出張後(11)
始発、と言うのは、その日初めて走る列車のことを言うらしい。
動道は24時間止まることがないので新鮮だったが、と言って、面白がれるほどの体力は既に残っていなかった。温かな食べ物と飲み物のお陰で寒さはすっかり収まったものの、代わりに襲ってきたのは睡魔だ。座った瞬間に意識が飛びそうになり、シグルドの低い声がそれを引き戻した。
「ごめん、ひとつだけ確認させて。グールドがどっちから来るかは、【風の骨】もわからない。そう言ったんだよな?」
「は、……はい」
情けない。不甲斐ない。こんな時なのに意識をはっきり保っておくこともできないなんて。
と、シグルドがマリアラに毛布を差し出した。
「つくまで四時間はかかる。寝てて。ついたら起こすから」
「はい、……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。こっちこそ、さっきは本当にごめん。無事で生きててくれただけで、充分ってほど――」
シグルドの声が遠ざかっていく。深くて暗くて温かなどこかに、沈み込んでいく。
耳の底で、マギスとシグルドの低い声が、切れ切れに囁きかわした。
――グールドの。万一。エスメラルダから。すれ違う駅の。ヴェルノーの駅。
危険。警戒。――絶対に。
マリアラの頭を隠すように、そっとカーテンが閉められた。広げた毛布を掛けてくれたのは、知覚することができなかった。列車が走り出すのを感じることもできなかった。情けないと、思った。フェルドならばこんな醜態はさらすまい。もし保護されたのがフェルドだったなら、シグルドもマギスも、こんなに心配して気を使う必要もなかったはずだ。春の森で雨に降られても、服のあちこちに隠し持った様々な道具で、凍えないで済むよう様々な対策を練っただろうし、そもそも狩人に追われて逃げる必要もなかったし、ミランダを抱えたシグルドを突き飛ばす必要だってなかった。
それは魔力が強いから? もちろんそれもあるけれど。
――ううん、違う。
キャラメルを持っていたのもフェルドの助言のお陰だった。甘い物はいざというときに絶対に必要だ、と彼は言った。確かにそのとおりだったし、そもそもマリアラは、“いざという時”が自分に降りかかってくるなんて、考えもしていなかった。
それを“魔力が強い”という単純な事実だけで片付けてしまうのは、失礼なことだ。
ざわめいている。
マリアラはまた、目を覚ました。
もうすっかり日が昇っているらしく、辺りはとても明るかった。
そののどかな朝日に似合わない非常事態が起こった、と言うことはすぐに分かった。乗客がざわめいている。いや、どよめいていると言った方が正しい。「畜生、なんでなんだよ」マリアラの左隣でマギスが毒づき、マリアラの向かいの窓際で、カーテンを少し開けて外を覗いていたシグルドが、言った。
「狩人だ」
「……え」
誰かが前方で、窓を開けた。
冷たい風が吹き込んで、マリアラの前髪を揺らした。列車の走る音に加えて、あの耳障りな轟音が確かに聞こえた。浮遊機でこの列車を追っているらしい。どうして、と思った。どうして、なんで、一体どうして? この列車に乗って帰っていると言うことが、何故狩人に分かったのだろう?
