間話 南大島 夜の見回り(上)
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研修も佳境に入り、昨日から、リンは南の大島に来ている。
今回の研修はどこの出張所の人たちも親切で、身体が非常にきついことを除けば、人脈を広げるのにうってつけだった。リンはここに来るまでに、持ち前の人当たりのよさと遠慮のなさで、保護局員関係の名刺コレクションを今までの数十倍に増やしていた。これも先輩方から教えられた知恵だった。味方は多い方がいい。今だけじゃなく、保護局員になってからも絶大な効力を発揮する。
それなのに、ここ南大島第一出張所でだけはうまくいかなかった。
所長はザールという、ガストンより少し若いくらいの男の人だ。フルネームは確か、ライナー=ハインヒルト=ザール。
――ひと月前に雪山にザールが来てるのも、前回と同じ。
あの真夜中の密談の時に、ゲン=リカルドがガストンに報告していた。狩人を引き入れたという嫌疑がかけられている、張本人。
この人がまた、ひどく冷たい人だった。それはもう、狩人を引き入れるくらいやるだろう、と、思ってしまいそうな人だった。
ガストンや仲間の保護局員に対しては、事務的ではあるが丁寧に応対していた。四角四面でも穏やかで、部下の人たちに出す指示も的確だ。頭のいい人らしいことをうかがわせる。
しかし、リンに対しては。
――まるで椅子やテーブルを見るような。
リンに目を向けるのは用があるときだけだ。それもとても冷たい、そっけない態度。おそらくこの人にとっては、リンはまだ“人間になる前”なのではないだろうか、と、思わずにはいられない。
そして、第一詰所の他のメンバーの大半も、似たような人たちだった。いや、ザールよりもっと悪い。ザールは人付き合いが悪く冷たいだけだが、他の隊員たちはその上粗暴でがさつで、臭い。みんな刺々しくて不親切で、生まれつき不機嫌な人なのだろうと、思わせる人たちばかり。
でも、中にひとりだけ、仲良くなれそうな人がいた。
ベネット=ラズロールと名乗った一番若い人だけは――
「んー……」
ベッドの中で、リンは首をひねる。変だなぁ、と思う。
ベネットは、顔つきが違うのだ。顔の作りこそ強面なのだが、根は悪い人じゃなさそうな気がするのだ。たぶんこの世にある、だいたいのものに対しては、好意的な人間だという気がする。こういう人が出張所に詰めていたら、きっと、近隣の人たちから頼りにされただろうと、思うような人だった。
けれど、今日一日で、リンに対して一番刺々しい態度をとったのも、ベネットだった。
理由がちっとも分からない。他の人やザールから冷たい態度を取られるのは、むなしく悔しい気持ちにはなるが、一応理由は分かる。リンはまだ保護局員ではない。目指しているだけの、“半人前”だから。ちゃんと接するほどの価値がないと思われているのだろう、そう考えて、自分をなぐさめることはできた。
が、ベネットがリンを嫌うのは、違う理由である気がする。ベネットは、保護局員になっていない人間に対して、意地悪をする人のようには思えない。例えば幼年組の子供に会ったなら、目線を合わせて挨拶をするだろうと思う。それどころか、肩車ぐらいやってあげそう。かくれんぼに誘われたら、付き合ってあげそう。そういう印象の男なのだ。
だからリンに対してあんなにとげとげしい態度を取ったのが不可解で、意味がわからなくて、もやもやする。
全く、ガストンが一緒でなければ、非常に居たたまれない三日間を過ごすことになったに違いない。
ガストンは本当に行き届いた人だった。南大島出張所でリンが身の置き所のない思いをすると、よくわかっていたのだろう。普段ならば出張所の隊員たちに丸投げする実技訓練も、ここでは自ら行ってくれたし、食事の時も見学の時にも全てリンをそばに置いておいてくれた。ゲンは『腹の中まで真っ黒だ』と言っていたが、とても信じられない。
とにかく、中日である今日も無事に乗り切った。明日さえやり過ごせば、こんな場所からおさらばできるというわけだ。
