【学校ビル】(1)
【学校ビル】
【学校ビル】の入り口で保護膜を外すと、暴風と共に豪雨が再び叩きつけてきた。
ロビーは、この時間には珍しく閑散としていた。学生も教師もみんな、どこか温かな部屋に逃げ込んで、嵐を眺めているのに違いない。土砂降りの雨に辟易して、マリアラはラルフと一緒にロビーに駆け込んだ。白々と明るい光の助けを借りて、またラルフと自分を乾かす。
「何度も悪いね。ありがとー姉ちゃん」
ラルフがにっこり笑い、ミフが毒づいた。
『あのさー、さっきから思ってたんだけど、姉ちゃんって呼ばないで! 気になるんだけど!』
ラルフはギョッとした。「え、何? 今喋ったの誰?」
『あたしよ、決まってんでしょ! あのねー、あたしたちはあんたを助けたのよ、偉いのよ? なのに姉ちゃん姉ちゃんって、失礼じゃないの!』
「……箒が喋ってる」
目を見開いて驚愕しているラルフは、今は年相応の子供らしく、あどけなく見えた。マリアラは少し驚いた。前回会ったとき、ミフは、ラルフの前で喋らなかったのだろうか?
「驚かせてごめんね、魔女の箒は普通喋るものなんだ。ちょっと賑やかだけどいい子だから、仲良くしてくれる?」
『あたしは仲良くする気あるよ! 姉ちゃんって呼ばなければね!』
何がミフの逆鱗に触れたのか分からないが、ミフとしてはそこは譲れない線らしかった。ラルフはまだまじまじとミフを見ていたが、ややして、少し気を取り直したようだった。ニヤリ、笑った顔は、楽しい悪戯を思いついた子供そのものだ。
「いーじゃん、ねーちゃんで。だって年上の女の人って姉ちゃんって言うんでしょ? 別に悪い言葉じゃないでしょ?」
『悪い言葉だもん! 姉ちゃんってのは、しつけをちゃんとされてない傍若無人なおっさんが、レストランで女性の店員を呼びつけるときに使う言葉だよ!?』
「違うよ!」
マリアラは思わず叫んだ。そんな情報、どこで仕入れたのだろう。いやそういう風にも使われるのかも知れないが、それだけのための言葉ではないはずだ。
ラルフはニヤリとした。
「だってまだ名前知らねーもん。じゃあ、お姉様って呼べばいい?」
『それならいい』
「良くないです」マリアラはため息をついた。「わたしはマリアラ=ラクエル・マヌエル。そう言えばまだ名乗ってなかったんだね。マリアラって呼んで。で、こっちは箒のミフ」
「マリアラと、ミフだね。りょーかい」
出会った頃より、ラルフはとても打ち解けたようだった。屈託のない表情で、にっこり笑った。
「マリアラ、ミフ。助けてくれて、それから、ここまで送ってくれてありがとう。……あのさ、ついでにもうひとつ聞いてもいい? 階段ってどこにあるの? 俺えれべーたーには乗りたくないんだ」
そう言ってラルフは辺りを見回すようにした。
【学校ビル】のロビーには、先程から変わらずずっと人の気配がない。白々と明るいロビーはひどく静かだ。中央に、向かい合わせになったエレベーターが五基ずつ、計十台並んでいる。全てガラス張りで構造が丸見えで、確かに、魔法道具にあまり触れていないラルフには怖ろしいものかもしれない。
「こっちだよ。でも、どこまで行くの?」
左手の観葉植物と並んだソファの横を抜け、ぽかりとあいた階段への入口に導く。運動不足になるからと、モーガン先生はよくこの階段をせっせと上っていたっけ。そう思い出してずきりと胸が痛んだとき、ラルフが言った。
「十八階だよ。アルフレッド=モーガンって先生の研究室に行きたいんだ」
どきん。
心臓が跳びはねた。
今思い出していた名前そのものだったから、一瞬、自分の頭の中身がそのまま外に零れたのではないかと思ってしまった。目の前に、まざまざと、あの懐かしい研究室の光景が甦った。琥珀色の日だまりに沈んだ、あの暖かでほこり臭い、モーガン先生の研究室。ああ、そうだ、十八階だった。モーガン先生のあの部屋は。
この子は、先生を訪ねてきたのか。
まだ、先生に会いにくる人間がいたのか。
利発そうな少年の目を見て、マリアラは呻いた。
「……亡くなったよ」
「え?」
ラルフはキョトンとした。
「だから……亡くなったの。歴史学の、アルフレッド=モーガン先生でしょう? 本当だよ。わたし、お葬式に出たもの」
