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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
仮魔女物語
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第四章 仮魔女と狩人(6)

   *


 次に気がつくと、まだ、びいいいいい、という甲高い振動音が聞こえていた。


 全身が重く、力が入らない。ただ意外なことに、刺されたわけではないらしい。むき出しの顔と手の甲が冷たく、背中がズキズキするが、出血してるような感じはしない。


「この森をさ、ずっと、焼きたかったんだよね」


 グールドが言うのが聞こえた。リンが意識を取り戻したことに気づいたのか、それとも、独り言なのだろうか。

 声を出せそうもなかったので、リンは黙っていた。〈ねんりょう〉はどうなったのだろう? 事態はあんまり変わっていないようだ。意識が飛んでいたのは、そう長いことではなかったのかもしれない。


「いつもいつも、思ってたんだ。この山を覆う森を焼いて、あの島を覆う海に毒を流したら、どんな気持ちになるかなあって」


 ――変な言い方。


 リンはぼんやり考えた。

 狩人は、アナカルシスの存在だ。アナカルシスの国会に権力の座を追われた王様が、エスメラルダに対抗するためと称して組織した、魔女を殺すための訓練をし、魔女を殺すための道具を備えた、アナカルシスでもまるで癌のように思われている集団の構成員、それが狩人の定義のはず。


 ――それなのに、まるで、エスメラルダで生まれ育ったような言い方をしてる……


「そろそろかあ」


 グールドが呟いた瞬間に、ぷすん、と乗り物が言った。

 ぷすん、ぷすぷす、ぷすん。

 そして出し抜けに、振動音が止まった。


 どすん、どすんどどどど、ごごごごご、と、体が揺れた。〈ねんりょう〉が切れたせいで宙に浮いていられなくなったらしい、などと冷静に分析している余裕などなかった。リンは悲鳴を飲み下して乗り物にしがみついた。体がガクガク揺れて転げ落ちないようにするのが精一杯だ。


 グールドは素早く乗り物の方の手錠を外し、瞬く間にその輪をリンの左手にはめ、リンを抱えて乗り物から飛び降り、走り出した。グールドの肩に、まるで荷物のように抱えられている。視界を確保しようにも辺りは真っ暗で何も――いや、リンはホッとした。少し離れた後ろを、フェルドと、ガストンを後ろに乗せたダスティンが飛んできているのが見える。


 それにしても恐ろしい速度だった。本当に自分の足で走っているのだろうかと、グールドの足元を確かめたくなるほどの速さだった。

 と、背後のガストンが光珠を投げた。

 リンの頭上で炸裂した。リンが眩しさに目を庇った、その瞬間、


 ――ずしん!


 グールドの前方で地響き、と同時にグールドが向きを変えた。めりめり、木が倒れる音――ずしん、今度の地響きはすぐそばだ。グールドがリンを抱えたまま跳んだ。倒れた木を飛び越えた。また地響き、そして風切り音。光珠がまた飛来し辺りを照らし出す。現実味がまるでなく、頭がくらくらする。


「くく」


 グールドの喉が嬉しげに鳴った。


「止まれ!」


 ガストンの声。続いて水音がした。リンはぎょっとした。グールドとリンの頭上に、いつの間にか水の塊がある。かなり大きく、二人を押し包もうとするかのように上から覗き込んでいる。

 ずずず、水が鳴った。

 グールドが跳ぶ方が一瞬だけ速かった。リンは地面に投げ出され、すかさずまた抱えられた。水しぶきが降りかかりピシピシと凍った。グールドは氷を振り切るように走りながら、声をあげて笑った。


「すごいな――予想以上だ」


 何が、とは聞けなかった。口を開けたら舌を噛みそうだった。水が地面を這いながらグールドに追いすがろうとし、グールドはそれを振り切って走る。


 そこは、既に雪山の外れだった。西端の、海に続く崖の近くだ。【壁】が近い。グールドはどうするのだろうとリンは思う。崖の下は海だとはいえ、観光名所になるほどの切り立ち具合で、あんなところから飛び降りたら即死だし、この先には【壁】しかない。


 硬いものが砕けるがしゃがしゃいう音が背後から迫りグールドの靴を捉えた。グールドは倒れこみながら靴を覆う氷をナイフで砕いた。上からのしかかる冷たい水の塊がグールドを覆いこもうとした寸前に、ぴたりと動きを止めた。


 リンは唾を飲み込んだ。

 グールドが、今氷を砕いたナイフを、リンの首に突きつけている。切っ先が喉に当たりちくりと痛んだ。


「動くなよ、いー子だから」


 グールドは水に囁き、水が、まるでそれ自体が意思を持ってでもいるかのように下がった。光珠が少し離れた場所に炸裂し辺りを照らした。森はあとほんの数メートルで切れ、その向こうには【壁】が聳えている。


 こんなところまでリンを抱えて走ったのか。リンは舌を巻き、同時にぞっとした。グールドの身体能力はエスメラルダの常識を超えている。


「そのまま、動くなよ」


 グールドは水に言い聞かせ、リンを引きずり上げて立たせ、抱え上げて森を抜けた。

 皮肉なくらいの星空だった。

 【壁】の向こう側は曇天らしく、何も見えない。降るような星空が【壁】で遮られ半分に途切れている。リンは背筋がざわざわするのを感じた。グールドはいったい、何をするつもりなのか、薄々わかりかけている――ような、気がする。