けれど。
――もし保護局に入れて、警備隊の所属になれて。南大島第一出張所に派遣されることになったらどうしよう。
眠る寸前にそう思い至って、おののいていたときだ。
「アリエノール!」
だんだんと扉を連打されて、ほとんど眠りかけていたリンはがばっと顔を上げた。あの声は――
即座に返事をし、上着だけひっつかんで二秒で扉を開けたのに、しかしベネットは「遅えっ!」と怒鳴った。リンは内心を押し隠して、申し訳ありません、と返した。ベネットはリンをじろじろ見て、顎をしゃくった。
「来い。夜の見回りだ」
リンは逆らわずに、了解しました、と返して、そのまま部屋を出た。ベネットは呆れたようだった。
「身支度とかいらねえのかよ。一応女のくせに」
どことなく残念そうな口調だった。身支度をしたいと言い出すのを待って、思うさま罵倒するつもりだったのだろう。リンはほっとして、上着を着込みながら、ベネットの後について行く。
どの研修でも変わらず、研修生は一番下っ端だ。警備隊にも不機嫌な男というのは存在して、そういう人間は事あるごとに研修生を相手に憂さ晴らしをしようとする。その上研修生は黙って耐えるしかないのだ。あの研修生は駄目だと噂でも撒かれたら、保護局に入れなくなるかも知れない。
けれど研修生とて無力ではない。長年の間にできた知識の蓄積というか、早い話が先輩方の苦労話が乗り切り方を教えてくれるのだ。リンもたっぷり基礎知識を仕入れてからこの研修に挑みに来た。抜き打ちの呼び出しに備えて、パジャマなど絶対に着ないように、すぐに出られるように下着なども身につけたまま眠るように、身支度などはこの一月の間だけと割り切って二の次にするように、警備隊員の言い掛かりを入れる余地をできるだけ作らないように、備えて来たのだ。
けれどどのみち、ベネットにはあまり意味がなかった。ベネットは本当に、リンのことが個人的に気に入らないらしい。イクスと同じだが、イクスよりいい点は、それを隠す気もなく、明けっ広げでじめついてないところだ。イクスより悪い点は、リンを気に入らない理由が、いまいちよく分からないところである。初対面だというのに、本当にわけがわからない。
リンは正直残念だった。南大島出張所の中で、唯一気さくにおしゃべりに応じてくれそうなのは、ベネットだけなのに。その唯一の男はよりによって、リンを嫌うタイプの男だった。幼い頃からリンはなぜか、ある特定の人間にとても嫌われる。イクスとベネットを入れると合計五人に上る。その全員がリンより少し年上の男なのだ。出会う前からどうやら嫌われていたようなのが不思議だが、まあ今回もその口なのだろう。
リンはため息をついて、気持ちを切り替えた。残念だが、たぶん持って生まれた星のせいなのだ。だったら悩んだって仕方がない。
ベネットは無言で宿舎の外へ出た。光珠を手に、森の中を進んでいく。リンはあくびを押し殺した。もう秋が深い。上着を着込んでも肌寒い。と、唐突にベネットが光珠を放って来て、リンは慌てて捕まえた。取り落とさずに握りしめると、ベネットがちっと舌打ちをする。
「落とすくらいしろよ、可愛げがねえな」
落としていたら鬼の首を取ったごとくに罵倒したくせに。
リンは苦笑した。疲労と眠さのせいだろうか、ベネットの棘があまり気にならず、なんだか楽しくなってきた。悩んでも仕方ないことなのだから、楽しんだ方が得だ。ベネットがもうひとつの光珠を掲げて先を行く。見回りにリンを伴わなければならないなんて、きっとはらわたが煮えくりかえっているだろう。この見回りの間にたくさん嫌がらせをしてやろうと思っているに違いない。
