第四章 仮魔女と狩人(11)
フェルドはポケットから小さな巾着袋を取り出し、中からいくつかの器具を選び出していた。ぽん、という音と共に元の大きさに戻ったものは、つやつや光る鍋だ。
続いて取り出したのは、黄色いペーストがたくさん入った瓶だった。蓋をきゅぽんと開けて、スプーンで中身を鍋に入れた。美味しそうな匂いがリンのところまで届いてくる。
コーンスープだ。
きゅうっとお腹が鳴った。それをごまかすように、リンは言った。
「あの……ダニエルって、誰ですか?」
「ん? ああ……左巻きのラクエル。三十二歳。性別、男。見た目は金髪碧眼の鬼瓦。中身は面倒見がいいお節介焼き」
言いながら鍋にミルクを注いだ。
「鬼瓦?」
「でかいんだよね。顔も怖い。中身は別に怖くないけどね。口うるさいけど」
それからフェルドは、鍋に右手を翳した。すぐにぽこぽこと泡が立ち、湯気が立った。コーンスープの匂いがほわんと漂う。ペーストを出したスプーンで、鍋をそうっとかき混ぜる。指が長い、とリンは思った。あの若草色の嵐を巻き起こした手が、今は鍋をかき混ぜているなんて、何だか不思議だ。
「ダニエルがいるって聞いて、どうしてダスティンは南大島に行きたくなったの?」
「ダニエルはマリアラの【親】なんだ」
湯気の立つコーンスープをマグカップに注ぎ、リンに差し出しながらフェルドは言った。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
「【親】ってのはそのマヌエルの、孵化を手助けしたマヌエルのことなんだけど、ただそれだけじゃなくて、なんて言うかな、世話役みたいな感じになるんだよ。仮魔女期に色んな仕事を教えたり、研修にも連れて行く。何か困ったことがあったら【親】に言えば相談に乗ってもらえるし……で、俺の【親】はララ=ラクエル・マヌエルって言って、ダニエルの相棒なんだよ。さっき言った研修は【親】とその相棒にくっついていくから、【親】の相棒も【親】みたいな感じになる。だからダニエルは俺のことも【息子】扱いする。すごく口うるさい」
「それは、さあ……」
掠れた声が割り込んだ。ジェイドだ。
フェルドがジェイドを見た。「起きたのか。大丈夫か?」
「それはさあ……フェルドが……逃げるからでしょ」
言ってジェイドは目を閉じたまま笑った。「あー……ありがとー、マリアラ……」
「ジェイド、まだ話さない方がいいよ」
マリアラも我に返ったらしい。まだその左手はジェイドの上に翳したままだが、こちらを見た。
リンは驚いた。マリアラの瞳が、藍色に染まっている。
深い海のような綺麗な色だった。マリアラはその瞳で、リンを見て微笑んだ。
「リン、ごめん、夢中になっちゃってて……無事で良かった。ケガはない?」
「あ、うん……全然ないよ、大丈夫」
「良かった」
マリアラはホッとしたように笑った。フェルドがマリアラにもスープを渡した。
「あ、ありがとうございます」
「それはこっちの台詞」
「えっ」
「ジェイド、飲めるか?」
「無理……いーよ、気にしないで、飲んで」
マグカップはとても温かく、冷え切った指が痛いほどだ。リンはふうふうし、一口啜った。
とても美味しい。
マリアラもまだ少し不思議そうな面持ちのまま、マグカップに口を付けた。濃厚なコーンスープを一口飲んで、マリアラの頬が綻んだ。リンもそれを見て、思わず微笑んだ。
「美味しーね」
「うん」
顔を見合わせて、えへへ、と笑う。
「ダニエルは……」とジェイドが言った。「別に口……うるさく、ないよ。ね、マリアラ」
「うん」マリアラが頷く。「あれ、今、ダニエルの話してたの? どうして?」
「フェルドがね、ダニエルが、口うるさいって」
「うるさくないよ」
「うるさく、ないよね」
「全然うるさくないよ。すごく面倒見が良くて、親切な人だよ。でも、どうしてダニエルの話になったの?」
マリアラは本当にさっきまで何も聞こえていなかったらしい。リンは何だか感心した。本に夢中になると周りの声が聞こえなくなる、というのはマリアラの昔からの癖だった。こんなところも、変わっていない。
「あのね、ガストンさんがね、ダスティンに、南大島に乗せてってくれって言ったの。ダスティンは初めは渋ってたんだけど、あっちにはダニエルがいるぞって言われたらすぐ……」
説明するとマリアラはきょとんとしたが、ジェイドが苦しそうに笑った。
