】に偶然通りかかるなんて不自然でしょーが!」
「あたしなら不自然じゃなくってよ」
ほほほ、とダリアは笑う。確かにこの子は【魔女ビル】に入り浸るコネを持っている、とリンは思い、今更そんなこと言われても、と唇を尖らせた。
と。
「来た……!」
リンは声をあげた。
青空にひとつ、ぽつりと、黒い制服が見える。
制服が、黒い。
「やったー! やったやったやったやったっ、黒い制服ー! 魔女だ魔女だ、魔女になったんだー!!」
長い亜麻色の髪をなびかせたマリアラが、向かいの建物の屋上までやってきていた。気にしない魔女も多いが、マリアラは居住高度を飛ぶのはマナー違反だと、ちゃんとわきまえている魔女だった。居住高度を箒で飛ばれると、窓から室内が丸見えになってしまうから、嫌がる人はとても多い。
屋上で降りて、こういう時のために壁につけられた階段を軽やかな足取りで降りてくる。
リンは急いで部屋を飛び出し階段を駆け下りた。五階分の階段を一気に駆け下り、
「リン=アリエノール!」
寮母に怒鳴られてぴたりと足を止める。しまった、と思う。寮母は目を吊り上げて恐ろしい形相だ。
「今すぐ部屋まで戻って、落としてきたお行儀を拾ってらっしゃい!」
「りょっ、寮母さん今日は! 今は今だけはどうかご勘弁を……!」
「口答え!? 二往復したいの!?」
「お願い寮母さん! 友達がピンチなのっ、寮母さんもわかるでしょう!? 自分のこと嫌いな女の子が三人も待ち構えてるその前を、ここまで歩いて来なきゃいけないの! 今すぐ助けにいかなくちゃ!」
「あんた何言ってるの、リン」
「お願い寮母さん! 今だけ! 戻ったら三往復しますから!」
「それじゃ意味ないじゃないの」
「お願い……!」
リンのまなざしに、寮母は呆れたようにパタパタ手を振った。
「あーハイハイ、行ってらっしゃい」
「ありがとう寮母さん大好き愛してるー!」
寮母が後からきたダリアに「どうなってるのあの子、」と言うのを背にリンはロビーを駆け抜け、玄関を飛び出した。
建物を降りてきたマリアラは、確かに、三人の少女達に気づいたようだった。一瞬足が止まり、頬が赤く染まったのが、遠目のリンにもよく見えた。
でも、マリアラは顔を上げ、確かな足取りで歩いてきた。三人と立ち話していた通りすがりの少女が、「あれー」声をあげたのが聞こえた。
「マリアラ=ガーフィールドじゃない? え? 孵化したのー?」
「うん、そう。……久しぶり」
穏やかに、ぎこちないまでも笑みまで見せて。
マリアラは堂々と、三人に挨拶をした。
三人はまごついたようだった。しかし返事はなかった。リンがその前に、マリアラのところに駆けつけたからだ。
「マリアラー!! おめでとうおめでとうっ、正式な魔女! おめでとうー!」
抱きつくとマリアラが笑った。
「リンも専攻必須単位、無事取得、おめでとう」
「ありがとー! 聞いたよ、嘆願書、出してくれたんだって? お陰で助かったよー」
「出さなくてもちゃんと救済措置とりますよって言われたよ」
「うんうん、やっぱそこまで鬼じゃなかったね! でも嬉しかった~」
「リン=アリエノール」
声をかけてきたのはやっぱり、通りすがりの少女だ。
「ガーフィールドさんと、友達だったの?」
「うん、そーだよ! ずーっと前からね! さーマリアラ、こっちこっち! 寮母さんに紹介するから!」
魔女を連れていけば、寮母もそれ以上小言は言わない……はずだ。
広場を突っ切る間に、リンは囁いた。
「あんまり時間ないんだよね? どれくらいいられるの?」
「うん、三十分くらいかな。これからまた研修」
「ふうん、大変なんだねえ、魔女って」
「ううん、こないだの事後処理に時間を取られて、色々と遅れちゃってるだけ」
「そっか。……あのね、マリアラ。あたしね、あのときミフには言ったんだけど……保護局員、目指すことにしたの」
ダリアが通りすがろうと待ち構えているはずだ。話せるのは今だけだと、リンは早口で言った。
成績のあまり良くないリンには夢のまた夢だ。ダリアや寮母に聞かれたら、真顔で諭されるだろう。現実を見ろ、と。
でもマリアラになら言える。
やはりマリアラは、頷いた。
「うん、ごめん、あの時ミフから聞いてた。頑張ってね、リン。応援する」
「ありがとう。頑張るよ」
『魔力の弱い』マリアラは、薬の勉強をしているそうだ。なるべく少ない魔力で最大の効果をあげられるよう、努力しているのだろう。確かにマリアラだとリンは思う。真面目で頑固で勉強家で頑張り屋で、不器用なマリアラだ。
ならば自分もできるだけのことをしよう、と、思ったのだ。
孵化しなかった、魔力の弱い、ただの人間である自分を、言い訳にするのはもうやめよう。
寮の玄関が近い。最後にと、リンは囁いた。
「で、ねーねー、相棒はどうなった? 誰になったの?」
「あ、それが――」
マリアラが言いかけた、その時だ。
がばあっ! と、寮の玄関が開いた。
「あ、こっ、こんにちは! えっと、えっと、りりリンの友達? あたしダリアです。リンの同室なの! よろしく!」
ダリアがものすごい勢いで『偶然通りかかり』、リンは思わず吹き出した。まったく不自然な通りかかり方だった。マリアラは目を丸くしており、ダリアがリンに抗議する。
「何で笑うのよ!」
「だあってダリア、焦り過ぎー!」
「うるさあい! ちょちょちょっと手がっ、すべったんだもん!」
いつも冷静にリンを諌めるくせに、さっきまであんなに落ち着いていたくせに、意外に緊張していたらしい。リンは笑って、マリアラに言った。
「マリアラ、こちら、ダリア=リントン。同室の子でね、すっごくいい子なんだよ」
「うん、試験の時、話してくれた人だよね? 会えて嬉しい。初めまして、ダリアさん。マリアラ=ラクエル・マヌエルです」
ダが取れた!
リンは感動した。
そうだ、もう、マリアラは仮魔女ではない。ちゃんとした魔女になったのだ。
リンの感動を知ってか知らずか、ダリアはいそいそとこちらに回ってくる。リンとは反対側からマリアラの腕を取った。
「初めましてー! さーさー、どーぞ入って入って!」
二人がかりでマリアラを寮に招き入れながら、あの三人は見ているだろうかとリンは思った。
魔女であるマリアラを暖かく迎えるダリアを、見ているだろうか。
孵化したからと言って皆で結託して無視した一年前の自分達が、どんなに狭量だったかを、思い知っているだろうか。
でも、そんなのはどうでもいいことだ。三十分しか時間がないのだ。ダリアと寮母に紹介し、お茶を入れお菓子を出し、と、やることはいっぱいある。
リンは後手に寮の扉を閉め、ロビーのソファーへとマリアラを連れて行った。
『仮魔女物語』了。
お付き合いありがとうございました。
次は番外編『治療院の魔女』が始まります。全部で五話ほどの予定です。