南大島:警備隊第一詰所→洞窟
嵐は少し、弱まっていた。少なくとも前後左右に翻弄されるほどではなくなっていた。雲が薄くなっているようで、辺りはだいぶ明るくなっている。
走りながら、ベネットが言った。
「こないだお前が森ん中で物音聞いたって言ったろ!」
「はい!」
「あっちだったよな!」
ベネットが指さした方を見て、リンはもう一度叫んだ。
「はい!」
「あっちにはな! いーか、誰にも言うなよ!? 絶対言うなよ! いいな! 研修中のガキに言えるような話じゃねーんだ、だからこないだだって言えなかったんだからな! ――あっちにはな、エスメラルダの【壁】に人工的に空けられた隙間があるんだよ!」
「――」
リンは少し考えた。意味が良くわからない。
「――こっ、【国境】が、あるってことですか!?」
「まーそー! そーゆーこと! 同じもんがあんだよ! 【壁】に人工的に作られた空気孔があんの! 定期的に場所を変えてるし、一握りの人間以外には存在さえ知らされてないし、二十四時間監視してるから、出入りは出来ないようになってんの!」
――狩人が入り込んだ。
――意図的に通した怖れがあるぜ。
そして。
突然、理解した。頭を殴られたような衝撃だった。
――あたしはそれを知ってるじゃないか!
グールド=ヘンリヴェントに初めて会ったとき。マリアラと再会し、一緒に雪山下山を目指す途中で狩人に遭遇した、あの時。
グールドはリンを抱えたまま【壁】を通り、その後、リンはガストンの持って来た『極秘道具』のお陰で、またエスメラルダの中に戻ることができた。あの魔法道具は使われなかった。そう口裏を合わせてもらわなければ困る、と、ガストンが確かに言っていた。
「でも……でも、どうして? どうしてそんな、わざわざ防御を弱めるようなことを?」
弱まったリンの声を聞き取るように、ベネットは速度を落としこちらに少し身を寄せるようにしていた。土砂降りの雨の中、ベネットの炯々と光る目がリンを見ている。
「空気孔っつったろ。【壁】に完全に取り囲まれちまうと、空気が動かなくなってかたまっちまって、ものすごく寒くなるんだとよ」
「今以上に……?」
「ああ、白熊だのペンギンだのしか住めねえくらいの、年がら年中雪と氷の大地になっちまうんだとさ。だから――どうしても必要なんだよ。どうしてもな」
エスメラルダの雪害は、年々酷くなるばかりだと聞く。リンは固唾を飲んだ。それならば、空気孔はどうしても必要だ――本当に、絶対に、必要なものだ。保護局員たちがそれを交替で死守することで、エスメラルダは今もこの世の楽園であり続けている。
「おら、行くぞ。時間がもったいねえだろ」
ベネットはまた走り出す。リンもその後に続いた。いくら打ち明け話が衝撃でも、マリアラが帰ってしまう前に辿り着かなければ、モーガン先生の命は絶望的だ。
「――でな!?」距離が開いたのでまたベネットは怒鳴った。「空気孔の監視してんのは保護局員だろ! その保護局員がどうもな、狩人と通じて、狩人を通したんじゃねーかって、噂があったんだ! 雪山で!」
――それをガストン指導官に知らせたのはゲンさんだ。
リンは再び、ゾッとした。
エスメラルダは【壁】に取り囲まれた楽園だと、リンはずっとそう教えられてきた。外部の人間は立ち入れない。狩人がこっそり入り込んで魔女を狩ったりはしない、できない、と、そう信じてきた。そして、その認識はエスメラルダの国民に共通のものであるはずだ。魔女はエスメラルダの中では警戒なんかしていない。天気のいい昼下がりに、仕事から戻って来た魔女が、その辺の屋上で日向ぼっこをしている姿をよく見かける。左巻きのレイエルだって同じことをするだろう。狩人は入れないと、思いこんでいるからだ。
それが、どうだろう。空気孔を守っている保護局員が狩人を通したら。ただそれだけで、全てが崩壊してしまうほど、脆い楽園でしかなかったのだ。
ようやくリンは、ガストンが血相を変えて嵐の海にこぎ出した理由が腑に落ちた。
「た……大変じゃないですか……!」
「そーなんだよ、大変なんだよ!」
「あのっ、さっきの、ウィナロフ、【風の骨】!? あの人が入ったのって、雪山で、だから、えーと!?」
「違う!」
混乱したリンの言葉から、ベネットは的確にリンの質問をくみ取ってくれた。
「あいつは謎なんだ! ほんとーに謎だ! 【風の骨】が最初に入り込んだのは少なくとも三十年ほどは昔なんだが――」
「えー! あの人いくつ!?」
反射的に叫んでから、
「違うわバカー!」
怒鳴られて、そりゃそうだ、と思った。さっきモーガン先生だって、言っていたではないか。
「何代目か知んねーが、あの若さなんだから代替わりしたばっかだろうがよ! とにかくな、【風の骨】には独自の侵入ルートがあるみてえなんだよ! ガストンさんもずいぶん昔から、それこそ前任者の頃からな、【風の骨】がどこから入り込むのか調べようとしてんだけどさっぱりわかんねえんだと! 【風の骨】ってのは狩人の中でもかなり特殊な立場にあるらしくて、狩人の方でも、【風の骨】がどうやって入るんだか掴んでねえらしいよ!」
――もしかして。
唐突に、そう思った。
――雪山で、リンを抱えたグールドが【壁】を素通りしたのは、その“何か”を、グールドがウィナロフから盗んだのではないだろうか。
