南大島:警備隊第一詰所(5)
ウィナロフは、風雨から守られていて明るいこの部屋の中でも、合羽を脱ごうとはしなかった。
以前から思っていたが、ウィナロフはかなり几帳面な性格だ。服の着方にもそれが現れている。ボタンは首から裾まで全部留めてあるし、濡れるのが嫌なのか手袋までしている。狩人が来たときに顔を見られないようにという配慮だろうか、勝手口に背を向けて座って、フードも被ったままだ。だからラルフからは背中しか見えない。その背が普段より小さく見える気がするのは、先程から一言もしゃべらないせいだろうか、それとも、あれを書いてもらわなきゃ困るんだと言った時の、必死さが思い出されるからだろうか。
――何を書いてもらわなきゃならないんだろう。
ラルフは自分が何も知らないということを思い知る。“俺って結構すごいんだよ”とマリアラに言った時の自分を殴りたい。ハイデンやウェインがモーガン先生を匿っていた理由、ウィナロフがモーガン先生をエスメラルダから外に逃がさなければならない理由、そして、ハイデンたちをあんな風に傷つけてまで、モーガン先生を奪おうとした保護局員たちの理由――それにそう、あの綺麗なアリエノールとかいう姉ちゃんと、味方だと言ったベネットという兄ちゃんは、モーガン先生を救おうとした。保護局員を目指していると言っていたのに。保護局員だからって、モーガン先生を捕らえようとする人間ばかりではないということだろうか。半年前もそうだった。ラルフを“保護”しようと追いかけ回してくれた保護局員たちはうざったかったが、狩人の仲間じゃなかったことは確かだ。
先生もずっと黙っている。傷はかなり深かった。意識がないのかもしれない。ウィナロフが先生の傷口の上に左手を載せていて、その手がかすかに上下しているのが見えるから、生きている。……はずだ。
「ウィン……」
囁くとウィナロフは、うつむいたまま、ん、と言った。
「ウィン?」
「……ん? ……なんだよ」
顔を上げもしない。ラルフはそわそわした。ラルフの方は、勝手口に陣取っていた。外を見張っていなければならないから、ウィナロフの前に回ってフードの中をのぞき込むことができない。
先生がケガをしたのがラルフはショックだった。
突き飛ばすのがほんの一瞬遅れた。もう少し早かったら誰もケガしなかったのに。ベネットは、あの綺麗な姉ちゃんをちゃんと助けていたのに。
自分がへまをしたという事実がひどく重く、胸にのしかかっている。ウィナロフには、それでも先生が今まだ死んでいなくて、マリアラの到着を待っていられるのはお前のお陰だと、言ってもらえたけれど、でももっとうまくやっていればマリアラをここに呼ばなくてもよかったのにと、思わずにいられないのだ。
だからラルフはなんとか気分をそらしたかった。なのにウィナロフはひとりで考え込んでいて、なかなか話し相手になってくれない。
「……他の狩人が来てるって、知らなかったんだ?」
言うとウィナロフは、うなった。悔しげに。
ラルフがもじもじするほどの時間が経ってから、ようやく顔を上げた。
振り向いた顔はいつもどおりのウィナロフで、ラルフはなんだかホッとした。でも機嫌は悪そうだった。とても不本意な事態だったらしい。
「……知ってたら南の大島を指定なんかしないだろ。横着したのがまずかったんだ。雪山に来てもらえば良かった……あー、でもな……エスメラルダん中横切って雪山登らせるのもどうかと思ったんだよ……」
「横着、したんだ?」
「ついでに……あー、あー、もう。荷がたまってたからついでにって思ったのも確かなんだ……あー……くそ……」
本当に不本意らしい。ラルフはまじまじとウィナロフを見た。ウィナロフはしばらく口の中だけでぶつぶつと毒づき、その内ため息をついた。こちらに向き直って座り直した。
