出張後(10)
「切符も買ってくれたし、“くるま”のお金も払ってくれました。お知り合いなら……代金をお預けしたら、渡してもらえますか?」
「いや、それはどうかな……俺こっちに来てから会ってないからね。それに受け取らないと思う」
「シグ」
マリアラの右隣に腰を掛けたアルノーが窘める。シグルドは頷いて、マリアラを見た。
「ごめん、あの人については、あまり話せないんだ」
「そうですか」そんな気がしていた。
「でもなんでアナカルディアで乗らなかったんだ? わざわざ隣の駅まで移動するなんて」
「ええと、その……グールドが始発で戻ってくるって知ったんですって。だから」
「!」
ウィナロフのことだけでなく、グールドのことも、ふたりとも知っていたらしい。今度の反応はとても劇的だった。
「グールドだって!? 今こっちに向かって――」
「はい。今別のところにいるんだけど、呼び戻すことにしたって、聞いたそうです。始発に乗って帰ってくるって。でもどこから来るのかまではわからなかったそうで、アナカルディアから乗ると鉢合わせするかもしれないって」
シグルドは、マリアラの頭越しにアルノーを見た。「シェロムさんに知らせますか」
「……」
アルノーは、喉の奥でうなった。「……どーすっかな……いや、やめた方がいいだろうな。増員する時間もねえし、傍受されたら目も宛てられん」
時間がない、と聞いて、マリアラは時計を見た。もう、朝の五時だ。
シグルドもアルノーも、ひと晩捜してくれたという。
それで、ようやく思い至った。ミランダは既にエスメラルダに帰っている。マリアラが行方不明になったことも、ダニエルやララやラセミスタや、フェルドも、きっと知っているはずだ。
「あの、出る前に、〈アスタ〉に連絡を取りたいんです。この駅に通信できるところはありますか?」
「それはやめた方がいい」
シグルドの声は鋭かった。その言い方に、驚いた。
「え?」
「いやまあ、万一のためにね」
「……でもあの、みんな心配してると思うから……」
「出張医療を失敗させるってことのメリットは、アナカルシスにはないんだ。ひとつたりとも。狩人以外は、だけど」
急に話が飛んだ。シグルドが何を言っているのか、一瞬分からなかった。
「……はい?」
「でもエスメラルダ側にはあるんだ。狩人が出張医療に来た魔女を殺したら、出張医療を打ち切ることが出来るだろ。狩人の存在を許していることに対しても、今まで以上に批判できる。出張医療が狩人の襲撃によって失敗したら、エスメラルダは、アナカルシスに対してさらに強い切り札を持てるんだ」
「……何の、話……?」
「今回の狩人の動きはおかしすぎた。初めの予定では、出張医療が終わった日の宿は、馬車で北方に移動した先に用意してあったんだ。それをあの日、急遽変更した。そっちの方が安全だとシェロムさんが判断したんで。……でも狩人は、リファスの駅に来るって、俺達が移動を始める前から知ってたとしか思えない。俺達が移動を始めてから知ったとしたら、あれだけの準備を整えられたはずがない」
少し、意味がわかってきた。
「その上奴らは君がラクエルだって知ってた。シェロムさんでさえ、君に会って初めて知ったくらいだったのに」
――だってラクエルだぜ? 貴重じゃないか。
「毒に耐性があるのはラクエルだけなんだろ。ラクエルを相手にするってわかってなきゃ、高価な浮遊機を二台も用意しておくわけがない」
「え……と」マリアラはこめかみに手を当てて呻いた。「どういうこと……ですか……?」
「君がラクエルだって、襲撃前に知ってたのは、アナカルシス側ではシェロムさんと俺だけなんだ。君が治療中とかに誰かに教えてなきゃ、だけどさ。宿のこともぎりぎりの直前までほんの一握りの人間しか知らなかった。〈アスタ〉には連絡したけど。だから」
シグルドの声がさらに冷たさをおびた。