ラルフが事態を悟るのに、数瞬はかかった。震える声が、唇からこぼれた。
「それって……いつ?」
「えっと……もう半月くらいは経つよ。宇宙に向けて開いた【穴】に、落ちてしまったんだって」
ラルフの顔から、みるみる血の気がひいていった。よほど驚いたらしいと、その顔を見守りながら考えた。この子は、モーガン先生と親しかったのだろうか。モーガン先生は、エスメラルダ国内に残る様々な遺跡を訪ねて、よくフィールドワークに出かけられていた。南大島の近くにも行かれたことがあったのだろうか。
荒れ狂う海にも怖じけづかなかったラルフが、モーガン先生の死にたじろぐのを、マリアラは悲しい思いで見守った。
「……座ろっか」
少し戻って、観葉植物の間に置かれたソファにラルフをいざなった。ここのソファは、自主学習をしたり寛いだり、討論をしたり、様々な目的で利用されている。モーガン先生のゼミにいた頃、フィールドワークから帰ると良く、先生はここで一休みされ、マリアラや他の学生たちに飲み物を飲ませてくださった。フィールドワークで得た知見や感想をわいわい話す内、先生がどこからともなくホワイトボードを運んできて、いつしか講義のようになったことも何度かあった。
どうしよう。泣きそうだ。
モーガン先生を喪った哀しみはまだまだマリアラの胸に深く深く食い込んでいた。こういうときには甘くて温かな飲み物が必要だ。自動販売機でココアをふたつ買って、ラルフのところに戻ると、彼は少し落ち着いたようだった。顔色はまだ悪いが、礼を言ってココアを受け取った。ひとくち啜って、驚いた顔をする。
「何これ?」
「ココアだよ」
「ここあ? ……何これ、すげー甘い」
そう言ってラルフはもうひとくちココアを啜った。何これ、甘い……とまた口の中で呟いているが、続けて啜っているところを見ると、決して嫌いではないらしい。
マリアラも黙ってココアを飲んだ。温かくて、甘くて、とてもおいしい。
飲み干すと、ラルフは決意を固めたようにマリアラを見た。
「マリアラ、モーガン先生と知り合いなの」
「……うん。指導教官だったの。本当に大好きな先生だった」
「そっか。半月くらい……研究室ってもう、整理されちゃったかな」
「さあ……行ってみる? も少し時間あるし」
「ほんとっ!?」
ラルフの頬に少し血の気が戻った。藍色の瞳が、まじまじとマリアラを見る。
「ほんといいの!? すげー、ありがとう。助かるよ」
「うん、モーガン先生のお部屋なら、わたし何度も行ったことあるし……でも、できれば、エレベーターに乗りたいかな」
「箒に乗ればいいじゃん」
「建物の中で箒に乗るなんてマナー違反だよ」
「そういうもんなの?」
「馬と同じだもの。いくら大昔の貴族だって、建物の中で馬に乗ったりしなかったでしょ」
「そういうもんなの?」
『あたし馬じゃないよ、しつれいなー』
「でも、そういうものなんだよ。グレゴリーの空島の上を箒で飛ぶのが良くないのも同じことでしょう、あんなに綺麗に丹精された庭園の中を、馬でかぽかぽ歩かれたらそれは怒るでしょ? ミフは馬じゃないけど、マナーとしては同じなの」
『違うもん! あたし花を蹴散らしたりしないもん! ぶーぶー』
「そんならさ、建物ん中を箱が動くなんてもっとマナー違反じゃないの?」
「そんなことないよ、だってエレベーターは、建物の中で動くために作られたものだもの」
「歩けばいいじゃん、自分の足があるんだしさー」
『もーラルフ、文句言わないの。時間の節約になるでしょ。そもそもあんただってこないだフィに乗ったじゃないの』
「そりゃそうだよ、俺どんなに頑張っても空は飛べねーもん」
まだなんだかんだと理屈を付けてごねるラルフを連れて、エレベーターに乗った。態度こそ嫌悪を装っているが、それほど嫌がってはいないらしい――むしろ好奇心で目がキラキラしている、ということに気づいたからだ。ラルフはガラス張りのエレベーターに乗るやいなや、数歩走って正面のガラスに顔を押し当てた。エレベーターが上昇するのと入れ替わるように数本のコードがするすると下に降りていくのを、食い入るように凝視している。




