第四章 仮魔女と狩人(7)
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あの狩人が、リンを羽交い締めにしている。
それを見た瞬間、マリアラは思わずジェイドの後ろから飛び降りた。「わー」いきなりマリアラの体重が消えた弾みでジェイドを乗せたミフは上に流れていく。地面までかなりの距離があったが構ってはいられなかった。すっかり消えたはずの手のひらの傷がずきりと痛んだ。
「リン……!」
「ちょっ、危ない!」
リンに届く寸前で、誰かがマリアラの行く手を阻んだ。断固たる力で押さえられマリアラは叫んだ。
「放して! 放して!!」
「ちょっと待て、落ち着け! 【壁】に触ったらダメだろ!」
「じゃあっ」
マリアラはその時初めて、グールドとリンが既に【壁】の向こう側にいる、ということを理解した。
「どうしてリンはあっちにいるの!? いったいどうして!」
「【炎の闇】はどうやら【壁】を通過できる魔法道具を何者かから支給されていたらしい。ゆゆしき事態だ」
ガストンが呟き、マリアラはもがく。マリアラを抱き留めているのはダスティンというマヌエルだった。彼はマリアラの耳元に囁くように言った。
「気の毒だけど、もうどうしようもないよ」
マリアラは愕然とした。「どう――」
「狩人は【壁】の向こうにあの子を連れてった。俺たちに【壁】を通れる魔法道具はない。今から【国境】に行ってあっちまで駆けつけてもその頃にはもうあの狩人は――」
ダスティンは言いよどみ、マリアラはその先を悟った。血の気が引きそうになる。
「放して……」
「悪いけど放せない。【壁】は超えられないんだ。あっちに行くのは不可能なんだ。気持ちだけじゃどうにも」
「正確には不可能じゃない」
パタン、と音がした。ガストンが無線機を閉じた音だった。今まで低い声で、誰かと話していたらしかった。
「【壁】周辺警備の保護局員が使う緊急避難用の魔法道具がある。さっきの若いのに取りに行かせた」
「間に合えばいいな」
ダスティンが宥めるように言った。マリアラは唇を噛む。
間に合うはずがない。ダスティンがそう思っているのがわかる。わかって、しまう。
グールドとリンが何か話しているのが見える。見えるのに、その声は全然聞こえなかった。いったいどうして、と思わずにはいられない。いったいどうして――
その時、フェルドが言った。
「ちょっと考えがあるんだけど」
フェルドの『考え』を聞いて、皆の目の色が変わった。
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「リン=アリエノール。僕と一緒においで」
【壁】の向こうでダスティンに抱き留められたままのマリアラを見ながら、グールドが言った。
「僕はあんたが気に入ったよ。狩人に入れてあげるから、僕と一緒においで」
いったい何を言い出すのだ。リンは呆れた。
「嫌よ。絶対に、狩人になんかならない」
「そうじゃなかったら殺す。と言っても?」
グールドの赤い瞳がリンを見下ろす。リンはグールドの右手に、あのぎざぎざのついたナイフが玩ばれているのを見た。
「僕と一緒に来ないなら、あんたはのたれ死にだ。この【壁】は僕の持つ魔法道具なしでは超えられない。エスメラルダの【国境】はここのほぼ正反対にある。雪山をぐるっと回っていかなきゃいけないし、その途中には魔物の牧場もある」
さっき【壁】越しに遠目に見えた魔物の姿を思い出した。リンは唇を噛む。
「エスメラルダは魔女じゃない人間には冷たいよ。たぶん保護局員があんたを探しに来てくれることはない」
「そんなこと……なんであんたにわかるのよ」
「わかるよ。僕だって、エスメラルダで生まれたんだから」
そう言えばさっきもそんなこと言ってた。リンは混乱した。エスメラルダ育ちの人間が、魔女を殺す狩人という職を選ぶ。その心理状態が、理解出来ない。
グールドは愛おしむように微笑む。
「今まで一度も、おかしいと思ったことない? 孵化する人間と、しない人間がいる。孵化しても魔力の強い魔女と、弱い魔女がいる。一般人の中にも魔力の強弱がある――それならさ、生まれつき魔力を全然持たない人間もいるかもしれないって、考えたことない?」
「なんの……話?」
「エスメラルダは大都会だ。魔法道具の発展によって世界最高の生活水準を維持してる、治安も良くて、便利で快適で、外国からはこの世の楽園のように思われてる。……そんな国でさ、魔法道具を使えない人間はどうしてるんだろうって、一度も想像してみたことない?」
紅い瞳が、リンを見ている。
「エスメラルダで魔力の素養のない人間は、お湯を沸かすことも、灯りを付けることも、温かい晩飯を食べることも、シャワーを浴びることもできない。魔力のある人間に介助してもらわない限りはね。そんな不便を託っている人間に、今までひとりも会ったことない、はずだ。それって、どうしてなんだと思う」
「どうし、て……?」
「僕はずっと、この森を焼き払ったらどんな気持ちになるかなあって思ってたよ。あんたは、そういう国に住んでるんだ。ねえ、どんな気持ち?」