「念のため、今君が無事でここにいるってことも、ほんの一握りの人間しか知らないようにしといた方がいいってこと」
「……でも」
「はっきり言えばね、俺もシェロムさんも、こっち側の人間は誰も、この件に関しては〈アスタ〉のことを信じてないんだ。そもそもアナカルディアのすぐそばに出張させるのに、右巻きのイリエルひとりつけようとしない。マリアラがいなくなったって連絡したら、保護局員を派遣するって言ってきたけど、来たのはたったのふたり。捜す気があるんだかないんだかね。捜すと言うより、事後処理のために来たとしか思えないんだよな」
アルノーが続けた。「出張医療に来た魔女の安全は全てアナカルシスで責任を負うべきだって、理屈はわかるけどなあ。アナカルシスだってそりゃ総力を挙げて魔女を守るさ。二度と来てもらえなくなったら大変だし、そもそもアナカルシスの国民を治してくれた魔女の安全を守るくらい、最低限の礼儀ってことだ。けどエスメラルダの方だってもう少し、魔女の心配をしてもいいんじゃないかって、思うよなあ」
「君には嫌な話だろうけど、俺たちとしては、君を見つけた以上、是が非でも無事にエスメラルダに戻ってもらわなきゃ困るんだ」
それは。
マリアラはぞっとした。
――〈アスタ〉が狩人に出張医療の情報を流したということ?
いや〈アスタ〉が、とは限らない。でも、エスメラルダの中に、狩人に情報を流して、ミランダとマリアラを狩人に殺させようとした人間がいる、ということになるのだろうか。
少なくとも、シグルドもアルノーも、それを危惧しているのだ。
「おいおい、あんまり脅すんじゃないよ」
明るい声がした。
見ると、右手にほかほか湯気を立てる器を持った男の人が立っていた。さっきシグルドたちと一緒に“くるま”を降りた、もうひとりの人だ。左手にはおにぎりが入っているらしい、竹の皮を模した包みを持っている。
「お前らさあ、青い顔して凍えてる女の子を両脇からよってたかって脅すとか、何考えてるんだよ。――ほら、熱いから気を付けな」
そう言って彼は器をマリアラに渡した。冷えた手には器越しの熱も痛いほどだ。中身はおでんだった。出汁の香りが鼻をくすぐる。じゃがいもとか玉子とか、大根とかちくわとかが、いい色に煮込まれてほかほかと湯気を立てている。
マリアラは驚いていた。――そう言えば、こんな食べ物があったのだ。
温かくて幸せな、日常の食べ物。
「食えなくてもいいから、飲むだけでもやってごらん」
「ありがとう……」
湯気が当たって、頬まで痛い。お腹が空いているような気はしなかったが、ひと口出汁を飲むと身体が震えた。キラキラした熱の塊が喉を通って身体の中に落ちていく。
疲労と恐怖で縮こまっていた身体が、緩んでいく。思わず、ふうっとため息が出る。温かくて素朴で、慣れ親しんだ優しい味。
シグルドが呻いた。
「……そうだよな……ごめん。ちょっとその、……気が立ってて。悪い……」
「愛しのレイエルとのデートを泣く泣く諦めなきゃならなかったからって、その友達に当たるなよ。なあ」
「うるさいですよマギスさん」
シグルドはあっさり一蹴した。マリアラは思わず顔を上げ、マギスと呼ばれた男を見た。マギスはニヤリと笑う。
「もうすぐ始発が来るから、少しでも食っておきな。お前場所代われよ、気遣いが足りねーんだよ全く。そっち見張ってて、始発が来たらすぐ教えろよ」
マギスはこの三人の中では一番年上らしい。アルノーをさっさと追い出して、あいた場所にどかりと座った。
空気がすっかり変わっていた。マギスの存在が、しみじみとありがたかった。そのお陰だろうか、出汁を飲んでいる内に、少し食欲が湧いてきた。箸で大根を割ると、中まで味が染みている。口に入れる。充分に熱くて、柔らかくて、舌の奥が痛い。
「……美味しい」
呻くとマギスは嬉しそうに笑った。
