医局(3)
『マリアラ。今日、退院でしたね。入院お疲れさまでした』
ヴィレスタが言ってくれて、マリアラは心臓の配置に気を付けて口を開いた。
「ありがとう。ヴィヴィは、いつもここにいるの?」
『はい、ミランダが医局にいるときは、だいたいここに。でも今は、読み終えた本を図書館に返しに行くところです』
そう言って彼女は小さな手提げ袋を示して見せた。中に、小さく縮められたたくさんの本が入っている。そうか、と、マリアラは思う。ヴィレスタも、出かけるところなのか。早く来ればよかった。
どうしよう。二人っきりになってしまう。
『それでは、行ってまいります』
「悪いね」いつもどおりの言い方でフェルドが言った。「ちゃんと司書さんに縮めてもらえよ」
『大した量でもありませんから、お構いなく』
ヴィレスタは大人びた口調でそう言って、微笑んで、出て行った。マリアラは不自然にならないように気を付けて、息を吐いた。緊張しすぎて、吐き気まで感じる。
「退院なんだ。おめでとう」
フェルドの方は、全く屈託がない。本当に、いつもどおりのフェルドだった。列車の中で見た、あの壮絶な目が嘘みたいだ。顔色もいいし、元気そうだし、陽性の、日だまりみたいな雰囲気もいつもどおりだ。
検査服がとても似合わない。早いところフェルドの検査も終わって、こんなもの、着ないで済むようになればいいのに。そう思いながら、マリアラはポケットを探った。
「ありがとう、お陰様で。……ええと、その、……これ」
取り出したのは小さな箱だ。ラセミスタに頼んで注文してもらったものが、昨日届いたのだ。その細長い箱を見て、フェルドが訊ねる。
「何これ?」
「ええと……その、お礼……。あの、改めて、助けに来てくれてありがとう。それとね、それと……フェルドの助言のお陰で、スカートのポケットにキャラメルを入れていたから、とても助かったの。あと十徳ナイフも、すごく役に立ったの、だから」
大丈夫だろうか。不審に思われないだろうか。緊張して、不安で、心配で、自然に早口になる。
「前にほら、……置いてきたって、言ってたでしょ。あの子に、あげたって言っていたでしょ。だからね、同じものをもうひとつ、あげたいと思ったの。あの子と、お揃いで持っていたらいいかなあって」
“過去”にまつわることを、〈アスタ〉の目と耳のあるこの場所で話せないため、自然に歯切れが悪くなる。が、フェルドにはわかったようだった。
半年前。マリアラとフェルドとラセミスタは、魔法道具の暴走の余波で、暗黒期の前に行ってしまった。そこで出会ったカーディスと言う少年に、フェルドは、マリアラがプレゼントしたキーホルダーを、渡したのだと言った。マリアラからもらったものをそのまま渡した格好になり、フェルドはそれを気にしていた。そんなに気にすることはない、むしろカーディスの境遇を思えば、そうしてくれて良かったのだと、マリアラとしては思ったのだけれど。
だから今回のお礼として、これ以上のプレゼントを思いつかなかった。同じ店で作った、同じデザインのもの。色もそっくり同じものが残っていて、本当に運が良かった。これをフェルドが持っていたら、カーディスとお揃いだと言うことになる。思いついたときは、これ以上ないプレゼントではないか、と、――自画自賛したのだが。
変だと思われないだろうか。押しつけがましいと思われたらどうしよう。カーディスとの約束を果たせなかったフェルドの傷を、再び抉ることになりはしないだろうか。
今さら心配になったとき、フェルドが言った。
「……すっげ」
顔を上げると、フェルドは微笑んでいた。箱から取り出したキーホルダーを、ぐっと握って、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「すっげ嬉しい。ありがとう」
どうしよう。泣きそうだ。
いつもどおりのフェルドの笑顔。あんまり“上手”じゃない笑い方。
その笑い方が、嬉しい。
「う……うう、ううん。どう、いたしまして」
「うわー、どうしよう、何に付けようこれ。あー、ますます世界一周行かねーと」
「世界、一周」ちょっと驚いた。“現代”でも、行くつもりだったのか。
「そう、世界一周。俺さ、ちょっと今考えてるプランがあるんだよね。まあ座りなよ」ぽんぽんと検査台の隣の椅子を叩いた。「検査が終わっても、シフトに戻ったら、あんまりさ、まとまった休みって取れないだろ。夏でも取れて二週間くらい? でも世界一周って、二週間じゃ無理だろうし、あんまりせわしいのもつまんないし」
「うーん、確かに」
言いながらマリアラは示された椅子に座った。距離が縮まったことでますます激しさを増すマリアラの鼓動など知らぬげに、うんうん、とフェルドは頷く。
「だからさ、イーレンかラスに頼んで、コインをもうひと組、作ってもらってさ」
「コインって、魔女のコイン?」
「そうそれ。それで、それを持って二週間で行けるところまで行って。で、安全な場所見つけてそこにひとつを置いてくる。で、次の休みが取れたらそこに移動して、そこからまたスタートすれば、」
