出張中(6)
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尽きることなく補充されて来るように思えた患者の数も、二日目の夕方辺りには途切れて、教会の中は少しずつ空き始めていた。
三日目の昼を過ぎるころには格段に人が減り、一心不乱に治療を続けるミランダとの距離が、少しずつ狭まっているのに気づいた。
そして太陽が赤みを増し始める刻分には、最後のひとりの治療が終わった。その人は男の人で、ミランダに涙ながらに礼を言った。彼女に抱きつかんばかりの様子だった。シグルドとシェロムが両側から腕を抱えるようにして連れ出して行く。
「お疲れさまでした」
医師の一人が静かに言った。マリアラは今も頭痛を覚えていた。目もかすみかけていて、視界がちらちらする。けれどその深い声を聞いた時、疲れも吹き飛ぶほどの安堵を感じた。なんとかやり遂げた。ミランダの役に立ったとは言えないが、それでも、足手まといにならなかったことだけは確かだった。
「外で大勢待ってるんですよ、ひと目でもあなた方を見たいという人たちが。でももう日が暮れるし、もみくちゃにされたくはないでしょう」
ツィスを差し出しながら医師が言う。ふたつの籠に山盛り入っている。マリアラとミランダがそれをゆっくり食べていると、シェロムとシグルドが戻ってきた。ミランダが立ち上がったので、マリアラもよろよろと立ち上がった。ミランダが半日で治した患者の数は、マリアラの三日分に相当する。そのミランダがそれほど疲れていないようなのに、自分だけ座り込んではいられなかった。
「お疲れ様」
シェロムが温かな声で言う。マリアラを見て、微笑んだ。
「綺麗な色だな。目、見えてんのかい」
「あ……はい」自分の瞳の色が変わっていることに初めて思い至った。「疲れると色が変わるだけなの。痛くもないし、見えてます、ちゃんと」
本当のところ、ちゃんと、とは言い難かったが、見えないわけではないから大丈夫だ。シェロムはそうかい、と言った。
「ルクルスにも瞳の色が変わるって奴は多いんだよ。そっちは感情に左右されるんだそうだがな。……って無駄話してる場合でもないよな。この辺の家に泊まるのはどうかと思うんで、一度駅まで行って、ひと駅移動した方がいいと思うんだよ。念のためだけど、さすがにそろそろ、ここで出張医療があったってことくらいは、狩人も把握してるだろうからさ」
また狩人か。マリアラは思わずミランダと顔を見合わせた。
――そこまで恥知らずじゃない。
そう言ったウィナロフの声も聞こえたが、でも。
アナカルシスでは狩人というのは嘘でもなんでもない、現実の脅威なのだと、その時初めて、思った。出張医療に来たからって見逃してもらえるくらいなら、そもそも狩人なんて存在しないだろう。
「駅から応援も呼んだ。外に馬車が来てる。疲れてるとこ悪いんだが、日が暮れる前に移動した方がいいだろう」
シェロムに促されるままに、マリアラとミランダは医師や看護師に挨拶をして外へ出た。
太陽は少し赤みをおびてはいたが、まだ高い場所にあり、日没までは時間がありそうだった。光を浴びて、マリアラは少し頭痛が遠のくのを感じた。
その時、周囲で歓声とどよめきが上がった。目の前に馬車があったが、その周囲を大勢の――本当に大勢の人たちが、取り囲んでいた。馬車までのわずかな空隙に押し寄せてこようとするのを、シェロムとシグルドが身体を張って阻んでいた。ふたりの肩や腕の隙間からたくさんの人たちの腕が伸びて来、口々に叫ぶ声が聞こえた。ありがとう、また来て、本当に本当に助かった、という声に紛れて、これから家に来て子どもを治してくれないか、いっそここにずっと留まってくれないか、という悲鳴じみた声も確かに届いた。
馬車の中にも男の人がふたりいた。そうしないと窓から入ってこようとする人たちがいるからだとすぐにわかった。帰すな、引きずりおろせ、という怒声が遠くで聞こえている。マリアラが身を縮めると、ミランダがそっとマリアラの手を掴んだ。
「しょうがないの」
とても哀しげな声だった。
「ずっとここにいられるわけじゃない。全員を治してあげられるわけじゃない。そうしたいのは山々だけど……狩人に知られちゃうから、一カ所で治療できるのは三日が限度なんですって。だからもう、これ以上は、エスメラルダに来てもらうしか、どうしようもないのよ」
ヴィレスタが険しい表情でふたりの向かい側に座った。馬車の扉が閉められた。ミランダはマリアラの肩に顔をそっと預けて、囁いた。
「話には聞いてたけど……疲れてるから……哀しくなっちゃうわね」
「狩人さえいなけりゃな」
馬車の中にいた男の人が言った。憤りを含んだ、低い低い声だった。
