序章 海上
海上
「よう、ラル」
声をかけられて、ラルフは帽子を持ち上げて外を見た。ゆらゆら揺れる舟の中に寝そべっているラルフを、精悍な顔立ちの若い男がのぞき込んでいる。
「昼寝か。気持ち良さそうだな」
「ふわあ……」
ラルフはあくびをし、体を起こした。うーん、と伸びをして、それから抗議した。
「フの一文字くらい、略さずに呼んでくれって、言ってるだろ。ウィン」
ウィナロフは笑った。珍しく機嫌が良さそうだ。
「乗せてくれ」
言いながら銅貨を二枚、放ってよこした。相変わらず太っ腹だ。ぱしっと空中で受け止めて、ラルフは帆を留めてあるロープに手をかけた。
「あいよ。毎度。……にしても、顔くらい隠したらどうなんだよ、白昼堂々。ここは天下のエスメラルダ、あんたみたいなのが顔さらして歩いていい場所じゃないんじゃねえの。あんた、一応仮にも狩人なんだろ」
「一応仮にもってなんだよ……」
岸を蹴ると舟はするりと海に滑り出した。変な奴だと、ウィナロフを乗せる度にラルフはいつも思う。二十歳前後の若い男だ。人魚の脅威を知らないわけでもないだろうに、平然とこんな小船に乗り込むし、だいたい狩人のくせに一体どうやって、エスメラルダに入ってくるのかさっぱりわからない。聞いても絶対教えてくれない。
ほんの少し前まで、ラルフは狩人になるつもりだった。だって、狩人は金持ちだ。王様が働きを喜んで、たくさんお金をくれるのだと聞いた。狩人は人を殺す仕事なのだと知ってはいたが、ラルフは少し前まで、魔女を同じ人間だなんて思っていなかったし、エスメラルダにのさばる特権階級を少し減らすくらい、どうってことないと思っていた。
何より、ラルフはウィナロフが好きだった。
【風の骨】は狩人の役付きだ。偉いのだ。そんな偉い人が、頻繁にエスメラルダの中に入ってきて、エスメラルダから切り捨てられたルクルスの子供たちを養ってくれている。アナカルシスの中に散らばる大勢の善意の人々から寄せられる寄付を使って、食べ物や衣類や薬を持って来てくれるのだ。そう言う働きをするのも狩人の仕事の一環であるなら、狩人という仕事が悪いものであるはずがない。
そう思って、いたのだけれど――。
舟は緩やかに進んでいく。風は静かで、到着まではまだまだ猶予がありそうだ。
今しか聞けないかも知れない。ラルフは唇を舐めて、ウィナロフを見た。彼は今目を細めて輝かしい水面を眺めながら、水筒を取り出したところだった。もうすっかりくつろぐ体勢だ。
「あのさ、ウィン」
「んー?」
「……狩人の仕事って、楽しい?」
「ん?」
ウィナロフは、ラルフを見た。帆と舵を操るためにラルフは立っているから、見上げる格好になった。
「あんた魔女を一人も殺したことないって、噂を聞いたよ。……だからさ」
ウィナロフは苦笑した。
「そんな噂、信じてんのか。俺は【風の骨】なんだぞ」
そうなのか、と、ラルフは思う。本当に、そうなのだろうか。
本当にウィナロフは、魔女をその手で殺したことがあるのだろうか。
つい最近まで、ラルフは狩人になりたかった。憧れていた。グールドという狩人の話を聞くたびに、胸がわくわくした。とても強いのだ、グールドは。鮮やかな手口で、魔女を何人も何人も殺して、異例の速さで狩人の役付になった。俺も、と、思っていた。俺もグールドのようになりたいと。
……でも。
「……俺こないだ、魔女に会ったんだ。ふたり」
囁くとウィナロフは、へえ、と言った。
「そうなんだ」
「うん。南大島に狩人が魔物を放しに来たときにさ――。クレメンスって狩人が、その、ルッツをさらったんだ。ハイデンが取り返してこいって俺に言って、それで」
