南大島:警備隊第一詰所(11)
「わたしの、相棒が」
「ん?」
「今ちょっと出てるんですけど、近くにいるんです。あの……相棒がね、校長先生に呼ばれて……目の前でみるみる若返るのを見たと、話していたんです。事情があって、それ以上詳しくは聞けなかったんですけど、でも、それって」
「ふふ」
モーガンは、笑った。哀しげに。
「僕もその噂は聞いたよ。ショックだったな。僕が歴史学にのめり込んだのは、幼い頃にデクター=カーンの冒険譚ばかり読みあさった後遺症だと言えるからねえ。僕はまだそれを自分の目で確かめたわけじゃないし、信じたくないな。世界地図を描くのに夢中になるあまり、巨人にでも踏みつぶされて死んでくれている方がよほど夢がある」
「……ですね」
「だが、弁護するわけじゃないんだが。不老として知られている人間は、何もデクター=カーンだけじゃないんだよ」
マリアラは、驚いた。
「え!?」
「『エスティエルティナの愛娘』と呼ばれる女性を知らないかな? エスティエルティナの娘なのだから、そりゃあ魔性の存在とされているから、邪教に傾倒するかある思惑を持って調べるかでもしない限り、彼女を知ることはないだろうけれどね。だがエスティエルティナが本当に邪神かどうかも疑わしいと、僕は思うよ」
「……」
モーガン先生はやはりモーガン先生だ。マリアラはつくづくそう思った。
臆病者だと自分を卑下していたけれど、やはりこの人は、マリアラが心酔したモーガン先生だ。ひらめきは柔軟な精神に舞い降りる。モーガン先生は、以前よくそう言っていらした。
“過去”でマリアラは、エスティエルティナが“邪神”の名前ではなかったことを知った。
それは剣の名前だと。自ら飛び回り持ち主を選ぶ剣の名前なのだと、研究者が確かにそう言っていた……
「ある強国が別の宗教を奉じる国を攻め滅ぼし、その住民を自らの国に取り込む時には、往々にしてその宗教をも奪う。滅ぼされる前にはあがめられるべき偉大な神だったのに、滅ぼされてからは邪神や悪魔の地位に堕とされるということは、本当に良くあることなんだ。エスティエルティナはもしかしたら、暗黒期の前には偉大な女神だったのかも知れないよ」
それが真相なのだろうと、マリアラはぼんやり考える。
ルファルファという偉大な闇の女神。その宝物である剣の名前。ルファルファが“邪神”に堕とされる時に、その衝撃を和らげるためか、ルファルファの名は消されるだけに留められ、その代わりに剣の名を使われた。それがきっと、実際に起こった出来事だったのだろう。
「――『エスティエルティナの愛娘』と呼ばれるその女性は、銀色の雄大な獣と共に、時代をまたぎ、国をまたいで、世界の至る所に出没したらしい。外見はいつも違う。だから代替わりしていたのだろうというのが学界の見解だ。だが同一人物が姿を変えていたのだという説も根強いんだ。彼女らに共通するのは銀色の雄大な獣――銀狼だ。それから全身を覆う、若草色の紋章」
「紋章――」
「つまり刺青だ。そして、知っているかね? デクター=カーンも同じものを持っていた」
「デクター=カーンも!」
フェルドは知っているのだろうかと、ちらりと考えた。
「そうとも。デクター=カーンフリークの僕が言うのだから間違いないよ。彼はいつも、真夏でさえ服をきっちりと着込み、手袋もしていたらしい。アルガス=グウェリンやミラ=アルテナといった親しい人間たちだけの場所では、肌をさらした。まあ、デクター=カーンについて僕が知ってることと言えば、荒唐無稽と言えそうな波瀾万丈の冒険譚ばかりだから、もちろん作者の色づけだと考えるのが当然だろうけれどね。だがあそこまでたくさんの物語にその紋章が出てくると、そう信じざるを得ない。
デクター=カーンが不老となった原因が、『エスティエルティナの愛娘』の持つ紋章だったのだとしたら。その紋章さえ手に入れることができれば、誰でも不老になれるということじゃないか? 不老の人間が他にもいてもおかしくない。……まあ校長がそうだと信じたくないだけの、ただの言い訳だけどね」
モーガンは、長々とため息をついた。苦笑混じりに。
「ま、人間長生きは結構だけれど、あまりに長生きしすぎるのも考え物だと言うことだ」
*
モーガンの話が途切れると、雨音が辺りを満たした。
マリアラは、考えていた。よくよく考えた。いったい、エスメラルダで、何が起こっているのかを。メイファと、その論文にかかわる人すべてを殺し、今もまた、モーガン先生を殺そうとする。歴史上の出来事をねじ曲げて、偽の歴史を作り上げる。産湯を使ったばかりの赤ちゃんを死んだことにして、母親の手から取り上げる。そんなことを、一体どうして、行わなければならないのだろう。
――わたしが住んでいるのは、そんな場所だったのか。
なんだか裏切られたような気がした。
――平和で、何の心配もない、安全な楽園だと思っていたのに。
マリアラはデクター=カーンにはそれほど詳しくない。教科書と参考書に載っている以上のことは、本でいくつか読んだだけだ。それはもう、本当に荒唐無稽というしかない波瀾万丈の冒険の物語だった。巨人と戦って倒してみたり、亀を助けて海の底に連れて行ってもらい、人魚のもてなしを受けてみたり――不老になったのはその時の土産を開けてしまったからだとか――書いてはいけない場所の地図を書いてしまったために、銀狼に追われて殺されそうになってみたり。
不老だなんて信じられない。おまけに姿を好きに変えられるなんて、夢物語としか思えない。
けれど、現実に、フェルドはそれを見たという。
でも、とマリアラは思う。暗黒期で失われた膨大な歴史のなかには、デクター=カーンの業績もあるのだ。自分の業績を、なぜ――
――あれ?