「アナカルディアのそばまで来てもらったのは本当に久しぶりなんだ。別の場所ならああまで言う奴はそうはいない。ほんとに……狩人さえいなきゃ、もっと頻繁に、大勢来てもらえるし、こんなに慌ただしく、疲れ切るまで一日に患者を詰め込まなくたっていいし。そもそもエスメラルダだってもっと、アナカルシスの患者を受け入れてくれるはずだしな」
「受け入れが……」
少ないのか。思わず呟くと、男は手を振った。
「しょうがねえよ。そんなに手当たり次第受け入れてちゃ、患者ん中に狩人が混じって入るなんてことも起きるだろうしな」
ヴィレスタは険しい表情のまま、ずっと黙っていた。馬車がようやく動き出すと、少し経ってから、呟いた。
『ひどいです』
ミランダが顔を上げた。
「……ヴィヴィ」
『狩人は何のために存在するのですか。アナカルシスの王宮に本拠を置くと聞いています。アナカルシスの王はなぜ彼らの存在を許しているのですか。魔女は人を助けるのが仕事なのに。何も、悪いことなんかひとつもしていないのに。あんなに大勢の国民の方々がマヌエルの来訪を待ち侘びていて、マヌエルの来訪を王も許しているのでしょう、それでいながらどうして』
「……いろいろ噂は聞いているがな」
男は静かに答えた。ヴィレスタはしばらく待っていた。けれど男は、その噂については口を開こうとはしなかった。ヴィレスタは単刀直入に訊ねた。
『噂とは?』
「今話すようなことじゃないよ。ただでさえふたりとも疲れきっているじゃないか」
ふたりとも、というのは、どうやらミランダと自分のことらしい、とマリアラは考えた。ミランダの体が温かかった。その温もりがじわじわと頭痛や視界のちらつきを癒していく。端からは、この姿勢は、ミランダがマリアラに寄りかかっているように見える。でも真実は逆だった。ミランダが少しでもマリアラの疲労を軽くしてくれようとしている。
ミランダはすごい。どうしてこんなときに、こんなことができるんだろう。
マリアラはポケットの中の十徳ナイフを、スカートの上からそっと触った。
もう少し成長すれば。もう少し大人になれば、わたしもこんなふうになれるだろうか。
『狩人という組織ができたのはつい最近だと聞きました』
ヴィレスタが静かに言う。男はいや、と言った。
「もう五十年くらいは経つんじゃないか」
『はい、そうです。正確には四十六年です。マヌエルの歴史に比べればできたばかりと言える短い歳月です。なぜそのような組織が生まれ、なぜ、この短い間にエスメラルダを脅かすような強さにまで発展したのか。その成長を許し、望み、奨励しているのは誰ですか』
「……王宮だ」
『王は』ヴィレスタは冷たい声で言った。『アナカルシスの国民を代表する存在ではないのですか』
「王にはもう権力はほとんど無い。アナカルシスの国民を代表しているのは王じゃなくて国会だ。本拠も違う、国会の方は、ウルクディアって都市に――」
『王に権力がないのなら。国会が国民の代表であるなら。王に狩人の庇護を許しているのはなぜなんですか!』
「ヴィヴィ」
ミランダが静かに言った。静かだが、有無を言わせぬ口調だった。ヴィレスタは黙り、ミランダは、今ヴィレスタに責められていた男に言った。
「ごめんなさい」
「いや、謝ることはない。正論だからさ」
男は手を振った。哀しそうな声だった。
マリアラは目を閉じた。この三日の間に、ヴィレスタもいろいろあったのかもしれない。たくさん思うことがあったのだろう。来る時の無邪気な様子はすっかり消えてしまっていた。全身の感覚を張り巡らせているのが感じられた。警戒している。そんなに警戒しなくてもいいのに。
ふと、ウィナロフのことを思い出した。
あの人も、狩人という話だった。けれど、以前出会った【炎の闇】グールドという狩人とは、全く違う印象を抱かせる人だった。リンの話では、子供たちを守るための壁の役目をリンと一緒に務めてくれたし、一枚しかない防水布を提供までしてくれたという。フェルドとマリアラを攻撃しようという素振りすら見せなかった。それどころか、フェルドの二度目の孵化に立ち向かうことができたのは、あの人のお陰だった。
狩人にも色々な人がいる。
魔女にも色々な人がいるのと、同じように。
アナカルシスの人たちにも、色々な意見の人がいる。それも、当たり前のことだ。
馬車はかなりの速度で走っていた。追いかけて来る人も馬もいないようだ。
ミランダが伝えて来る温かさに、眠りに引き込まれそうになりながら考えた。
明日の自由時間は、できれば宿でゆっくり休ませてもらおう。そうすればお邪魔もしないで済むわけだし。シェロムにもそう伝えよう。疲れが取れれば、よく眠って、この頭痛がすっかり消えれば、この哀しい気持ちからもきっと解放されるだろう。シグルドとヴィレスタが一緒にいれば、ミランダはきっと大丈夫だ。地下街の遺跡を見たりして、羽を伸ばせばいい。もう残り一日しかないのだ、ああそうだ、地下街煎餅を買ってきて、と、ミランダに頼まなければ……




