出張後(5)
ウィナロフはそのまましばらく歩いた。マリアラはほとんど眠っていたので、どこをどう歩いたかも良くわからなかった。ふと気づくとそこはもう森の中ではないようだった。地下らしい。濡れたままの背が冷たい。ややして階段を上がって、頭上を押すと、再び地上に出た。雨はまだ降り続いていた。それも土砂降りに近い強い雨だ。
「凍え死にさせる気なんだか……それとも、隠す気だったのかな。……なわけないか」
ウィナロフが一人言を呟くのが聞こえた。
雨に打たれたのはそれほど長い時間ではなく、またすぐにどこかに入った。正規の入り口ではないらしい。跳ね蓋を持ち上げたからだ。そこに隠された階段に、慣れた様子で、ためらいもなく入っていく。蓋を閉めると闇が落ちる。目を開けても何も見えないが、何かくねくねした通路を通っているらしいのはわかった。ここはもう建物の中のようだった。空気が乾いてきて、少しだけ暖かくなってきていた。永劫にも思えるような長い長い時間が過ぎて、ようやく立ち止まった。
扉が開いた音がした。軋む音が闇に響く。ずいぶん古い扉のようだ。
乾いた空気の匂いがする。今までの通路よりなお濃い闇が辺りを包んだ。けれどウィナロフはどこに何があるか把握しているようで、闇を突っ切って長椅子にたどり着いた。そっと降ろされて、「今明かりを点ける」と囁かれて、温かな腕が離れて、急に寒くなった。
長椅子は埃くさかったが、柔らかくて、乾いていた。身体が沈みそうになる。ふわりと明かりがこぼれた。蝋の匂い。何か焦げ臭い匂い。それはどうやら燭台のようだ。なんて原始的な、と考えた。
「光籠もないんだ、この部屋。どれくらい光があれば乾かせるんだ?」
燭台もひとつしかなく、周囲が若干見えるとはいえ、明るくなったとは言い難い。マリアラはゆるゆると首を振った。今の状態では、真夏の正午の太陽に照らされていても、魔力を使えるかどうかわからなかった。そのまま長椅子にずるずると身を横たえた。眠い。
「寝たら死ぬぞ」
ウィナロフは冗談ともつかない声で言った。本気だったらしく、燭台を長椅子のすぐそばに置くと、あの温かな手のひらで、乱暴にマリアラの肩を揺すった。
「荷物は? 薬は? 魔法道具は?」
「……全部落とした」
答えるとウィナロフは呻いた。
「だと思ったよ。聞いた俺が馬鹿だった。着替えもない?」
「ない」
「この暗さじゃ見ようたって無理だから安心して、とりあえず濡れた服全部脱げ」
言い捨てて、離れていった。マリアラは目を閉じた。ひどく寒くて、何より眠たかった。
ウィナロフはすぐに戻ってきて、
「……無理やり全部引っぺがすぞこのやろう」
熱い手のひらが無理やりマリアラの身体を引きずりあげた。ついでにがくがく揺すられた。頭に乾いたタオルが掛けられて、容赦のない力でわしわし拭かれた。
「なんでこんなに髪が長いんだよ。リンって子くらいなら面倒がないのに。ほら脱げっつうの。着替え貸してやるから着替えろ。今度戻ってきたときまだそのままだったら無理やり脱がすからな」
言い捨ててまた離れていった。マリアラはしばらく呆然としていたが、どうやらウィナロフは本気でマリアラを助けようとしているらしいと、遅ればせながら気がついた。それはそうだ。そのとおりだ。あんな隠し通路をわざわざ通ってここまで担いでつれてきたのだ。殺す気なら外でやった方がずっと面倒がないし、こうまでして騙す意味がない。無理やり脱がされてはたまらない。冷え切った両手を動かして、なんとかびしょぬれの服を脱いだ。タオルは山ほどあった。顔を拭いて、濡れた身体をこすると、少し暖かくなったようだ。髪を乾いたタオルでくるんで、それから手探りで着替えた。乾いた衣類は全て男物で、だぼだぼだったが、着終えるとやっと、人間に戻った気がした。
燭台の明かりを頼りに、周りを見まわした。一体この部屋はなんだろう。
石造りの部屋だった。狭く、窓ひとつなく、簡素な部屋だった。家具ときたら長椅子と寝台くらいしかない。寝ることだけを目的に作られた、部屋というよりはただのすき間だ。扉がひとつある。さっき入ってきたものだろう。でもウィナロフは違う場所から出て行ったようなのに、そこにはただの壁があるばかりだ、と考えていると、まさにその壁が動いた。四角く光が差し込んで、ウィナロフが戻ってきた。手に籠と盆を持っている。
「ようやくあった」
それだけ言って、マリアラに盆を寄越した。盆の上に、ほかほか湯気を立てるマグカップがひとつ乗っていた。匂いからするとどうやらミルクだ。蜂蜜入りだろうか、と、ぼんやり思う。
――あの時。ウィナロフと初めて会った時、フェルドがみんなに振る舞ったものと、同じ。
「飲めよ」
「……ん」
今さら警戒したって意味のないことだ。そこまで恥知らずじゃない――そう、つまり、そういうことなのだろう。あの時雪山で、フェルドはゲンの主張に構わず、吹雪の中に追い出そうとはしなかった。その恩を今返してもらっているのだろう。フェルドじゃなくて、その相棒である自分が。情けは人のためならずって、きっとこういうことをいうのだろう。