「だからお前のせいじゃないんだ、本当に。あいつが来ててザールたちに先生の居場所がばれたってのに、まだ死者が出てないってのはすごいことだ。ラルフ、ハイデンたちが死なずにすんで、先生も助かりそうだってのはな、全部お前の手柄なんだぞ。魔女を引きずり込んだのはお前だからな。……あのときもっとうまくやってりゃって、まだ思ってるだろ。俺もそう思ってんの。だからもう気にすんな。俺も気にしないことにする。くよくよしてても何にもならない」
言ってウィナロフは、はー、とため息をついた。二度目だ。
「……それでも、事態は深刻だ。よりによって……【炎の闇】って、先生がさっき言ったよな。グールドはお前の同郷だ。つまりここの出身なわけ」
「グー……ルド」
よく知っている、名前だった。
ラルフよりもう少し年かさの若者たちの間では、英雄のように囁かれる名だ。出奔して十年ほどの間に、レイキアやアナカルシスの諸国で、狩人として何十人もの魔女から魔力を奪ってきたとか、類を見ないほどの短期間に異例の出世を遂げたとか。役付きでありながら現役の狩人として、今もたくさんの魔女を狩りまくっているとか。アナカルシス王から下される褒賞は莫大なもので、湯水のようにそれを使って贅沢な生活をしているとか、王からじきじきに言葉をかけられるとか。ルクルスに生まれてしまったからには、彼のようなのが華々しい生き方というものだ、と言う若者は数多くいる。
そして大人たちの間では、ひどく嫌悪される名でもある。どうしようもない暴れ者だったとか、人を傷つける、あるいは殺すということに、罪悪感はおろかわずかなためらいすら感じない男だとか。平気で嘘をつき、騙し討ちさえ躊躇しない。魔女を殺すためならどんな手段でもとる。赤い液体をかぶって大ケガをしたふりをして左巻きをおびき寄せて撃ち、撃たれた魔女を餌にして、かけ寄った右巻きを物陰から撃ったことがあると、まことしやかに囁かれている。
憧れるような男じゃないのだと、ハイデンもウェインも、『爺ども』は口をそろえて言う。見習うべき男じゃない。あんな男になってはいけないと。
半年前からずっと、揺れ動いてきた。爺どもを馬鹿にする気はないけれど、今やグールドの方が豊かで自由な生活をしているのは紛れも無い事実なのだ。少女であるこの身があの島から自由になるには、狩人になるのが一番簡単な早道だ。自由になれて、金持ちになれて、自分の力を活かすこともできて――それなら自分の自由を犠牲にしてまでマリアラとフェルドに義理立てする理由なんて、あるのだろうかと。
――でも、今は違う。
倒れているハイデンたちに駆け寄ったマリアラと、その手助けをするフェルドの姿が目の前に見えた。
――あそこにもし、赤い液体をかぶって待ち伏せしていたグールドがいたら。
本当にそうだと、ラルフはつくづく思った。グールドは、人でなしだ。憧れるような男じゃない。
ウィナロフも言った。狩人なんか、やめといた方がいい。全く本当に、そのとおりだ。
あの時と同じ声で、ウィナロフは先を続けた。
「……ザールたちがハイデンたちをあんな風に傷つけたのを、グールドは見たはずだ。それを止めなかった。ハイデンたちはルクルスで、ザールたちはそうじゃない。普通ならグールドは、『それ以外』がルクルスを傷つけるなんて絶対許さないのに。……よほどのことだ」
ウィナロフはそう言って、またため息をついた。三度目。
「俺あいつ苦手なんだよなあ……やけに勘がいいし、あっけらかんとしてるくせに残酷だし、その上妙になついてくるし」
「そ、そうなんだ。……あの、ウィン?」
「ん」
「あんたはどうすんの? グールドと一緒に行動しなくて、いいの?」
ウィナロフはもう一度、ため息をついた。四度目だ。よほどに気が重いんだなあとラルフは思った。