ラルフはかいつまんで、半年前の出来事を話したが、ウィナロフはもう大体のことは知っているはずだ。うんうん、と頷きながら聞いてくれているのは、ラルフが考えをまとめようとしているのを待ってくれているのだろう。
ラルフは話した。魔物を捕まえる途中で魔女とその相棒に会ったことも。そして、魔物が【壁】に触って消えたというのは嘘で、本当は、魔女とその相棒が、【毒の世界】に返すのだと言って、連れて行ったことも話した。その過程で、食べ物を振る舞ってもらったことも、帰りに箒で送ってもらったことも。ハイデンにさえ言えなかったことを、洗いざらい全部。
話し終えると、ウィナロフは座り直していた。水筒の中身を飲むのも忘れて、じっと聞き入っていた。その瞳に非難の色が浮かんでいるかも知れないことが怖くて、ラルフは俯いた。怖くて、誰にも言えなかった。ルッツも黙っていた。裏切り者だと言われるのが、怖くて。
「……俺、今までずっと……狩人が魔女を殺したって、別に構わないじゃないかって思ってた」
「そうか」
「……でも今は、分からなくなった。俺は魔女なんか嫌いだ。嫌いだけど。……嫌いだけど、でも。あんな美味いもの食ったの、生まれて初めてだった」
あの時のことを思い出すと、胸がざわざわする。あのふたりのことを好きになっていいのか、嫌いになっていいのか、わからないのだ。たぶんリックに知られたら、餌付けされた裏切り者だと言うだろう。自分でも、そう思う。食べ物が何だ。あいつらは、山ほど持ってるのだ。あのふたりだって毎日飢えるような生活をしてたらあんな気軽に食事を振る舞ったりできないはずだし、それに、それに。
もし哀れまれていたのだとしたら。
施しを受けたのだとしたら。
その考えが、どうしても頭から去らない。
ラルフは金持ちになりたかった。いいものを着て、いいものを食べて、いい家に住んで、ふかふかのベッドで寝たかった。誰かに哀れまれたりしない境遇に、なりたかった。
けれどラルフの境遇で、その暮らしを手に入れるためには、エスメラルダを出て狩人になるしかない。今までだったら何の躊躇いもなく選べたその道を、選んでいいのか。その道を選びたいがために、魔女とフェルドを憎もうとしているのだろうか。考えれば考えるほどわけがわからなくなり、安易な道に流れてしまいそうで。でも安易な道に流れてしまうには、魔女とフェルドのふるまいが、意味不明すぎて。
魔物をひと晩匿って【毒の世界】に返しにいく。
半年ずっと考え続けたのに、謎は深まるばかりだ。
自分には何のメリットもないその行為を選択した、その魔女の考えは、まあ、百歩譲って、理解できないでもない。ルッツのようなバカなのだと思えば、まあそう言う考え方をする人間もこの世にふたりくらいは存在してもいいのかも知れない、と、思う。
しかしフェルドの方は本当に意味が分からない。多分バカではないはずだ――少なくとも魔女やルッツほどには。そのはずなのだが、なぜ、魔女の主張を支持して手助けをしてやろうという気持ちになるのか。魔女が魔物を『返したい』と思う気持ちは施しだったのか。その魔女の気持ちを尊重してやろうとするフェルドの気持ちは、施しだったのか。
半年経って、ラルフは少し成長した。背も伸びたし、顔立ちも少し変わったらしい。
そのせいだろうか。半年前には何でもなかったことが、今、深く重い意味を持ち始めている。
「気持ちは分かるよ。俺もこないだ似たような目に遭った」
ウィナロフがあっさりそう言って、ラルフはぱっと顔を上げた。「……ほんと?」