マグカップを持ち上げた。手が震えて、落としそうになった。カップの表面は冷え切った手には触れないほど熱い。ふうふうと息を吹きかけて少しずつ啜るうちに、ウィナロフが光籠を準備していた。籠の覆いを外すと、燭台とは比べものにならないくらいの光がふわりとこぼれ出た。
目や皮膚から光が染みてくるような気がする。泣きそうになりながら、マリアラは言った。
「……どうして、わたしを助けてくれたの」
ウィナロフはまじまじとマリアラを見た。
「さっきのは寝言だったのか?」
そうだった。頭が上手く働かない。
「さっき、どうやってわたしを隠したの」
言い直すとウィナロフは、ふん、と言った。
「企業秘密」
「エスメラルダにまだいると思ってた。国境通ってないって聞いたもの」
「なんにでも裏口ってものは存在するんだ」
「ここは……」
次第に、ミルクの味がわかるようになってきた。やっぱり蜂蜜が入っていた。
「ここは一体どこなの? 王宮なの?」
「惜しい。同じ敷地内にある、王妃宮と呼ばれる建物」
「王妃宮……」聞いたことはあった。「この部屋は、あなたの部屋?」
「そういうわけじゃないけど。存在をあまり知られてない部屋だから心配はいらない。狩人には単細胞の馬鹿が多いから、こういう部屋があるだろうから捜してみようなんて思う人間があまりいないんだ」
自分の仲間に向かってあんまりな言いぐさだった。ウィナロフは捜してみたのだろうか、だからこの部屋の存在を知っていたのだろうか、とマリアラは思う。
ウィナロフは立ったまま、注意深い目でマリアラを見ていた。マリアラはまた一口飲んだ。甘い温かな液体が、光のように体中に染みていく。
「隠し部屋って、こと?」
「そう。王妃宮は王宮より遙かに古い建物だから、こういう隠し部屋がいくつもある。そっちの、」とウィナロフは、先ほど自分が入ってきた壁の方を指した。「壁にも出入り口がある。けど出るなよ。昔はなんか、王子の部屋だったらしいんだが、今はいくつにも仕切られて狩人の宿泊所になってるから。今は誰かを捜すんで出払ってるけど、そろそろ戻ってくるだろうし」
マリアラはまた部屋を見まわして、ふと、天井に穿たれた小さな穴に気づいた。
人の頭が入るかどうかと言う小さな穴だ。へそくりとか隠すには良さそうな穴だ、と思う。
「王妃宮って王宮より古いんだ……」
呟くとウィナロフは呆れたようだった。
「一度も崩れてないからな。なんでそんなことが気になるんだよ。さっきまで死にそうだったのに」
光があるからかも知れない、とぼんやり考えた。そしてここが既に外ではなく、雨の降りしきる春の夜ではなく、乾いた居心地のいい場所だからかも知れない。そして甘い温かなミルクが胃の中に落ち着いたからかも知れない。手足はまだ冷え切っていたが、血が通い出しているのが感じられる。
暖かい。もうこの暖かさに、抗えない気がする。
「……えるか?」
ウィナロフの声が意識を引き戻した。え、と声を上げると、ウィナロフは言い直した。
「何か食えるかって聞いたんだ」
「……いらな、い」
それより眠たかった。ミルクをなんとか全部飲み終えると、盆の上にマグカップを戻すので精一杯だった。倒れ込みそうになりながら、必死で床に手を伸ばして、先ほど脱ぎ捨てたままの、ぐしょぬれのスカートを探った。でも冷たい。手が巧く動かなくて、ポケットがどこにあるかわからない。
「何? 何がいるんだ」
ウィナロフがかがみ込んで、ポケットに手を入れた。
「ああ、キャラメル……かな? 食うのか?」
「違……う」
「でも他には十徳ナイフしかないぞ」
「それ」
ウィナロフはマリアラを覗き込んだ。
「今いるのか? なんで。護身用にしちゃ小さすぎだろ」
「いる、の」
「……あっそ」
濡れた、冷たい十徳ナイフが手の中に落とされた。マリアラはそれを握りしめた。ようやく安心して、長椅子の背もたれに頭を乗せた。ずるずると身体が沈む。
「そこ濡れてるだろ。寝るならこっち。毛布もあるから」
「ここでいい……」
「いいわけないだろ」
呆れたような声がする。でももう、動けなかった。意識が沈んでいく。ウィナロフがため息をついて、あの温かな手を伸ばしてきた。抱き上げられて、少し運ばれて、寝台に乗せられた。寝具は最近風に当てられたらしい。ふんわりとして柔らかい。
ウィナロフが離れていった。それすらもう意識の向こうにあった。この部屋は本当に居心地がいい、と思った。狩人の本拠地でこんなことを思うなんて、おかしいけれど。でも。
いい人ばかりが住んでた部屋だ。そんな気がする。
いつの間にか髪も乾いていたようだ。次にウィナロフが戻ってきたとき、マリアラはもうすっかり眠り込んでいた。毛布の下に湯たんぽが押し込まれたことも、顔に光が当たらないように、でも光を吸収できるようにと、光籠が枕元に置かれたことにも気づかなかった。手のひらの中に赤い小さなナイフを握りしめて、ぐっすり眠った。夢の中で、王妃宮が、この部屋が、王宮よりずっと古くから存在するのなら、ここでこうして眠った人は他にも大勢いたのだろう、と考えていた。




