【魔女ビル】自室→街中
【魔女ビル】自室→街中
周囲の軒からこぼれ落ちる水も滝のような激しさだ。ごうごうと荒れ狂う風を避けて、ラルフが頭を下げて町中をかけて行く。雨宿りをする様子はない。時折顔を上げて豪雨を透かし見るようにしているのは、【魔女ビル】の場所を捜そうとしているのだろう。
ところが嵐はあまりに激しく、幾度も風にあおられて、そのたびにラルフはよろめいた。その本当に小さな小さな体を見ながら、この子は一体どうして、と思った。こんな暴風雨のさなかを、たじろぎもせずに走って行けるのだろう。俺って結構すごいんだよ、と、自分で言っていたけれど、それはむしろ控えめな評価なのではないかとマリアラは思う。
「ラルフにこっちに来させるより、俺たちの方から行った方がいい」フェルドはそう言って、立ち上がった。「ミフはラルフにつけたままにしといて。フィが戻ってくる前に、ちょっと雨具とか準備してくる」
「うん、わかった。わたしも準備してる」
フェルドが出て行き、マリアラはラセミスタを見た。彼女はベッドの上で足を抱えて、にこっと笑った。
「こんな嵐だし、三人乗りは無理だから、あたしはここで待ってる。この部屋とフェルドの部屋、〈アスタ〉に覗かれないようにしておくね」
「ありがと」
マリアラは動きやすい厚手の普段着に着替え、十徳ナイフをこちらのポケットに移し、レインコートの上下を身につけた。防水の帽子を被り、念のために巾着袋をレインコートのポケットに入れて、カーテンを開ける。準備万端調えてから、ショッピングモールでもらった防水ケースを取り出した。元の大きさに戻し、開く。
「あのね。これ、お土産なの」
そう言って、まず、海浜公園の限定スイーツを渡した。ラセミスタが目を見張る。
「わあ……!」
「あの、今さらだけど……出張医療で、その、無茶させちゃってごめん。でも、ありがとう。お陰で帰ってこられたから、だから」
「そ、そんなのいいのに。でも、でも、でも嬉しい。ありがとう……!」
「ううん。あのね、それ、温めてアイスのせて食べると美味しいんだって。ごめん、アイス、帰りに買おうと思ったんだけど……」
「じゃあ、じゃあさ、あの、あの、帰ってきたら一緒に食べよ?」
「一緒に? いいの?」
「もちろん」
ラセミスタは照れたように笑い、マリアラも笑う。へへへ、と笑い合った時、窓の外に、フィに乗ったフェルドが上から降りて来たのが見えた。豪雨と風がまともに叩きつけているのに、合羽のフードから覗いた顔は平然としている。
いやむしろ、楽しそうだ。
「帰ってきたら食べよ? アイスは部屋でも注文できるもの。ね、嵐がすごいから、気をつけてね、マリアラ」
「うん。行って来ます」
窓を開けると、風の荒れ狂う音がいきなり大きくなった。フェルドがびしょ濡れの腕を伸べて、マリアラはその腕を頼りに外へ出た。足が離れた瞬間に風にあおられて飛ばされそうになったが、フェルドの体にしがみついて、何とか穂の上に体を落ち着ける。
「すっげー風」
フェルドが楽しそうに言った時には、ラセミスタの立つ窓辺が斜めに遠ざかっていた。ラセミスタが手を振っていたが、振り返す余裕はなかった。フェルドが保護膜を張った。あまりの風の強さに、保護膜ごと、まるで小さな羽根のようにもみくちゃにされた。上下左右に激しく揺れて、酔いそうだ。
でもフェルドの声は楽しげだ。
「大丈夫か!?」
マリアラは叫んだ。周囲の風に負けないように。
「大丈夫!」
本当に大丈夫だった。ちっとも怖くなかった。寒くてびしょ濡れで真っ暗で、目が回るような飛行だったが、そんなこと全く気にならない。荒れ狂う風に立ち向かいながらも、マリアラの指示するとおりにフェルドは飛んで行く。ラルフは当然動道にも乗っていないから、まだあまり進んでいない。
『あれえ……誰か来るよ』
ミフが言った。街灯の明かりの中、確かに、誰かが前方から走って来るのが見える。合羽のフードに隠れて顔は良く見えないが、その人はラルフを見て、怒鳴った。
『ラルフ!』
――あの声は!