「俺の仕事は先生をエスメラルダの外へ出すことだ。それをやめる気はない。グールドは……少なくとも、先生を捕らえるのを見過ごしはしても、積極的に手を貸したわけじゃないはずだ」
「なんでそう言い切れんのさ」
「希望的観測かもしれないけど……【夜の羽】はまだ俺を尊重するだろうってことだよ、自惚れでもなんでもなくて、狩人には【風の骨】が必要だから。……今んとこはね。でも」
ウィナロフは、ぎゅっと顔をしかめた。苦いものでも噛んだかのように。
「グールドが魔女に気づいたらやっかいだな……」
――それって、どういう。
聞こうとして、唐突に、意味を悟った。
ウィナロフはため息をついて黙り、五度目だと、ラルフは思う。本当に不本意な事態、なのだ。
狩人になるのはやめておけとラルフに言ったのに、ウィナロフは狩人であることをやめる気はないらしい。今も不本意そうだ。狩人がウィナロフの『仕事』を邪魔する立場に出て来たことがだ。なんだか裏切られた気がした。フェルドとマリアラに、本当に感謝すると言ったくせに。ウィナロフが今不本意なのは狩人が自分の仲間だからだ。自分の仲間が、自分の仕事を邪魔する立場になったからだ。【風の骨】は狩人の中では特殊な立場にあるとハイデンは言っていた。他の狩人の手助けなんかもってのほかだが、【風の骨】の手助けだけはしてやれと、爺どもは口を揃えて言う。でも、それでも。
それでもウィナロフは、狩人なのだ。その事実は変わらない。
グールドが魔女に気づいて、殺そうとしたら、ウィナロフはそれを阻止することはできないのだ。だって、それが、狩人の仕事だからだ。
なにより魔女を殺したことがあるのだ、こいつだって。こないだ、そう――
――言ったっけ?
ウィナロフがフードの中で、顔をうつむけると、ここからじゃその顎しか見えない。それを見ながら、ラルフは記憶を探った。
魔女をひとりも殺したことないって噂を聞いた、とラルフが言ったら、
そんな噂を信じているのか。俺は狩人なんだぜ、とウィナロフは言った。
ラルフの疑いは残ったし、ウィナロフはそれ以上、それについては何も言わなかった。
「否定してねえじゃん」
言うとウィナロフが顔を上げた。「なに?」
「あんた、魔女を殺したことあるの?」
ウィナロフは驚いた顔をした。
「こないだ言ったよな?」
また否定しない、とラルフは思った。
ただ自分の思いどおりの方向に、ラルフの考えを誘導しようとしているだけだ。息を吸い、呼吸を整える。ここが正念場だ、と言う気がする。
「――言わなかったよ。俺が勝手に、そうなのかなって思っただけだ。はっきり言ってくれよ。あんた、今までに、魔女を殺したことあるの?」
ウィナロフは、ひどく苦しそうな顔をした。
「……あるよ」
「その手で?」
ウィナロフは沈黙した。
「その手で、銃を撃って、魔女から魔力を奪ったことがあるの?」
あるはずがない。そういう気がしたのだ。
ラルフの勘は良く当たる。さっきウィナロフが太鼓判を押した。自分でも薄々そうじゃないかと思っていたこと。ルクルスの中でも特に当たる。そうなら、自分の勘をもう少し信じてみてもいいはずだ。ラルフはウィナロフをじっと見た。
グールドのように、望んで、撃たれた魔女が死ぬと承知の上で、積極的に魔女を撃つなどということを、しそうな奴には思えない。
ウィナロフは答えない。ラルフはじっと待っていた。目をそらさず、注意をそらさず、視線を注いでいた。
しばらくして、ウィナロフは呻いた。
「自分の手を汚さずに誰かを殺すというのは、自分の手を使うよりさらに罪深い」
「……なに、それ?」
「俺は確かに、魔女を狩って追い詰めて撃って、殺したことはないよ。そういう立場になることを避けて来たから。……だから」
ウィナロフの声は、低く、暗く、誰かを呪うようだった。
――誰を呪う?
ラルフは思った。
――自分をだ。きっと。
「だからもっと、最悪なんだよ」




