第四章 仮魔女と狩人(9)
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みしり、空間が軋んだ。ずずず、地鳴りがして、出し抜けに頭を殴られたような衝撃がきた。がちんと歯が鳴って、マリアラはよろめいた。
「あーもう! 左巻きは下がって!」
ダスティンがわめいている。でもマリアラは動かなかった。
若草色の粒子が充満してびりびり震えた。
【壁】が、呻いていた。
表面がみちみちと泡立っている。
やがて、ぼひゅっ、と【壁】が抉れた。びりびり駆け回る若草色の細かな稲妻が【壁】の抉れに殺到する。フェルドが起こした魔力の渦は反動で彼自身を後ろに押しやるほどの強さだった。マリアラは思わずフェルドの後ろに駆け寄り、その背に肩を押し当てた。
体中の筋肉が張り詰めているのが伝わってくる。マリアラは左手の平をフェルドの背に宛がった。何も考えていなかった。目の前で極限まで酷使される筋肉のこわばりを和らげ、酸素の供給を促し、魔力の粒子に意思を伝達する神経組織の活動を助けた。どっ、再び振動が起こり、二人の踏み締めた足が後ろにずれた。
【壁】は空間に存在する歪みが寄り集まって固定されたものだ。
つまりその歪みを少しずつほぐしていけば道が開ける。
フェルドの手の先で、またぼひゅっ、と音が鳴った。若草色の粒子が襲いかかり、【壁】がびちびちと悲鳴をあげる。削られていく。抉れていく。そこに周囲から【歪み】が押し寄せ、まるで巨大な竜巻が【壁】に突き刺さっているように見える――そう、見えたのだ。まるでフェルドの目を通してマリアラ自身が前を見ているようだった。その向こうに滝が見えた。青空が見えた。森が見え、草原、大都会、牧草地、灼熱のドロドロしたなにか、満天の星空、果てなく広がる砂漠――凄まじい勢いで行き過ぎる様々な景色の向こうに、漆黒が透けて見えた。
ずしん、地鳴りがした。
マリアラは悲鳴を飲み下した。漆黒は無数の触手だった、光を浴びても輝かない暗黒そのものの色をした無数の触手が、押し合い、揉みしだき、かき分け、こじ開け、そして――
めき。
取り返しのつかない音と共に【壁】が裂けた。
わずかに生じた亀裂を、奥から押し寄せる触手がさらにぎちぎちと広げていく。数本の触手が突き出された。ぎ――ガラスの軋むような音とともに触手は【壁】を撫で、ほころびを広げようと暴れ回った。
「おい、何とかしろよ――おい、おい!」
ダスティンが声を上げる。フェルドは、マリアラも、答えない。
まるで暴走する箒に乗って正しい航路を選び続けるような体験だった。次から次へと襲いかかるありとあらゆる世界への入り口を躱しながらあちらへの出口を捜しさなければならない。マリアラは無力だった。物理的に押し戻されそうになるフェルドの体を支えることと、彼の判断を鈍らせる疲労や緊張や怖れなどが邪魔しないよう、手を貸すことができるだけだった。横から魔物が押し寄せて正しい航路を塞ごうとする。ダスティンが「くそったれ!」喚きながら放った光が魔物を押し戻す。
うねうねと蠢く触手の一本がフェルドの左腕を捉えた。「くっ」押し殺した呻き声がフェルドの喉から漏れた。触手は撓んで、フェルドを引きずり込もうとする。マリアラは彼の背越しに手を伸ばし、その触手に触れた。
ばちっ。
まるで熱いものに触れたかのように触手が弾け飛んだ。
その瞬間、向こうが見えた。
「フィ……行っ、け!」
『おー!』
小さく縮んだ箒が【壁】にあいた隙間に飛び込んだ。
その小さな姿が消えた瞬間に隙間が閉じ、魔物の触手がそこを覆い隠した。ぎょろり、巨大な魔物の瞳が覗いた。複雑な色をした美しい瞳が歓喜の色を湛えている。
――やっとあいた……やっと……!
叫びがびりびりと空気を震わせる。ずしん、ずしん、巨きなものが足踏みをするような地響きが耳朶に届いた。【壁】は閉じようとしているが、隙間に魔物の鉤爪がとりつきこじ開けているのだ。フェルドが膝をつき、再び、圧倒的な若草色の光が辺りに満ちた。
ずしん。
魔物の瞳が揺らぎ、マリアラはフェルドの背に左手を戻した。
これほどの魔力の行使が、肉体的には人間と変わらない彼の体内組織に影響を与えないわけがない。
ずしん、ずしん。
ダスティンが光を放った。ジェイドも。フェルドがぎりぎりと引き絞った若草色の粒子の渦を解き放とうとした、そのとき。
ずしん。
ずっと聞こえていた地響きの主が、その場に姿を現した。
マリアラは愕いた。
さっきグールドに乗り物にされていた、あの気の毒な魔物だった。
魔物は歩を止めなかった。ずしん、ずしん、歩く度に周囲に体液を撒き散らしながら、魔物は、【壁】から覗く大きな魔物の瞳に向けて進んでいく。しゅう……その口から呼吸が漏れる。命が漏れ出ていく音に聞こえる。【壁】をこじ開ける魔物の鉤爪に向かって、死にかけた魔物は前足を振り下ろした。
がぎっ。耳の奥を震わせる音と共に鉤爪が外れた。
【壁】の裂け目が閉じて巨大な瞳が消えた。
ざあっ――さっき見た風景が巻き戻されるように目の前を行き過ぎていった。
あの死にかけた魔物も、その流れにさらわれて、見えなくなった。