第四章 仮魔女と狩人(10)
*
ガストンが持ってきてくれた保護局員の“極秘道具”のお陰で、リンを乗せたフィは数百メートル飛んだだけでつつがなく、エスメラルダの中に戻った。
ガストンはリンを見てホッとしたように微笑った。リンは何だかどぎまぎする。
「酷いケガがなさそうで不幸中の幸いでした」
そう言ってガストンは丁重に頭を下げた。
「危険な目に遭わせて申し訳ありませんでした」
「いっ、いえそんなっ!? 顔上げてくださいっ」
まさか謝られるとは思わなかったのでリンは慌てた。ガストンが顔を上げると、彼の持っている光珠に照らされて、とても真摯な表情をしているのが見えた。
リンはまたどぎまぎした。ガストンが表情を和らげる。
「本当に……取り返しのつかないことにならないで良かった」
「お、恐れ入ります。皆様のお陰でつつっ、つつがなくそのっ、そのっ」
我ながら何を言ってるんだ。リンはあわあわして、ガストンはやっと微笑んだ。
「とにかくマリアラ=ラクエル・ダ・マヌエルのところへ戻りましょうか」
「あ、はいっ」
リンはフィから下りようとしたが、フィはそれを阻止するように地面から離れてしまった。ガストンが当然のように先に立って歩き出す。
『ガストンさんは乗りませんか』
フィが軽い口調で言い、ガストンは笑う。
「大した距離じゃない」
「あ、あたしも下りますよ」
『何言ってんだ』
フィが呆れ、ガストンが振り返ってニヤリとした。
「あなたは今重篤な身体および精神被害を受けたばかりなんですから、医局で精密検査を受けるまで本来なら箒の担架で運ばれるべきなんですが」
「えええ!?」
「箒の人手が足りないのでフィだけで我慢してください。フィ、アリエノールさんを下ろすなよ」
『へーい』
「くれぐれもだぞ」
『へーい』
「あっちはどうなった」
『あー、まあなんとか』
少し意味ありげな会話だったのでリンは戸惑った。やっぱり【壁】に穴をあけるというのは、大変なことだったのじゃないだろうか。
「あの、何か……?」
おずおず訊ねると、ガストンは軽く手を振った。
「いや、大したことじゃない。大丈夫ですよ」
『ダスティンは怒ってるけどね』
フィが少し不満そうな口調で言った。ガストンが顔をしかめる。「……そうか。ジェイドは?」
『ジェイドは元々賛成してた。でも今は意識がなくてマリアラが診てるって。大丈夫だって言ってるって。あの状態で魔力を使ったから毒の巡りが速くなったけど、心臓に届く前に治療を始められたから……早く医局につれてって、ちゃんとした毒抜きを始めてもらった方がいいそうだけど』
「そうか。良かった」
『左巻きってすごいな。あんなことまでできるなんてさ』
「あんなことって?」
リンは口を出し、フィが軽い口調のままで言った。
『いくら魔力がいっぱいあっても、使い続けると疲れるんだって』
「あ、そうなんだ」
『そうなんだって。だってほら、体は別に普通の人間だもんね。俺には疲れるって回路がないからどんな感じかはわかんないけど、疲れると集中が途切れたりするんだよね? 人間って不便だね。でもまあ、ぶっとい壁にでっかい錐で穴開けるのってさ、どんな力自慢でも続けてたら『疲れる』よね? でも疲れるそばからどんどん治療してもらえたら何時間でも続けられるでしょ? つまりそういうことさ』
どういうことだ、とリンは思う。でもそれを口に出す前に、フィが口調を変えた。
『ガストンさん、ダスティンが、フェルドに相棒の座を――』
言いかけて一瞬言葉を切り、
『……わかったよ。何でもないです』
とても不満そうに言った。ガストンがフィを見た。
「マリアラの相棒の座を譲らないと、【壁】に穴を開けたことを元老院に報告するって?」
『俺はそんなこと言ってないよ』フィは急いで言った。『ただ、元老院に報告されるとちょっとめん――何でもない。言っちゃダメだって』
「わかった。マリアラはなんて言ってる?」
『マリアラは聞こえてない。ジェイドの治療に集中してるから。そうじゃなきゃダスティンがそんなこと言い出すもんか……あー、わかったってば。何でもないよ』
フィは黙った。リンはむずむずした。
リンを助けるために【壁】に穴を開けたせいで何らかの不利益を被るなんて、とてもいたたまれない。
「ダスティンって、相棒つかまえるのに必死なのね」
言うとフィはうん、と言った。
『でもそれはフェルドも――あ、何でもないってば。ごめん俺、地だといつも喋りすぎるんだよ。はいはい、営業用モードに移行します。ぴー』
そう言ってフィは黙った。もっと喋ればいいのに、とリンは思った。
そこにたどり着いたとき、ダスティンがまだ喚いているのが聞こえた――ツショだぞ! 問題にさせてもらうからな!