「あー、それはー、……フェルドに、行かれるよりは、マシだよ、ね」
「さっきも言ったけど、ダニエルは世話焼きで口うるさいんだよ」
フェルドが言い、またジェイドとマリアラから「口うるさくない」と反撃を浴びた。顔をしかめて、フェルドは唸る。
「……つまり俺にだけ口うるさいんだよ」
「あー、なるほど」
「ダニエルは俺の【親】のララの相棒で、俺のことをかなり問題児だと認識してる。自分の庇護下にある問題児を矯正させようと、あれこれ口出してくるわけ。それが外から見ると、なんつーか……ダニエルが俺を贔屓してる、とかいう話になるらしくて。つまり今の段階で俺が南大島に行ってダニエルに、ダスティンに不利になることをなんだかんだ吹き込むんじゃないか、と認識されたんだよ。するかっつーの」
マリアラがスープを飲み終えた。ハンカチで口を拭いてから、マリアラはフェルドに向き直った。
「お陰で温まりました。後回しにしちゃってごめんなさい。左腕、見せてください」
「いーよ、大した傷じゃないし、疲れてるだろ」
「でも、〈毒〉が」
「いーっていーって。大したこと――」
言いかけたフェルドはマリアラの表情を見て言葉を切った。
そして左腕を差し出した。
「……お願いします」
「はい」
重々しくマリアラが頷く。リンものぞき込み、顔をしかめた。
一見何でもないように見えるが、よく見ると細かな裂傷が螺旋状に刻まれている。マリアラが光珠を翳すと、血行が悪くなっているのか、肌の色が灰色になりかけているのが見えた。
「痛いですか」
「いや大丈夫、もうあんまり痛くないから」
「大丈夫じゃないです。これで痛くないなら麻痺してる、見た目以上に毒が回ってるってこと。医局で精密検査――」
「嘘ごめん、すげー痛い」
フェルドが真顔で言い、マリアラは目を丸くし、リンは思わず吹き出した。マリアラも笑う。
「今さら遅いです」
もはやほとんど眠りかけているような様子で、ジェイドが言った。
「精密検査、必要だよね……フェルドは、医局が、苦手なんだ。強制しないと、逃げ出すかもよ」
「に、逃げたりしない」
「ダニエルが、口うるさいのは、それが、理由だろー」
つまり前科があるらしい。リンは呆れ、マリアラはまた重々しく頷いた。
「左巻きの強制権を行使して、一週間入院の申請を出します」
「マジでやめて!」
「本当はここで治療してしまいたいけど、毒抜きしてからじゃないと、この傷は塞げませんから。保護局員さんの許可が出たらすぐ【魔女ビル】に帰って、医局に行ってください。いいですか?」
フェルドは顔をしかめた。本当に医局が苦手なのだとリンは思う。
ややして、フェルドは言った。
「……念のために聞くけど、行かなかったら?」
「行くまで後をついて回ります」
「……」
「笑顔で」
「……」
「医局に行きましょう、と書いたプラカードを持って」
「……行きます」
「ありがとう」
マリアラは微笑んだ。フェルドが身じろぎをする。
「礼を言われるようなことじゃ――」
「あ、ええ、それもあるけど、でもそうじゃなくて。助けてくれてありがとう。昨日も、……さっきも」
「あたしも。ありがとう、フェルドも、ジェイドも、それからマリアラも。本当に本当にありがとう」
リンが言うとマリアラは微笑んだ。少し泣き出しそうな笑顔だった。
すると、フェルドが低い声で言った。
「あんまり、助けられてないと、思うんだけど」
「そんなこと――」
「いや、本当にさ。俺、コントロールが苦手なんだ。もっとうまくできてれば、もっと早くに解決してた。ケガは治せても、恐怖とかはそうはいかないだろ」
「大丈夫。ちゃんと助けてもらったから。終わり良ければ全て良し、ってね」
言いながらリンは、これは本格的に保護局員にならなければならない、と思った。マリアラやフェルドやジェイドと言った人たちと今後も付き合っていくためには、保護局に入って、マヌエルと対等に付き合う方法や、劣等感、無力感と戦う方法を、学ばねばならない。
あたしがそうしたいからだ。
そのことが、リンは嬉しかった。
心から、これからもマリアラと付き合っていきたいと願っている。そのことが、本当に嬉しい。
いつしか、辺りには事後処理に来た保護局員たちが大勢集まっていた。きびきびと何か言い交わし、指示を出したり出されたりしながら、事態を把握しようと動いている。まっすぐにこちらを目指して歩いてくる二人に、これから事情聴取とか、されたりするのだろう。ガストンから指示された狩人撃退の筋書きを、おさらいしておかなければ。
