南大島:警備隊第一詰所付近の森(1)
ステラ=オルブライトは防水仕様の迷彩服に身を包み、保護局警備隊第一詰所から少し離れた藪の中に身を隠している。
雨はだいぶ弱まっていた。そろそろ嵐が通り過ぎようとしているのだろう。
晴れていればそろそろ夕焼けという時刻だ。周囲はいよいよ暗い。動き出さなければならないとわかっている。ガストンが関与していると判明した。アルフレッド=モーガンは奪い返されてしまったようだし、雨が上がったら狩人を本土に連れて行く手はずになっていたが、今夜それをするのは危険すぎる。逸る狩人たちを宥めるには、“あの人”に出てきてもらわなければ無理だ。そのためには全てを報告しなければならない。遅れれば遅れるほど事態は深刻になっていく。
なのに、ステラは今も藪の中で身を潜めている。
ザールの失敗を、“あの人”に報告できないでいる。
――こんなに簡単に。
――こんなに呆気なく。
同期の出世頭。利口でずる賢く、“あの人”の覚えもめでたく、汚れ仕事も厭わずこなし、出世街道を着々と淡々と登り詰めていて。近いうちに【学校ビル】か【魔女ビル】の警備隊詰所長になり、続いて警備隊長に就任し、果ては元老院議員だろうと目されていた、あの男が。
こんなに簡単に失敗する。――それが、信じられなくて。
と。
合羽を着た一団が第一詰所の方からやって来た。フードをすっぽり被っているから顔は判別できないが、背の高い細身の若者らしき人物がふたり、華奢な少女のような体格の人物がひとり。その三人も若そうだし、遅れてやって来た四人目はどう見ても子供である。背の高いひとりがザールの横に屈み込み、どうやら息を確かめている。何か話しているようだが、雨のせいで聞き取ることはかなわなかった。ステラはできるだけ藪の中に身を縮めた。万一にも気づかれたら厄介だ。
雨のお陰か、誰も気づかなかったらしい。華奢な少女のようなひとりが辺りを見回しながら先へ行き、三人がその後を追っていく。彼らは誰だろう。誰が関わっているのだろう。恐らくはルクルスだろうが、もしかして、ベネットの本土の頃の仲間が密かに上陸していると言う懸念も――
――ベネット。
雨の中ステラは唇を噛んだ。数日前、ベネットを“こちら”に入れても構わないと判断したのは、他ならぬステラだ。ベネットの演技を見抜けなかった失態にじりじりと身を焼かれている。ベネットの作り話にすっかり騙されてしまった。どうせ保護局員によくいる脳筋だろうと侮ってしまった。ビル=レンドーと“裏取引”をするつもりだという作り話に、まんまとのせられてしまったのだ。
――許せない。
謎の四人が立ち去り、またザールだけが残された。雨に打たれて、長々と伸びているザールの姿が滑稽で、情けなくて。
ステラは立ち上がった。“あの人”に報告するのはザールを起こしてからにしようと、何か言い訳のように考えた。嘲ってやるのだ、ザールを。今までずっと周囲全てを見下して、自らの出世の足がかりにし、ライバルを全て蹴落としてきたあの男に、自分のふがいなさと惨めさを突きつけてやりたい。どんな顔をするだろう。泣くだろうか、喚くだろうか、“あの人”に報告しないでくれと、這いつくばって頼むだろうか。
「……ちょっと、起きなさいよ」
いつでも“あの人”に連絡できるよう無線機を握りしめて、ステラはザールを揺り起こした。どこにでもいるような、平凡な顔立ちの男だ。イェイラはザールの失脚を知ったらどうするだろう、そう思うと、昏い悦びが胸を満たす。ザールはイェイラが自分を愛していると信じ切っているが、ステラに言わせればそんなことはあり得ない。ザールが失脚したらイェイラは簡単に捨てるだろう。イェイラがザールを傍に置いているのは彼を愛しているからではない。自分の役に立つ男、だからだ。
――みじめで、無様で、情けない男。
「……うう……」
しばらく揺すると、ザールはようやく目を開けた。雨はもう、小降りになっていた。薄闇の中にザールの茫洋とした表情が見えている。あどけないと、言えそうな。
「……ステラ」
「おはようザール。こんなところで優雅にお昼寝? 暢気なものね」