「待って待って。コインって、そう簡単に使っちゃいけないんじゃ、」
「だから、安全な場所を見つけるって」
「安全な場所ってどんな? 仕事の間に誰かがもし動かしたり、何かものを上に置いたりしたら、」
二週間などと言うまとまった休みを、そう頻繁に取れるとは思えない。一晩や数日ならまだしも、長い間放置していたら、その間に動かされたりものを置かれたりするリスクは格段に増える。
しかしその程度の心配などフェルドには障害でもなんでもなかったらしい。
「うん、だからさ。こないだコインの片割れの居場所が分かる装置ができたわけじゃん? それをもうちょっと改良してもらって、あっちの様子が見えるような何かを取り付けてもらえれば」
「……そんなことできるの?」
「どうなんだろ? ラスに聞いてみっかな」
本当に転んでもただでは起きない人だ、と、マリアラは思った。“やりたい! と思ったことは、それが例えどんなことでも絶対諦めないで、色んな手段を試してみて、最後は絶対やるのよ”――以前ミランダがフェルドのことをそう評していたが、確かにそのとおりだ、ということは、この半年でだいぶわかってきている。
屈託ない話を聞いている内に、口から飛び出しそうだった心臓も、少しずつ、慣れてきたようだった。
「それさえできれば、世界一周も夢じゃないなーと思って」
そう言って、フェルドは楽しげに笑う。このぶんでは本当に、それもごく近いうちに、世界一周を始めてしまいそうだ。
そうなったら、と、マリアラは考えた。
フェルドが世界一周に出かける間、自分は何をしているのだろう。
今のままでは、マリアラが同行できることはないだろう。フェルドはたぶんひとりで行きたいはずだ。その方が身軽だし、マリアラの安全や体力に気を配る必要がない。現時点で、マリアラは、世界一周という大冒険において、紛う事なきお荷物だ。森の中で雨に降られて凍え死にしかけ、ウィナロフに拾ってもらわなければ自力で帰ることもできなかった。狩人には狙われるし、と言って治療の腕もそれほど良くない――少なくともミランダほどには。フェルドがケガをしたときに治してあげられるというだけの小さなメリットで、一緒に行かせてくれと頼めるほどの勇気が、自分にあるだろうか。
いくら相棒だと言ったって。
プライベートでまで同行させてくれと頼むのは、あまりに図々しくはないだろうか。
それでも、考えている内に、自分でも驚くほど強い、ぞくぞくするほどの渇望が湧き上がってきた。
一緒に行きたい。フェルドが見るものを、自分も見たい。広々とした世界。見たことのない景色。様々なハプニングさえ、フェルドは楽しむだろう。それを一緒に、経験したい。お荷物にはなりたくないが、それでも、どうしても諦められる気がしない。
――私が魔女で、彼がルクルスだからって。
――初めから諦めちゃうってことだけは、したくなかったの。
出し抜けに、頭の中でミランダの声が囁いた。
ミランダが羨ましい。――羨ましかった! だってミランダは、明日デートをする。ミランダが彼を好きなのは明らかで、シグルドの方も、絶対に、好意を持っている。ふたりは今から、その仄かな好意を少しずつ育てていく。仕事以外の時間を一緒に過ごす、その権利が、ミランダにはあるのだ。“初めから諦めちゃうことをしなかった”からだ。それは彼女の勝ち得た、正当な権利だ。
――わたしはどうなの?
内なる声が、訊ねてくる。
――その権利を勝ち得なくて、いいの?
良くない、と、反射的に思った。相棒というだけの、仕事で関わるだけの、そんな立場に座して、手をこまねいていたくはない。
でも、どうすればいいの?
そう思った時だった。
明るかった空に、さっと影が差した。
マリアラは顔を上げた。
窓の外の雲行きが、少しおかしい。いかにも雨を含んでいそうな黒い雲が、少しずつ空を覆い始めている。
「あ……」
「なに? ……あれ、雨来るかな」
フェルドが窓の外を見上げて言う。マリアラは頷いた。ミランダのデートは明日だ。今日しか、手土産を買う暇はない。【魔女ビル】内のお店で済ませるという手もあるが、海浜公園の限定スイーツを見たらラセミスタがどんなに喜ぶだろうか、と考えると、やはり足をのばしておきたくなった。
「出かけるとこだった?」
フェルドに訊ねられ、マリアラは頷いた。
「うん、明日ね、ミランダが、シグルドと会うんだって」
「へえー」
「こないだお世話になったから、シグルドとマギスさんに、何か手土産を預けたいなって思っていて。ラスも今忙しいし、それって、わたしが原因だし……海浜公園の限定スイーツ買ってきたら、喜んでくれるかなあって思って」
「そりゃ喜ぶなー。でも、海沿いに行くなら急いだ方がいいよ。絶対降るよこれ」
「うん、ちょっと行ってくるね」
それ以上のことが、どうしても言えなかった。何か甘くなくて美味しそうなものを買ってくるから、戻って来たら一緒に食べないか、とか、軽く言えたらどんなにいいだろう。
ミランダに比べて、自分はなんて意気地無しなのだろう。
マリアラは検査室からすごすごと撤退した。自分を罵倒しながら。