「ついこないだだ。先月の初めくらいだったかな。春だと思って油断してたら雪山で吹雪に遭ってさ。逃げ込んだ洞穴には先客がいて……雪山に登ったエスメラルダの子供たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれてた。大人は三人しかいなくて、山男は骨折してるし、他のふたりは大人って言ってもまだ学生だった。つまり見習いだったんだな」
「その状態で、吹雪?」
ラルフは他人事ながらゾッとした。
南大島近辺の諸島は、周囲を海に囲まれているからか、吹雪の被害を顕著に受ける。真冬には子供たちは皆屋内で寄り集まって過ごすのだ。外に出たら吹き飛ばされかねない。建物もいつ吹き飛ばされるかと気が気じゃない。あの吹雪を洞窟でやり過ごすなんて。それもほとんど子供だけで。
「……そこに救助のマヌエルが来たんだ。シチューで煮込んだハンバーグ、俺にまで振る舞ってくれた。めちゃめちゃ美味かった……」
「シチュー、知ってる。俺の振る舞ってもらったものも、シチューだって確かフェルドが言ってた」
「は?」
何が意外だったのか、ウィナロフは座り直した。「なんだって?」
「え? シチューってあれでしょ、茶色くて、スープよりどろっとしてて、中に野菜とか肉とかがごろごろ入って」
「違う、そうじゃなくて。誰がそう言ったって?」
「その、こないだ会ったマヌエルが。フェルドって名前だった、たぶん」
ウィナロフは唸った。知り合いだろうか。
「もうひとりは?」
「名前は結局聞いてない。でもなんか新人っぽかった。髪がすごく長くて。膝まである長さで、大人しそうな外見で……」
「瞳の色は灰色?」
「うん、そう。……知ってんの?」
返事の代わりに、ウィナロフはため息をついた。そして苦笑した。「ああ知ってる」そう言って、笑う。
「俺が雪山でシチューを振る舞われたのも、同じふたりだ。……無事に帰ったかな」
「あのさ、ウィン」
ラルフはロープを放して、ウィナロフの前に膝をついた。
「……それでもあんた、狩人続けるの?」
「ん?」
「俺わからないんだ。わからなくなった。狩人になりたかったんだけど。大きくなったら絶対ここ出てって狩人になるって決めてたんだけど。……最近わからなくなった。ハイデンは狩人なんてやめとけって言う。でも……でも、俺はあの島に残るのは嫌だ……」
話している内に、自分の本音に気づいた。
難しい理屈を色々付けて自分を誤魔化そうとしていたが、とどのつまり、ラルフは、あの島から出たくてたまらないのだ。半年前には分からなかった。ラルフはあそこを家だと思っていた。
でも今は、そう、思えなくなりはじめている。
ウィナロフはしばらく考えて、ぽん、とラルフの頭を叩いた。優しい感触。温かい。この人の体温はいつも高い、と、ラルフは思う。
「……お前の場合は事情が事情だからなあ。そりゃ仕方がないよ。でも、ひとつ、言っておくよ。あの島から出る方法は、狩人になるということだけじゃない。他にも方法はいろいろある。シグルドがやったように、駅員になったっていい。ディーンさんの系列のレストランで働くって手もある。そりゃ一番手っ取り早いのは狩人になるってことだけど、お前はもう、無理だろう」
「なんで?」
ラルフは顔を上げた。自分でもちょっとおかしいな、と思わないでもなかったが、ラルフは自分の腕に自信がある。大きくなったら、グールドにも負けないはずだ、と思う。ラルフはただの子供じゃなかった。ハイデンはラルフの才能を認めて、大人にさせるような仕事まで任せてくれる。ルッツには狩人は無理だが、同じにされるのは心外だ。
「俺強いよ。足も速いし、棍棒だって、」
「能力的な話をしてるんじゃないよ。そりゃあお前が狩人になったら、グールドにも負けないくらいの精鋭になるはずだ。……けどさ。お前はもう魔女を知ったじゃないか」