「……っ、ガストン……!」
ザールは跳ね起きかけ、「っ」と息を呑んだ。ガストンはああ見えて、敵と定めた相手には容赦しない男だ。ザールが生きていたのは、後で尋問するため。“あの人”へのつながりを吐かせるためだけだ。ザールはみぞおちの辺りを押さえて呻いた。ステラはそのうつむけた横顔に浮かんだ憎悪の表情と、短い髪に覆われたうなじにぞくぞくした。ああもっと貶めてやりたい。ガストンに負けて倒されて、こんなところで無様に伸びていた自分のふがいなさに身悶えする様子を思うさま眺めたい。
「ガストンはどこへ、グールドは……!」
「作戦は失敗よ。あんたの甘さのせいでね」ステラはできるだけ押さえた口調で言った。「今から“あの人”に連絡しようと思うんだけど、その前に、あんたを起こしてあげようと思ったの」
「……」
「ガストンはもうギュンターに連絡しているはずよ。海底トンネルにも既に検問が布かれているはずだし、嵐が過ぎて波が少し落ち着いたら船団がこちらに向かうはず。島を包囲される前に狩人たちを隠すか、一度向こうに帰さないと」
ザールはしばらく考えていた。どうしてだろうとステラは思った。ザールは取り乱さない。自らの失態に歯ぎしりする様子も、屈辱に震える様子もない。
ややしてザールは、ステラを見上げた。
「ステラ、手伝え」
「何を?」
「狩人に【空気孔】を盗ませる」
ステラは瞬きをした。「……は?」
ザールはステラの戸惑いなど意にも介さなかった。噛みつくような性急な口調。
「たまご狩りを見返りにするのはしばらく無理だろう。その代わり【空気孔】の半分を手土産にする。通行証、いや約束手形代わりだ」
「……あんた」
「ガストンとベネットを殺す。グールドの加勢に行く。“あの人”への報告は、それが済むまで待て」
まだ立てないらしく、ザールは地面に座り込んでいるのに。
低い体勢から睨み上げられて、ステラはぞくぞくした。悔しいが、ザールは知恵が回る。“あの人”に重用される理由の一端が、今目の前で覗いている。確かに【空気孔】の半分を渡されるならば、狩人は文句を言わずに撤退してくれるだろう。次の機会、双方共に準備を整え直してから、また改めてたまご狩りに来ればいい。それを約束する保証の代わりにも、なる。
同時に国内への言い訳もこれで立つ。ザールら、第一詰所のメンバーが狩人と通じたことを知っているのは今のところガストンとベネットだけだ――ガストンは既にギュンターに連絡しているはずだが、ガストンとベネットさえ口を封じてしまえば確たる証拠はなにもない。
筋書きはこうだ。何らかの方法で狩人が国内に入り込み、南大島から本土へ上陸しようとした。ガストンとベネットが察知して未然に防ごうとしたが返り討ちに遭い、同時に【空気孔】を盗まれてしまった。狩人は【空気孔】を利用して逃げた。そうつじつまを合わせれば、エスメラルダは大混乱に陥るだろうが、ザールとステラの罪はそれで隠せる。
ステラは身を震わせる。官能と呼べるほどの甘美な疼きが全身を駆け巡る。もう少しで、いいわよ、と答えそうになったその時、
ぴるるるる、と、明るい電子音が鳴った。
「ちょっと待て」
ザールは低く言い、懐を探る。ぴるるるる、という音がもう一度鳴ったとき、ステラは『出るな』と言おうとした。嫌な予感。しかしステラの言葉より早くザールの指がボタンを押し、優しいまろやかな声が無線機から流れ出る。
『ザール。私』
――イェイラ……!
ステラはもう少しでザールの手から無線機を叩き落とすところだった。が、ザールの返答がその四肢を縛り付けた。
「イェイラ」
ザールの声は、まるでとろけるような。祈るような、睦言のような。
座り込んだ姿勢のまま無線機を耳に当てたその姿に、女神の前に跪く信者の姿が重なる。
――ああ、ダメだ。幻滅だ。
ステラは立ちすくんでいた。
――これが本当にさっきまでのザールなのか。
失敗しかけた作戦を上手く丸く収めるための方策を一瞬で練り上げた男の風情はかき消えて、そこにいたのは、ただの操り人形だ。女神の意のままに動くことに恍惚とする、愚かな信者そのものだ。