「だろ? ここの美味いんだよー。って、俺もまだ食ったことないんだけどさ、さっきの運ちゃんが、あっこのおでん美味いから食わせてやれって教えてくれたんだよね」
運ちゃん――というのは、さっきの気のいい運転手さんのことだろうか。ありがたい、と思った。よく考えたら、昨日の昼からほとんど何も食べていない。何より、優しい気遣いの気持ちが、ありがたい。
自覚すると急に、身体が空腹を思い出した。しばらく一心不乱に食べた。出汁を飲んで、大根を食べて、たまごを食べて、ジャガイモを食べてこんにゃくを食べた。マギスは親切に、おにぎりを差し出す代わりにおでんの器を持ってくれた。塩味のおにぎりは握られたばかりでほくほくで、絶妙な塩加減で、また身体が震える。あっという間にひとつが消えて、指についた米粒を食べる。マギスはすかさずおでんの器をマリアラの手に戻してくれながらシグルドをからかった。
「まー許してやって。次のデートはいつになるやらだしなーシグ」
「うるさいですよマギスさん」
食べ物の威力は絶大だった。冷え切っていた身体は、じんわり温かくなってきていた。その温かさを堪能しながら、そっかあ、と思った。
そう言えば、ミランダはシグルドのことを、好きになりそうだったのだ。そもそもマリアラが出張医療に同行することになったのも、出張先にこの人がいると言うことを、知ったからだった。
狩人に追われた恐怖と凍えた経験によって断絶されていた“日常”が、思い出されてくる。本来は今日、ミランダとシグルドは半日の休暇を満喫するはずだった。そう、“デート”のはずだった。
マギスの言い方では、シグルドの方も、ミランダと一緒に過ごしたいと思ってくれていたようだ。つまり、両思い、という、ことになるのだろうか。
しかしそれにしては平然としたあしらい方だ。もう少し恥ずかしがるとか照れるとか、してもいいのでは。
「この機会に聞いといた方がいいんじゃないのか。あの子の休みの日とか、次の出張の予定とか、全然聞ける状態じゃなかったろ、昨日」
マギスが言い、シグルドが沈黙した。マリアラが顔を上げると、シグルドはむすっとしていた。マギスが笑う。
「そもそも恋人がいるかどうかってことすら聞いてねえんだろー? そういうこと全部、自由時間に聞こうと思ってたのに、気の毒だなあ、シグ」
「……うるさいですよマギスさん」
マリアラは思わず微笑んだ。あんまり平然としてもいなかった。
「ミランダは今医局の治療者登録を目指していて、ずっと医局に詰めています。出張の予定はいつか分からないけど……待遇がかわるまで、確か、金曜日は休みだと言ってたような気がする」
「忙しいんだなあ、やっぱ。よーく聞いとけよ、シグ」
「マギスさん、あっち行っててくれませんか」
「聞く気はあるんだ。ははは。メモ貸してやろうか」
「線路に蹴落としますよマギスさん」
「で、恋人は?」
マギスはシグルドの威嚇には全然注意を払わなかった。マリアラは笑いそうになるのをなんとか堪えていた。面白い。
寒さと恐怖の記憶が和らいでいく。おでんとおにぎりとマギスのお陰で、日常が、戻ってくる。
「いないみたいです」
「そうかそうか。良かったなあ、シグ」
「あと少しで列車が来る。早く食べた方がいいよ」
シグルドはそう言ってそっぽを向いた。マギスはうししし、と笑い、マリアラはおでんとおにぎりに意識を戻した。良かった、と思っていた。シグルドはミランダが手紙を出すように脅迫したことも、手紙を出してすぐに出張医療で再会したことも、迷惑だなんて全然思っていないようだ。
ミランダに言ったらどんな顔をするだろう。
少なくとも明日にはその顔が見られる。そう思って、マリアラは微笑んだ。十徳ナイフとキャラメルと、ウィナロフと、シグルドやマギスたちのお陰で、日常に、帰ることができるから。