そう言ってグールドは微笑んだ。牙の見えそうな微笑みだった。
「……自分たちが享受してる安楽は、魔力の素養のない人間を虐げることで成り立ってたんだって――知るって、どんな気持ち?」
「そ……んな」
「だから僕は、狩人を選んだ。エスメラルダが自由で平等な楽園だなんて嘘っぱちだ。あんたが生まれてからずっと住んできた国は、魔力の強弱で厳密に格差を付けられた階級社会なんだよ。あんたは魔法道具を使える、だから生存を赦されている、でも孵化をするほどの魔力はない。だから――狩人に攫われても、保護局員は助けにまでは来ないよ。もちろんマヌエルもね。あの子は来てくれそうだけど、か弱い左巻きの仮魔女一人でエスメラルダから出たりしたら、狩人の格好の餌食だよねえ」
リンは再び、【壁】の向こうに視線をやった。マリアラは自分を抱き留めたままのダスティンに、激しい口調で抗議している。
「狩人においで」
グールドに言われて。
リンは、笑った。
「無理だよ――だって」
エスメラルダは格差社会だとグールドは言った。確かにそうなのかも知れない。
グールドが魔力の素養を持たず、エスメラルダで育ったというのが本当なら、いったいどういう生活をしてきたのだろう。リンには想像もできなかった。リンは、そして恐らくはエスメラルダの平和な生活を享受する一般学生たちの殆どは、魔力の素養を持たない人間が普通に存在すると言うことさえ知らなかった。ルクルスという単語を知ってはいるけれど、何億人に一人という割合でしか生まれない、伝説じみた存在だと思い込んでいた。
それがそうじゃなかったのなら。
でも、それでも。
「あの子から魔力を奪って殺すなんて絶対に嫌だ」
「あんたにやれとは言わないよ。狩人は大きな組織だからね、事務方の人間もいっぱいいる」
「嫌だ」リンは繰り返した。「絶対に行かない。あたしは保護局員になるの。そして、マリアラとこれからも友達でいて、一緒にパン屋さんにまた行ったり休みの日に遊んだりするんだ。ちゃんとした装備をいつも持ち歩いた頼もしい保護局員になって、狩人が来たら守ってあげるんだ。あなたと一緒になんか、絶対行かない。魔女を、マリアラを、殺そうとする、あなたはあたしの敵だ」
「あの子はもう人間じゃない。孵化をして人間の殻を脱ぎ捨てて、マヌエルという生き物に生まれ変わった。エスメラルダみたいな格差社会で、最高位の存在と一般人のあんたが、対等につきあえるわけないじゃないか」
「そんなのやってみないとわからないよ、グールド=ヘンリヴェント。あなたは知らないだろうけど、あたしは知ってる。マリアラはすごくいい子なんだ。その心根のまま、孵化をして、魔女になったんだ。とっても人が良くて、面倒見も良くて、優しくて、頑張り屋で。あの子に救われる人はきっとこれから何千人にも増える。さっきあなたがあの子を殺していたら、その何千人の助かる運命もあなたが壊したってこと。狩人になるってことは、そういうことだよね。
あなたがどんな生活をしてきて、何を見て何を恨んできたのかあたしには想像もできない。でも、その恨みをあたしにまで押しつけるのは無理だよ」
*
「無理だろ!」
初めに叫んだのはダスティンだ。マリアラは胸の前で手を握りしめた。確かに、確かにそれができるなら、いつ届くかわからない保護局員の道具を待つよりずっとリンを助けられる可能性が高い。
「お願い……お願いします、お願いします!」
「いやだって、無理だろ!」
ダスティンが喚く。フェルドがちらりとこちらを見た。
「一度試したことがあるんだ。不可能じゃないんだけど、その途中で何が飛び出してくるかわからない。前は魔物の巣窟みたいなところがむき出しになった。それを抑えて欲しい」
「おいおいおいおいおい! もし失敗したら、エスメラルダにその魔物が傾れ込んでくるなんてことに……!」
「そうならないように抑えてくれ、って言ってるんだ」
「おまっ、何考えてんだ! どんだけ傲慢なんだよ!」
ダスティンが喚いているが、その声はマリアラの耳を素通りしていった。
地面に倒れていたジェイドがよろよろと右手を挙げた。
「俺のことは……期待しないで……できるだけ、頑張るけど……」
「マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエル。【炎の闇】は君に注目してる。声はいいが、表情に気をつけろ。その時まで奴に悟らせるな」
ガストンが言い、マリアラは顔を引き締めた。見るとリンは泣き出しそうな顔をしていた。どんなに怖いだろう。どんなに心細いだろう。どんなに、どんなに、辛い気持ちでいるだろう……
グールドがナイフを玩びながらリンを地面に倒し、その上にのし掛かった。
「リン……!」
「魔物の巣窟なんてっ、抑えられるわけないだろ! 一般学生一人のために、エスメラルダ全部を危険にさらす気かよ!」
「そーだな。準備はいい? 始めるよ」
フェルドがこちらを見て言い、マリアラは頷いた。その時に備えて、呼吸を整えた。