「狩人め、恥を知りやがれ――がっ」
窓の外に向けて怒鳴ったおじさんが、〈銃〉で撃たれて仰け反って倒れた。悲鳴が上がり、マリアラは、立ち上がりかけた自分を何とか抑えた。大丈夫、と言い聞かせる。大丈夫、あの人は魔女じゃない。普通の人は、〈銃〉で撃たれても死ぬわけじゃない。
マギスが腰を浮かせながら囁いた。
「グールドの勘か?」
「バカな」シグルドは呻いた。「勘で魔女がどこにいるか分かるなら、そりゃもう人間って呼べない」
「あいつぁ人間辞めてるからなーもう」
「〈アスタ〉どころか、シェロムさんにも知らせてない。【風の骨】が知らせるとも思えない。何でだ?」
「浮遊機に乗ってんのはグールドか?」
「わからない。一台じゃない」
「次の駅で乗り込んでくるぞ。顔まで知られてるとしたら、」
「次の駅は――そうか、ヴェルノーか!」
マギスとシグルドは何か悟ったかのように顔を見合わせた。マリアラは混乱した。何が何だか分からない。
分からないが、ふたりの様子からするに、最悪に近い事態になったようだと言うことはわかる。「駅に通報する」マギスは無線機を片手にその場を離れ、シグルドは、マリアラを覗き込んだ。
「箒は持ってる?」
「は、――はい。持っています」
「浮遊機が複数飛んでる。箒は最後の手段だから、いつでも使えるようにしておいて。事態を説明する。推測だけど、グールドが乗った始発は、エスメラルダ方面から出るものだったんだと思う。狩人が君の乗っている列車を特定できた理由はまだわからない。だが今このタイミングで仕掛けてきた理由は分かる。あと五分でヴェルノーの駅に着く。グールドの乗った列車と、今俺たちが乗っている列車は、その駅ですれ違うんだ。つまりヴェルノーの駅に、グールドが来る」
すうっと顔から血の気が引いた。ヴェルノーというのは、確か、エスメラルダ駅とアナカルディアの、中間辺りに位置する駅だ。
「ここから線路は単線になる。あっちから来る列車の方が遅いから、この列車はあっちを待たないと先に進めない。列車の待ち合わせを辞めさせるのは不可能だ。ヴェルノーは比較的大きな駅だから、駅員も、今追いかけてきてる狩人と同じくらいはいるはずだ。シェロムさんが駅員みんなに指示を出してくれる。軍隊も警察も要請するから、心配するな。ヴェルノーに着いたら降りて駅舎に駆け込む、増援が来るまでそこで持ちこたえれば――」
がしゃん!
ガラスの割れる音と共に悲鳴が上がった。
〈毒〉の匂いがぱっと散った。がしゃん、今度は左側のガラスが割れて悲鳴が上がる。飛び散るガラスの破片がはっきりと見え――がしゃん! 右側がまた一枚割れた。窓の外の浮遊機から、〈銃〉で、ガラスを一枚ずつ割っているのだ。それも両側から。カーテンが翻り、浮遊機がはっきりと見えた。ひとりが運転し、ひとりが〈銃〉を構えている。朝の明るい光の中で、その光景は異様だった。がしゃん! もう一枚割れた。もう一枚。もう一枚。着実にこちらに近づいてくる。
車両内はパニックに陥っていた。散乱するガラスと〈銃〉に追い立てられるように乗客がこちらに逃げてくる。――ばしゃん! 水のような音と共にガラスが割れ、〈毒〉の塊がガラスを巻き込みながら男性の脇腹に炸裂した。悲鳴と毒がばらまかれ、血がぱっと散った。ガラスの散乱した床に男性が倒れ込んだ。どん、倒れた男性の背の上に続けざまに〈毒〉が撃ち込まれる。
――悪夢だ!
「行くな!」
シグルドの怒声にも足が止まらなかった。傷口から〈毒〉が入ったら、普通の人でも身体に〈毒〉が回ってしまう。死んでしまう。目の前でガラスが割れ一瞬足が止まった、その隙に、後ろから駆けつけたシグルドがマリアラを抱え上げた。「それが奴らの狙いなんだ」まるで子供を抱えるかのように軽々とマリアラを担ぐと、次の車両に逃げていく乗客の後を追うように走り出す。倒れた男の人が取り残されていく。「放して!」マリアラの目の前で、どん、また男の人の脇腹に〈毒〉がたたき込まれた。まるで嘲笑うように。助けられるものなら助けてみろと、嗤っているかのように。
「放して! 放し――」
「頼むから!」
怒鳴るように言ってシグルドは、車両と車両の連結部分にマリアラを引きずり込んだ。すれ違うようにアルノーが倒れた男の人のところへ行った。ばすんばすんと狩人が撃つ〈銃〉をものともせず、ケガ人を担いで、隣の車両へ移動させていく。それを見送りながら、シグルドはマリアラを押さえつけて囁いた。
「ほら、見ただろう。君が飛び出さなくても、人はちゃんと助けられる。君はもう一度やった。ミランダが無事に帰れたのはもちろんそのお陰だ。でも覚えといて。もう一度狩人の前に飛び出していくなんて絶対にダメだ!」
「でも、」
「それが奴らの狙いなんだ! 分かるだろ!? 奴らは充分分かってるんだ、左巻きの魔女は人が目の前で死のうとしているのを見過ごすことができないって! 分かっててやってるんだ! そんなやり口に乗せられるなんて、絶対にダメだ!」
「そー、分かっててやってるのさ。それが狩人ってやつだもん」
聞き覚えのある、明るい声がした。
シグルドが硬直した。
見ると隣の車両の真ん中に、見覚えのある、赤い髪の若い男が立っていた。




