出張後(9)
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アナカルディアの駅はリファスやエスメラルダよりはるかに大きく、きらびやかだった。鉄道の交差する要衝でもあり、大昔から発展してきた街なのだから当然だ。
こんな時じゃなかったら、とまた思った。寒くて、まだ疲労も残っていて、狩人の襲撃に怯えている今でなかったら、華やかなアナカルディアのそこここに残る過去の痕跡に胸をときめかせていただろう。
――それにしても、寒かった。アナカルシスはエスメラルダよりずっと温暖で、おまけにもう四月なのに、まるで真冬のように感じられる。ここまで歩いてくるだけで倒れそうだ。
駅の傍には、ぴかぴかの乗り物が数台、停まっていた。前の席に人が座って、退屈そうにしているのが見える。ぴかぴかの乗り物は、低い振動音を立てながらかすかに震えている。妙な匂いもする。狩人に追われて逃げたときに嗅いだ匂いだ、と思い至ってゾッとする。
あの乗り物は、一体何なのだろう?
どうして駅前で、どこにも行かず何もせずに所在なげにしているのだろう?
マリアラの不審など気にもせず、ウィナロフは淀みない足取りでそのうちの一台に近づいて行く。窓を叩いて中の男とぼそぼそ会話を交わし、振り返った。
そして顔をしかめた。しまった、というように。
「……一駅移動した方がいい。あいつがどっち方面から来るか分かってないから」
頭が働かない。何を言っているのかわからない。寒くて寒くて、凍えそうだ。指先が氷のように冷たい。唇の震えを、止められない。
ウィナロフはゆっくり歩いてくると、マリアラを覗き込んだ。
「エスメラルダにはない乗り物だろうから、心配なのはわかる。でもあれは狩人とは関係ない乗り物だ」
「そう……なの……?」
「始発に乗った方がいいんだけど、この駅で乗るのは勧めない。グールドがどこから来るのかわからない。もしリファス方面から乗ってきたら、ここで鉢合わせすることになるだろ。エスメラルダやウルクディア方面から来るなら移動の意味がないってことになるけど、リスクはできるだけ減らした方がいい」
「……うん、」
どうしよう、言葉が頭に入ってこない。でも多分、マリアラのことを案じて言ってくれているのだろう、ということはわかる。
ウィナロフはまたさっきの乗り物を腕で示した。
「あれは車だ。まあ、箒と似たようなものだ。運転手に頼んでおいた。後ろの席に座ってたら、隣の駅まで連れてってくれる。ほら、乗って。着くまでもう少し寝たらいい」
言葉の意味はよくわからなかったが、声は低くて、穏やかで、こちらを気遣う気持ちがさざ波のように感じられる。ありがたかった。何とかよろよろ歩いて、“くるま”というらしい乗り物に歩み寄った。ウィナロフが後ろの扉を開いて、マリアラを乗せてくれた。ちゃりん。硬貨の音が聞こえたような気がした。運転手に代金を支払ってくれたのだろうか。
そしてマリアラの手のひらの中に、何か小さな硬い、四角い紙切れが押し込まれた。切符だ。来るときにエスメラルダの駅で渡されたものと、同じ。
「これで借りは返したからな」
低い声が囁いて、扉が閉まった。ガラス越しに見えるウィナロフの顔は、ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、心配そうな表情を浮かべている。
「出ますよ」
運転手が言って、“くるま”が動き出した。ウィナロフの顔はすぐに視界の外に消えた。変な人だ、と、思った。親切なのに口が悪くて、優しいのに、ぶっきらぼうで。
どうして狩人なんて、やってるんだろう。もう二度と会うことはないのだろう。ちゃんと礼も言えなかった……
“くるま”の中はとても温かかった。目を閉じる間もなく意識が溶けた。
「お客さん、ちょっと」
目を閉じたばかりなのに、運転手の声で起こされた。
「悪いけど起きな。起きなって。あいつら知り合いかい? アナカルディアの方からさ、どうも追っかけてきてたみたいなんだけど」
緊迫した口調に、目が覚める。“くるま”の中は暗くて運転手の顔はよく見えないが、とても真剣な表情を浮かべているらしいのは分かる。マリアラは目をこすり、運転手の示す方を見た。ここはどうやら、もう、隣の駅のようだった。初めて“くるま”に乗ったのに、全然覚えていない。
この駅はアナカルディア駅よりはるかに小さいが、やはりぴかぴかの“くるま”が数台停まっていて、そこから男がふたり、降りたところだった。ひとりが足早にこちらに向かってくる。
「逃げるんなら言いな。振り切って次の駅まで乗せてってやっから」
「あ、……いえ……」
マリアラはもう一度目をこすった。ここの駅は小さく、まだ人通りもほとんどなかったが、ぼんやり明るい光がついている。その光に照らされて、こちらにやって来る人の顔がよく見える。
驚いた。どうしてここがわかったのだろう?