「たかが一般――」
「ダスティン」
フェルドが声を上げ、それでダスティンは、リンとガストンが戻ったのに気づいた。言葉を切り、憤然と息を付く。
「問題にされては困る。始末書も困るんだ、ダスティン=ラクエル・マヌエル」
ガストンが穏やかな口調で言い、ダスティンが目を剥いた。
「これはマヌエルの問題です! 一般人に――」
「先程も言ったとおり、保護局員の使用する魔法道具の中に【壁】に疑似通路を作り出すものが既に存在していることは公開されていない。この道具は今夜使われなかった。そう口裏を合わせてもらわなければ困る」
「そんな義理はありません」
「そうか」ガストンは深々と頷いた。「ダスティン=ラクエル・マヌエル。君は現在独り身の右巻きで、雪かきのシフトに入っている」
ダスティンは面食らった。「……それが?」
「雪かきが済んだ後の夕食は格別だろうね」
「……なんの話です」
「君は雪かきや荷運びなどの仕事はマヌエルだけでこなしていると思っているかも知れないが、真実はそうじゃない。雪の中で倒れていた人たちを保護して医局もしくは最寄りの治療院や休憩所に搬送するのは雪かきに同行する保護局員の仕事だ。町の汚れを落とし破損箇所を補修するのもね。それだけじゃない。マヌエルのシフトを組んだり体調管理をしたり、食事を用意したり制服のクリーニング、修繕や乾燥。君の持つ巾着袋の中に入っている様々な魔法道具の補給、メンテナンス。実に多くの“一般人”の存在によって君の仕事は支えられている」
「そんなのわかってる」
「いいや、わかってない」ガストンは重々しく言った。「今後今までと同じサポートを受ける気がないなら、私の要請を無視して元老院にでも何でも報告するといい。私は保護局の上層部には煙たがられているが、下の方の局員たちには意外に慕われている。ダスティン=ラクエル・マヌエル、本当に君には私の要請に応じる義理はないだろうか」
「……脅迫ですか」
「いいや。私はただ君たちの仕事をサポートする保護局員の仕事について事実を述べたまでだ。疲れて帰ってきてようやくありつく日替わり定食のハンバーグが凍っている、なんてことは起こりようがないさ。ステーキを頼んだら焼き魚が届く。交換の品が届くまで三十分だ。冷え切った体で飲む味噌汁が甘酸っぱい」
「う……」
「替えの下着は微妙に湿っていて、シャツはいつも裏返っていて、二番目のボタンだけ着替えの度に取れる。靴の中敷きがずれていて、支給の弁当を開けたら何らかの手違いで一面の梅干し、だとかね。そんな些細な被害が起こらない平穏な毎日が、きっとこれからも続くだろう」
ガストンはすごく笑顔だった。とてもとても笑顔だった。
ダスティンがギリギリと歯ぎしりをする。ガストンは手をぽんと叩いた。
「まあ無駄話はこれくらいにして、ダスティン、とにかく私は南大島に行かなければならない。乗せていってくれるだろうね」
「俺だけですか」
「ジェイドもフェルディナントも負傷している。医局で手当を受けないと出動は許可されない。フェルディナント、来るんじゃないぞ。保護局員が来るまでここで待機。アリエノールさんを抱えた【炎の闇】は【壁】際まで逃げ、右巻き三人の尽力と魔物の介入で【炎の闇】だけ【壁】に触れて消えた。そう口裏を合わせてくれ。ダスティン、行くぞ」
「フェルドは大丈夫じゃ――」
「いいのか?」意味ありげにガストンは言った。「あちらにはダニエルがいるぞ」
ダニエル、という名には聞き覚えがある、とリンは思った。確か、ジェイドがマリアラの気持ちをほぐすのに出した、誰かと“ラブラブ”で面倒見がいい男の人の名前。
ダスティンはしばらく考えた。しかしすぐに思い至ったらしい。はあっ、とため息をついて、箒を出した。
「いいですよ。行きましょう。――フェルド、医局でよく診てもらえよな」
「あー」
フェルドはぞんざいな口調で言い、ガストンを後ろに乗せたダスティンは大急ぎで飛んでいった。
リンはマリアラを見た。ジェイドの心臓の上に左手を翳したまま目を閉じて、身じろぎもしない。
「……あの。助けてくれて、ありがとうございます」
フェルドに向けて頭を下げると、フェルドは顔を上げた。顔色があまり良くない。
「ああ……いえいえ、どういたしまして。ケガは?」
「ちょっとすり傷くらい。でも全然どうってことないです。あの、あたしももちろん、【壁】に穴を空けたこと、黙っていますので」
「悪いね。ありがとう」
森の中はとても静かだった。
遠くでざわざわと音がしている。誰かが大勢、やって来るような音だ。保護局員がやって来るのだろうか。