南の大島では、夜の見回りを行う時間は担当の警備隊員の采配に任されているそうだ。こんなに早く行く気なら、リンがあてがわれた自室に引き上げる前に連れて行ってもいいはずだ。きっとリンが油断して布団に入って、うとうととまどろみかける時間を見計らっていたのだろう。つまりこの時間を選んだのも嫌がらせというわけだ。わかりやすい。イクスに比べたら可愛いものだと思う。イクスはこんなにあからさまなことはしない。指導官や先輩諸氏にあることないこと吹き込んだり吹き込まなかったりするから、イクスを相手にしていると本当に気が滅入るのだ。だがベネットはガストンやザールに、リンの悪口を言ったりはするまい。そう思うとなんだかもう、よしよしと頭でも撫でてやりたい気分だ。
少なくとも、他の隊員と一緒に夜の見回りをするよりは遙かにマシだ。ベネットはリンを嫌っているが、リンはベネットが嫌いじゃない。
「見回りって、なんのためにするんですか」
だからリンは会話の接ぎ穂を作るために声を上げた。
ベネットは鼻を鳴らした。
「……教えてやんねえ」
そうですか。
ベネットはやはり、根は親切な男らしい。リンは闇に隠してニヤリとした。
「今回の研修で、お世話になった出張所はここで五つ目です。どの出張所でも夜の見回りはしてました。エスメラルダの治安を守るため、警備隊の方々は真夜中でも交代で警邏に出ている、ということさえ、最近まで知りませんでした。こたびの研修では警備隊のお仕事が本当に大変なものなんだって、いろいろ学ぶことが出来、感謝しています」
ベネットはじろりとリンを見た。何が言いたい、とその目が言っている。
「……でもここの出張所では、夜の見回りは、少し違った目的でなされているような気がするんです」
「……」
「教えてやらない、とおっしゃいました。私が今まで他の出張所でも夜の見回りに参加させていただいてきたことをご存じのはずなのに。ここに来るまでに何を学んできたのかと、叱責されると思っていたんですけど」
「……」
苦虫を噛み潰したような顔が明かりに浮き上がり、リンはにっこりと笑ってやった。どうせ嫌われているのだし、ベネットの悪意はリンには実害も無さそうだから、取り繕う気も起こらなかった。
「普通見回りってあれですよね、三人から五人の組が、交代で警邏に当たりますよね。常時ひとつかふたつの組が、例え真夜中でも、出張所の近辺を見回っている。でもここの出張所にはもちろん、そんなに人数はいませんから……というか、私、ここでは、他の出張所でやるような夜の見回りはないものだと思っていたんです。やるにしても研究所兼出張所の周囲を見回ればいいように思います。研究所の近辺にはセンサーを張り巡らせてあるんだから、普通の不審者はまず入れません。だからそれで充分ですよね? だって他の場所には住民もいないんだもの、治安を守るもなにもないですよね。それなのにベネットさんは光珠を掲げてまっすぐ森の中に踏み込んでいくんですね。何を目的に見回っているんでしょうか」
「……」
「それに見回りは、担当の方が好きに時間を決めるとか。見回る範囲も任意で決めるんだそうですね。まるで抜き打ち検査みたいです、ねー」
「……お前さ」
「はい」
「そう言うことぺらぺら喋って、怖くねえのかよ」
「ベネットさんは特に武器も持っていないし、特殊なベストなども身につけてないし、こんなにあからさまに光珠、掲げて歩くし。別に警戒してるわけでもないのかなと」
「俺がお前を外に連れ出してどうにかするとか思わねえのか」
「ここなら大声出せば誰かに聞こえますから」
「あーじゃあ、海に蹴落とすにしてももちっと遠ざかってからやるわ」
「うわ、きつい冗談。元彼みたい」
「は?」
ベネットが呆れた声を上げ、リンは笑った。
「昔の彼氏にいたんです。冗談がちっとも冗談に聞こえない、それも全っ然面白くない、きっついことばかり言うの。自分では巧いこと言ってやったと思ってるのが丸わかりで、なんか、いつも無駄に勝負を挑まれてる気になったんですよねえ。なんで彼氏と会うのに丁々発止で渡り合わなきゃいけないんだか、根源的な疑問を抱きまして、三日で別れました」
「……お前いくつだっけか」
「もうすぐ十七です」
「むかつくわーお前、ほんとに」
ベネットはやれやれと足を進める。どうやら毒気を少しは抜いたらしい。リンは言葉を継いだ。