そう言えば、そんなことを言っていたような気がする。僕一人では使えないとか、その人に怒られるのは避けたかった、とか。グールドは帰った後、ウィナロフに怒られたのだろうか。
「まあとにかくだ! ちょっと前に雪山から入り込んだってのがあいつだ、【炎の闇】な! ――俺はザールの味方のふりしてたから、今朝な、ザールが南大島の空気孔からもうひとり、狩人を迎え入れるつもりだっつって【炎の闇】をつれてきたから! ガストンさんに連絡したんだ! 俺、魔女を連れて戻ったら、ガストンさんの方に行きてえんだ! あの人がいくら強いっつったって、【炎の闇】も役付きだからなー!」
「ぎゃー!」
もう先ほどから喚くしかしていない気がする。なんだかもう、ものすごく、ものすごく、大ごとだった。
風が少し弱まっているのがありがたかった。雨はまだ激しいが、辺りが見えるし、風に立ち向かわないでいいだけありがたい。リンはそれからしばらくは、前進に専念した。その間に考えていた。ザールは一体どうして、狩人を迎え入れるなんて暴挙を始めたのだろう。雪山で【炎の闇】を迎え入れた保護局員はザールとは別人のはずだ、その人物もなぜ、そんな恐ろしいことをやってしまったのだろう。
保護局員として守るべき、魔女を、そして、エスメラルダ国民全員を、裏切る行為ではないだろうか。
そんな大それたことをするだけのメリットは、いったいどこにあったのだろう。
「ガストンさんはずっと長い間、密かに活動してたんだよ!」
しばらくしてまたベネットが叫んだ。
「……けど今度のだけは見過ごせないだろ! たまご狩りなんて始められちゃ大変だ!」
「たまご、狩り?」
ベネットはリンを振り返った。
「孵化する前の――」
リンは立ち止まった。
孵化する前の。――たまごの。
たまごの段階で、狩る、という、こと?
――ケティ!
魔女は風を使える。水の左巻きでさえ、普通の人間よりは、身を守る術に長けている。
けれど、たまごはそうはいかない。箒に乗って逃げることも出来ない。魔力が平均より強いと言うだけで、ただの人間なのだ。
「……な、んで」リンは喘いだ。「な、なんで!? なんで! なんでそんなことしそうな狩人を、保護局員が迎え入れたりするの!?」
「その辺はまだわからねえ! ギュンターさんが調べてる! お前ここまで話したんだから、お前はもう『こっち側』だかんな! いーな!? 今さらザールとかの方に寝返ったりしてみろ、はらわた抜いて開いて塩ふって天日干しして食うぞ!」
「あたしは魚かー!」
思わず叫んで、三たびリンは走り出した。なんと言うことだ。身体中がそわそわして落ち着かなかった。
ケティは九歳になったばかりの、幼年組の少女である。とても可愛らしく利発な少女だ。雪山で遭難したときもずいぶん助けになってくれたし、色んな研修を一緒に受けて、すっかり仲良くなっていた。魔力がとても強いらしくて、二、三年の内に孵化するだろうと言われていた。一番可能性が高いのは水の左巻きだそうで、それをリンに話したときの、ケティの表情は忘れられない。
――今すぐ孵化しても、医局のシフトに入れるのは十六歳からなんだって。
――早く十六歳になりたいな。
――いろんな人のケガや病気を、たくさん治してあげたいもの。
もしあの子が、孵化する前に、狩人に殺されてしまうなんてことが起こったら。
リンは走りながらも、足からぞわぞわと悪寒が這い上ってくるのを感じた。
――そんなことがもし、起こってしまったりしたら。
絶対許すわけにいかない。リンは苦しくなってきた息を整えながら、心臓の上に手のひらを当てた。
――そんなの駄目だ。絶対駄目だ。
「……洞窟の場所教えてくれたら、あたしひとりでいーですよ! ガストン指導官のとこ、行ってあげてくれませんか!」
万一狩人がガストンを排除して入り込んでしまったらと思うと、いてもたってもいられない。
ベネットは振り返り、足を止めた。リンはベネットに激突しそうになって慌てて止まった。
睨むような目でリンを見て、ベネットは言った。
「……そうしたいのは山々だが、俺ぁな、お前の安全をガストンさんから厳重に命じられてんだよ」
「あたしなんか――」
「うっせー! ほら行くぞ! 早く済ませりゃそれだけ早くガストンさんのとこ行けんだろうが!」
「だけど!」
ベネットは再び走り出し、リンは慌ててついて行った。洞窟はまだ遠いのだろうか。ガストンのいる、空気孔とやらの場所から、どんどん遠ざかっていく。
「狩人が入っちゃったら大変じゃないですか!」
「お前ガストンさんを舐めんなよ!? 狩人のひとりやふたり、どってことないんだあの人は! お前を放ってあっちに行ったら俺が怒られんじゃねえかよ!」
「でも!」
「俺の仕事は今はこれなの! 脇目を振ってる場合じゃねえの! 済ませてから行くんだ俺は! そうガストンさんに教わったんだ!」
リンは泣き出しそうになった。つまりあたしは今、ものすごい足手まといになっているということではないだろうか。
――先生の護衛だってアリエノールがやるよりゃ坊主、お前がやった方が良さそうだよな。
ベネットはさっきそう言った。全くそのとおりだった。あのラルフという少年が、バラノスという保護局員をたたきのめした身のこなしを、リンは思い返していた。あたしがああいう風に動ければ、ベネットは、ガストンも、リンを安全にしておくために貴重な人手を割くということなど、しなくて良かったはずなのだ。