あんまり驚いて、もう少しでフェルドの背に回した腕を放してしまうところだった。フェルドが言った。
「どうした!?」
「あの人が……ウィナロフが! ラルフを迎えに来たの!」
「……なんでだよ!?」
脳裏で、ウィナロフの、聞き間違いようのないあの声が響いた。
『無事だったか! 嵐が思ったより早く来たから――』
『ここで何やってんだよ、ウィン!』
本当だ、とマリアラは思う。全く、本当に、あの人はここで何をしているのだろう? もう二度と会うことはないだろうと思ったばかりなのに、こんなにすぐ再会することになるなんて。
ウィナロフはラルフに防水布を被せた。あまりの豪雨に辟易したのか、少し離れた軒下にラルフを誘導する。
フェルドとマリアラも、風に煽られながらも着実に、その軒下に近づいていく。辺りは既に真っ暗で、轟音に満ちていて、ミフがすぐそばにいなければ、ラルフの場所も声も全然分からないだろう。豪雨に負けないようにラルフは声を張り上げている。
『あんたが――舟出して来たの!?』
『リストは? 手に入ったのか』
質問には答えず、ウィナロフが逆に訊ねた。ラルフはうつむいた。
『そ、そ、それが、その。いったんは手に入れたんだ。でも部屋を出る前にカルロスの手下が来たんだよ』
『……で?』
『……初めから話すよ。来る途中、嵐で転覆しそうになってさ。通りかかった魔女が助けてくれたんだ。それで――』
フェルドとマリアラは、その時、近くの路上に降り立った。真っ暗な中をミフの方へ走って行こうとしたマリアラを止めて、フェルドがポケットから何かを取り出した。ぽん、という音と共に元の大きさに戻ったそれは、握りこぶしくらいの大きさの光珠だった。ふわりと、辺りを明るい光が満たし、ラルフの声が止まった。
「これ持ってて。いつでも使えるように」
フェルドは言い、マリアラに光珠をよこした。それからウィナロフとラルフのいる方へ、警戒するでもなく無造作にずかずかと歩いて行った。マリアラはフェルドが光の範囲から出ないように後を追った。光が出現してからずっと、雨も風もふたりを避けるようにしていることに気づく。フェルドがやっているのだろう。ちくりと胸が痛んだ。全く、フェルドは本当にやすやすと魔法を使う。
「ラルフ」
フェルドが呼びかけ、
「マリアラ!」
ラルフの声がマリアラを呼んだ。
「マリアラ、なんでここが――あ、あーよかった、あんたにどう連絡取っていいか、分からなくって。な、あっち行こうぜ。ほら、ここは濡れるし、あっちの方がいいと思うよ、ほら、ほら」
言いながらラルフは小さな体で、フェルドとマリアラの前に立とうとした。ウィナロフを逃がそうとしているのか、それとも魔女の盾になってくれるつもりだろうか、どちらにせよこの子はウィナロフが狩人だと知っているのだと、マリアラは考えた。光を差し伸べて、マリアラはラルフを乾かした。フェルドはラルフには目を向けず、ラルフが今出て来た場所を注視している。
ミフはまだウィナロフのそばにいる。ミフの感覚器官に、ウィナロフが毒づく声が聞こえた。
『またあいつらかよ……!』
それはこっちの台詞だ。マリアラはつくづくとそう思った。
ミフが戻って来た。今くるよ、と囁いてくる。そして、
「ラルフ、いいよ。大丈夫、お前が世話になったんだろ。今ここで撃ちゃしないって」
言いながらウィナロフが光の範囲に出て来た。こうして見るとウィナロフは、フェルドより少し小柄だった。嵐のせいだろうか、以前より顔色が白く見える。合羽をすっぽり被っているから、顔以外の部分は見えなかった。ウィナロフは、フェルドとマリアラを見てため息をつく。
「くそ……箒がラルフを追ってたのか。気が付かなかった」
「そ」とフェルドは言った。「言いたいと思ってた。こないだマリアラを匿ってくれたんだってな。ほんとにありがとう。助かった」
ウィナロフは目を剥き、次いで、マリアラを睨んだ。長々と、いまいましげに。
「……だから借りを返しただけだって、何っ度言ったらわかんだよお前らは……!」
「それにしてもさ。言いたかったんだよ。そうだ、マリアラ、鉄道代返せるよな」
マリアラはうなずいた。
「うん、ちょうど良かっ――」
「い、ら、な、い、っつってるだろ! 馴れ合うなよバカ! こんな太平楽な左巻きについてる右巻きが、そんな能天気でどうすんだよ! 俺を何だと思ってるんだ!」
「本当に何なんだろうなあ、あんたって」
「……ほんとに知り合いだったんだね」
ラルフが囁いてくる。マリアラはうなずいた。
「うん、わたしもびっくりしてる。……ウィナロフ、ここで何してるの?」
「話すわけないだろ!」
「ラルフを迎えに来たんだよね?」
「知ってるなら聞くなよ!」
「モーガン先生のメモ」とフェルドが言った。「今はこっちが持ってる。さあ、取引しようぜ、【風の骨】」
「……」
ウィナロフがラルフを見、ラルフは首をすくめた。
「いやその……しょうがなかったんだ。あれ持ったまま俺が捕まったら本当に一巻の終わりだと思って……」
ラルフがモーガン先生の研究室でのことを話すと、ウィナロフは顔をしかめたまま、長々とため息をついた。
「魔女を巻き込むなよ……よりによってこいつらを!」
「しょうがなかったんだ」
「そりゃわかってるよ! 悪かったよ八つ当たりだよ! くそっ! 何がほしいんだよ!?」