「――」
「狩人がいつも人手不足なのはさ。危険だからじゃないんだ。一度だって魔女と深く関わったり、助けられたりしたら、もう〈銃〉なんて持てないからだ」
「……なんで」
「お前が揺らいでるって聞いて、安心したよ。お前は真っ当に育ってるんだ。自分にシチューを振る舞った人間を撃ちたくないと思うのは当然のことだ」
「なんで?」
「それに狩人には先がない。単細胞のバカばっかりだ、というか、バカじゃないとあんな仕事はできないんだ。お前みたいな子供が憧れるような職業じゃない。もともと自然に反した職業なんだよ。そのうち自滅する。五十年近く保ったのが、不思議なくらいなんだ。やめておいたほうがいい」
「なんでさ、」
「お前いくつだっけ。十六になったら、リファスに行ってシェロムさんに頼めば――」
「なんでさ。……そう言いながら、でもあんたは狩人なんだろ!」
そう言うと、ウィナロフは黙った。ラルフは言葉を重ねた。半年考え続けた様々な矛盾と疑問を、ぶつけるように。
「なんで狩人やってんの。あんたルクルスじゃないんだろ。俺達みたいに、生まれつき隔離されたりしてないんだろ。まだやめないんだろ。俺らルクルスの居住地を訊ねて来てさ、本とか美味いもんとか、布とか針と糸とかさ、なんだかんだ差し入れてくのって、狩人に勧誘するためじゃないのかよ」
ウィナロフは、また舳先の方を見た。沖に出て、追い風が吹き始めていた。舟はするすると滑るように海を走る。
ラルフは舟を操るのが得意だった。風さえあれば、魔女の箒にだって、きっと負けやしない。負けてたまるものかと、いつも思う。エスメラルダという国の懐に抱かれて、大事に大事に守られている魔女なんかに。
そう思っていたのに。八年ずっと、そう思っていたのに。
たった何杯かのシチューと甘塩っぱい砂糖衣の芋だけで、価値観が根底から揺らいでしまった。
ウィナロフはつぶやくように言った。
「俺は……」
「爺たちはみんな、あんたの手助けしてやれって言う。ハイデンも、狩人になんかなるなっていいながら、でもあんたの手助けだけはしてやれって。あんたが【風の骨】じゃなくなっても、新しい【風の骨】が来るだろうから、またその人の手助けしてやれって――狩人はいい仕事なの、悪い仕事なの、どっちなの!? 自然に反した職業なら、単細胞のバカばっかりなら! 爺どもやあんたがっ、狩人を続けて歓迎してるのは一体何でなんだよ……!」
「大人にはな。嫌でもなんでも、やらなきゃいけないことってのがあるんだ」
ウィナロフの声は静かだった。ラルフは地団駄を踏み、大きく舟が揺れた。大人、って言った。ラルフは子供だと。子供だから話しても分からない、お前には関係ないことがらがこの世にはたくさんあるのだと! 理不尽だ。悔しい。説明してもらわなけりゃ、何も分からないままじゃないか!!
「例えば先生を、無事に外に連れて出るとかな。ひとりでできることには限度がある。狩人って地位には、利用価値があるんだ」
「なんだよそれ!」
「先生は? どうしてるか話せ。――もうお話の時間は終わり。仕事の時間だ」
ぴん、と銅貨をもう一枚放られて、つい受け取ってしまって、ラルフは衝動を抑える。あまり暴れると、舟がひっくり返ってしまいかねない。
「先生は?」
「先生は、元気だよ……でも……文献リストを取りに行くタイミングが、なかなか来なくて……」
ウィナロフは、ラルフの話を黙って聞いている。この男はいったい何なのだろうと、ラルフは思う。いつも。
ああ、忌々しい。謎も混迷もラルフの煩悶も、深まるばかりだ。