「先生……」深く考える前に、口からこぼれていた。「改竄者が暗黒期をこしらえたって、さっき、おっしゃいましたか?」
モーガンは夢から覚めたようにマリアラを見た。
そして苦笑した。
「言ったかね?」
「……言っては、ない、かも。でも、なんだか……改竄者にとっては、暗黒期って、随分便利なものだ、なんて」
「ふふ。僕が今こうして追われているのはそれが理由だ」
モーガンは、にっこり笑った。
「僕はねえ、ガーフィールド君、暗黒期なんか、本当はなかったんじゃないかって考えている。僕の書こうとしている論文は、それがテーマなんだ。……詳しくはまだ言えない。君は魔女だ。それを知るにはあまりに危険な立場にいる人間だからね。だが僕は、この論文はどんな形であれ必ず表に出すつもりだ。大勢の人が知ることになれば、いくら校長でももう隠蔽はできまい。僕は、【風の骨】にここから出してもらったら、ガルシア国にいくつもりだよ」
「ガルシア……国?」
「そう。聞いたことはあるだろう? 存在自体はそれこそ、媛の時代から知られていたんだが、その後【壁】に分断されて行き来ができなくなっていた。その『行き方』が見つかったのは五十年ほど前だが、国交が正式に始まったのは十年ほど前だね。〈アスタ〉は既に贈られているが、まだそれほど浸透してはいないだろうし……あそこへ行けばまだ、真実の断片がたくさん残っているだろう。あちらの国王とその右腕、さらに高等学校の校長は皆英邁な方々だそうだ。たどり着けさえすれば匿ってもらえるだろう」
マリアラはほっとした。モーガン先生は今後どうするつもりなのか、とても気になっていたからだ。
ガルシア国。エスメラルダの一般的な見解では『辺境の片田舎』となってしまうが、実はなかなか侮れないらしく、新大陸で一番高度な文化を築いている国だという噂だ。言葉は丸っきり違うそうだが、孵化した今では意志疎通に困ることはないだろう。マリアラにとっては未知の国だが、いつか行ってみたいと思っていた。遠い国だ。普通の旅行でのんびり行くなら片道でひと月近くはかかる。箒で、大急ぎで飛んだとしても五日はかかるだろう。アナカルシスのイェルディアという町にある【穴】を通ると、レイキアという国の北端にでる。そこから南下して、フェイダという町の【穴】に入ると、ガルシア国と同じ大陸にある森のただ中に出るそうだ。そこからは陸路を行くしかない。
「ウィナロフは、そこまで送ってくれるんですか?」
「さあ、そこまではどうかな。彼も忙しい身だろうからね」
――どうして、あの人は。
もう一度、考えた。
――どうして、こうまでして、モーガン先生を助けようとしているのだろう。
ウィナロフは狩人で、狩人の大半はルクルスだ。ルクルスの地位を向上させるために、必要なことだからなのだろうか。
狩人と言えば、“魔女を狩って殺す”という仕事だけが注目されがちだ。マリアラも今まで、他の活動など何もしていないのだと、ただ魔女を殺すためだけに存在している組織なのだと、思っていた。
でも。
ウィナロフが狩人でなかったら、マリアラは今ここにこうしてはいられなかった。
そして、恐らく、モーガン先生もそうだったのだろう。そう思う。
「……ウィナロフって、変な人ですね」
そう言うと、モーガンは微笑んだ。
「ああ。僕も本当に、そう思うよ」