「大丈夫、知り合いです。逃げなくて大丈夫……」
「すみません」
低い声が運転手に言うのが聞こえた。
「大陸鉄道の駅員です。アナカルディアで少女を乗せませんでしたか」
「シグルドさん」
名前を呼ぶと、運転手の身体越しに、シグルドと目が合った。「なあんだあ!」運転手は笑い出した。「あー良かった、いやー乗せるときにどーも訳ありっぽい感じだったし、だいぶん前からこっちを追っかけてきてるみたいだしって、悪漢に追われてんじゃねーかって無用な心配しちまったよ!」
「あ、あの、ありがとうございました」
「なになに、いいっていいって! ちょっとは休めたかい? 何があったか知んないけど、気ぃ付けて帰んなさいよ!」
運転手は、ずいぶん気のいい人のようだった。その間にシグルドが扉を開けてくれた。降りると外の寒さに驚いた。しかしここまで熟睡できたお陰で、少し気力が戻って来たようだ。
「代金は、」
シグルドの問いに、運転手はまた笑った。
「いやもう充分ってほどもらってっから!」
「そうですか。どうもありがとうございました。――行こう」
「そこのさ!」運転手は窓から身を乗り出して手を振った。「駅舎ん中、待合室あっから! 始発まで待合室で待っときなよ、ホームは寒いから! な!」
本当に、気のいい人のようだった。マリアラは微笑んで、頭を下げた。“くるま”で追いかけてきていたのは、シグルドの他にもう二人、いた。どちらも見覚えのある人だった。先日、出張医療が終わった後の馬車の中でヴィレスタに詰られていた男の人。もうひとりも、駅の中で狩人から守ろうとしてくれた人のうちのひとりだ。
待合室に入ると、シグルドは長々とため息をついた。
「……無事で良かったよ」
呻くような言い方だった。ずっと捜してくれていたらしい、ということをそれで悟る。
「心配掛けて、ごめんなさい……」
「いや、無事で本当に何よりだよ。座って。あんなことをさせてしまって申し訳なかった」
「いえ、そんな。あの、ミランダは? ミランダは大丈夫ですか?」
「ああ、君のお陰でね。予定を早めて、昨日無理やり帰したんだ。残ってマリアラを捜すって、言い張ったんだけど」
マリアラはシグルドを見上げた。
「良かった……」
心の底からほっとした。ミランダは、大丈夫だったんだ。
「ほらほら、座って。顔色が悪い」
促されて、ベンチに座り込む。足が震えている。指先も。と、後からついてきていた男の人が、マリアラに上着を差し出した。マリアラのものだ。
「この人は、アルノー。俺と同じ、シェロムさんの世話になってる、アナカルシスの駅員だ」
シグルドの説明に、アルノーと呼ばれた男の人は、少し表情を緩めて軽く頭を下げた。マリアラも頭を下げる。昨日、リファスの駅でマリアラとミランダを身体を張って守ってくれようとした内のひとりだ。
「寒いだろ、ほらこれ、着なよ」
「他の荷物は全部、ミランダと一緒に先に返したんだけど、それだけはマリアラに必要だからってミランダが言い張ってさ」
シグルドが説明してくれ、マリアラはありがたくそれを羽織った。念のために入れてきた、裏打ちのついた暖かなオーバーコートだ。ふんわりと包まれて、心底ホッとする。
「アナカルディアの駅で【風の骨】と君を見かけたって連絡が入って……それで追っかけてきたんだ。本当に、無事で良かった」
「【風の骨】」
役職名を知っているのか。ウィナロフは有名な人なのだろうか。マリアラはシグルドを見上げた。
「あの人が、わたしを見つけて、ひと晩匿ってくれたの。お知り合いですか?」
「ああ、まあね……うん、ひと晩君を捜したけど、その、何て言うか……もう捕まっちゃったんじゃないかって、心配してた。でもあの人が関わってるって聞いて、全部腑に落ちたよ。運が良かったね。あの人は狩人の本拠地が嫌いで、滅多に帰らないって言ってた。その滅多な機会にちょうど当たるなんて、本当に運がいい」
「……嫌いなの? 狩人なのに?」
そう言えば、確かに、狩人に対してあまり友好的な発言をしていなかったような気がする。単細胞のバカだとか、酷い言い方をしていた。自分の仲間なのに。
変な人だ、とまた思った。狩人なのに狩人にあまり友好的じゃなくて、本拠地に帰りたがらなくて、魔女を匿ってくれて、駅まで送ってくれて、列車代と“くるま”の代金まで出してくれた。“もっと休ませてやりたかったけど”とまで言った。
この期に及んで、死にたくないだろ、とも。
「狩人なのに……親切な人ですね」
「あの人は特別でね。狩人だけど、口も悪いけど、人助けばっかりしてるんだ」
思わず顔がほころんだ。確かにそんな感じだ。