「さー明日からまた……」
伸びをしかけてリンは、
唐突に、
現実を思い出した。
「――――――――あっ!! レポート!!」
「えっ」
「ぅあー! わ、忘れてた……! どっどうしようっ、れっレポート提出期限ああ明日……!」
「あっ」
マリアラも急に現実を思い出したらしい。慌てたように腰を浮かせた。
「だっ、大丈夫だよ! もうほとんど書けてるんだよね? 明日の夕方まででいいんだしっ」
「う、うん大丈夫、あとはん……はんぶんくらい……だから……ななななんとか……」
「はんぶん……」
「……」
「……」
「大丈夫だよ、左巻きがいるんだからさ」
ふわあ、あくびをしながらフェルドが笑った。
「さっきの話じゃないけど、左巻きには強制権があるんだ。治療の強要はできないけど、医局への入院を強制できる。左巻きの指定した期日まで、その人間の社会活動は停止される。レポートだろうと論文だろうと自動的に締め切りも伸びる」
「そっ、そーなの!?」
「つーかこの状況鑑みないほど学校院も鬼じゃないだろ。レポート書くどころじゃなかったってわかってるはずだ」
「そうかな!?」
「……たぶん」
そうであって欲しいとリンは祈った。
この期に及んで国外追放など、冗談じゃない。
そう考えて、嫌なことに気づいた。
「仮魔女試験って中止になったんだよね? てことは、あたしの救済措置も中止……ってこと?」
「あ」
フェルドが声を上げ、マリアラも手を口に当てた。沈黙に包まれた三人を不審げに見ながら、保護局員の二人がジェイドを担架に乗せ、持ち上げて運んで行った。そろそろ移動を促されるだろう。
「そこまで鬼じゃないだろ」
フェルドが繰り返した。マリアラも頷いた。
「そこまで鬼じゃないよ。大丈夫だよ」
でもそもそも、専攻必須単位を落とすということ自体がありえない失態なのだ。その唯一の救済措置が、今回の試験だったのだ。それを逃したということに、なりはしないだろうか。本当に大丈夫だろうか。
「リン、大丈夫だよ、大丈夫だよ」
マリアラが繰り返し、リンは力なく笑った。
帰ったら何はともあれ真っ先に、レポートを書かなければ、と思った。左巻きの強制権などに頼らずに、何が何でも締め切りを守ってベストを尽くすべきだろう。
ややしてやってきた担架に半ば無理やり乗せられて移動する間、リンはレポートに書くはずだったあれこれを必死で思い出そうとした。散々な目に遭ったせいで、書きたかったことはもうとっくに逃げて行ってしまっている。
――魔物。
ゆっくりと坂を下る担架の上で、リンは森を振り返った。
――あの魔物がああしてくれなかったら、今頃どうなっていただろう。
見るとマリアラも、ゆらゆら揺れる担架に座り込んで、リンと同じように森を見ていた。哀しげな顔で、何かじっと考え込んでいる。
魔物に知能はあるのか、と、マリアラは聞いた――
彼女は魔物と話をしたのだろうか、と、リンは考えた。
グールドからマリアラを守っていたのだろうあの魔物が、目の前で斃れてしまったとき、何を考えただろう。どんな気持ちになったのだろう。
いったいなぜ、どうして、魔物はマリアラを守り、リンを助けようと言う気持ちになど、なってくれたのだろう。
今まで一度も、考えてみたこともなかった。魔物の生態についてのレポートを書きたいと思っていたくせに、魔物があんな生き物だったなんて、今まで一度も、考えてみたことなどなかった。
――今まで一度も、考えてみたことないの?
からかうようなグールドの声がぽつんと脳に浮かんだ。考えてみたこと――そう、それについても、今まで一度も、考えてみたことなどなかった。給湯器も部屋の照明も、指先から微量の魔力を出して作動させなければならない。ふだん意識することはほとんど無いけれど、コートを乾かすのもシャワーを浴びるのも、暖房もレンジもすべて、魔力がなければ動かすことができないものばかりだ。便利で快適な生活を支える魔法道具を、利用できない人たちが、いたなんて。
言われてみて、初めて、その事実に気が付いた。
――僕はずっと、この森を焼いたらどんな気持ちになるかなあって思ってたよ。
どんな気持ちだったのだろうと、リンは考えた。
あの人は、こんなにたくさんの森を焼いて――どんな気持ちになったのだろうか、と。