「ヤケに、なったの」


 囁くとグールドは嬉しそうにリンを覗き込んだ。


「やっと喋った。いやー、今まで後悔してたんだよ、気絶なんてさせちゃったからさ――あんたの可愛いおしゃべりが途絶えたらもー淋しくて淋しくて」

「【壁】は通れないよ。本当なのよ」


 もしかして知らないのではないか。リンはそう思ったのだ。

 狩人なのだから、グールドはアナカルシスの人間だ。【壁】に取り囲まれたエスメラルダの子供なら、幼年組の時代から叩き込まれる常識を、もしかして持ち合わせていないのではないだろうか。


「透明だけど、あっちは見えてるけど――【壁】がある限りあっちには行けないんだよ。触ったら別の場所に移動させられる。その先は誰にもわからない。大地の底だったり、マグマの中かもしれない、高度千メートルなんて場所かもしれないんだよ。ここからは、逃げられないよ」

「あのね、僕だってエスメラルダで育ったんだから、そんなことくらいわかってるよ」


 グールドは微笑んだ。まるで何も知らない子供のおしゃべりを聞く、父親のような表情だった。

 リンはグールドを見上げた。


「え……?」


 そして、ぞっとした。グールドが足を止めない。そのまま、まるで【壁】など存在しないかのように、リンを抱えて後ろに下がっていく。


「ちょっ、ねえっ」

「僕がどこから入ったか。教えてやろうか、ジルグ=ガストン」


 後ろに下がりながらグールドは楽しそうに言った。


「エスメラルダの偉い人の中に、僕たちを招いてくれた人がいるんだ。そう言ったら、信じる?」

「待て、【炎の闇】!」

「嫌だよ。あんたと遊んでる暇はないんだ――」


 グールドがそう言ったとき、

 リンを抱えたままのグールドが、【壁】を素通りした。

 生ぬるい空気がリンを包んだ。


「!!!!」


 リンは反射的に暴れた。【壁】に触ってはいけない、触ったら死ぬ恐れが大きすぎる――子供の頃から骨の髄まで叩き込まれたエスメラルダ育ちのリンにとって、【壁】を通ったという事実はあまりの衝撃だった。どっと冷や汗が吹き出した。事態が把握できない。信じられない。

 だって、リンは生きている。【壁】はリンに、何の影響ももたらさなかった。通り過ぎたのだ、なのに、リンは無事だった。もちろんグールドも――死んでない? 本当に? どうしてだろう、意味がわからない。


 でもそれは、現実のようだった。【壁】のこちら側は既にアナカルシスであり、空気は生ぬるく湿っていた。たぶん五度は気温が違う。毛皮を着込んだ身には暑いくらいだ。

 グールドは混乱するリンをそっと地面に下ろして、慈しむように笑う。


「種明かしをしようか。僕はここに来る前に、ある魔法道具をある人から盗んで来た。保険のためにね。その人はちょっと抜けてて、結構隙が多くてさ」


 何を言ってるんだ、とリンは思う。

 【壁】を通り抜けることができる魔法道具――そんなものがこの世に存在するのか? それも〈狩人〉であるグールドが盗めるような相手が、持っているのか?

 それは誰、なのだろう。何故そんなものを、どうやって、手に入れたのだろう。


「……でもまあ、本当に使うつもりはなかった。第一に僕一人では使えないし、第二に、その人に怒られるのは避けたかった。何事もなかったみたいに、こっそり返しておきたかったんだけどなあ……」

「怒られ、る?」

「うん、あんたが今使ったからたぶんもう気づいてる。きっとすっごい怒ってる」

「怖い人なの?」


 グールドのような人間が恐れる相手だ。リンは雲を突くような大男を想像した。しかしグールドは微笑んだ。本当に、【学校ビル】のロビーにたむろする一般学生のような風情だった。


「別に怖くないよ。怒らせたくないだけ。……あっれ」


 グールドの口調が変わり、リンは機械的に、グールドの視線の先を見た。

 そこに、さっきの三人がいた。


 ガストンと、ダスティンと、それからフェルド。彼らは【壁】すれすれまで近づいていて、なにやら口論しているらしい。【壁】は空気を通れない、だから、あちら側の声も聞こえない。なのにリンとグールドは通った――と再び疑問で頭がいっぱいになりかけたとき、向こう側の三人の上から新たな人影が現れた。


 ジェイドと、マリアラだ。


「左巻きってすごいな。傷がすっかり治ってる」


 グールドが感嘆したような声で言った時、マリアラが箒から飛び降りた。


 ――リン!


 マリアラの唇がそう叫んだのをリンは見た。血と泥に汚れたマリアラの頬には血の気が全くなかった。彼女は一直線にこちらに走ってくる――危ない! リンが目を覆いかけたとき、ダスティンがマリアラを抱き留めた。


 ――リン! ……リン……!


 マリアラが全身で叫んでいる。でも声が聞こえない。

 その時リンは、自分がもはやエスメラルダの中にいないことを思い知っていた。

 【壁】を通れるのは光だけだ。マリアラの姿はすぐ傍に見えている。でも、他のものは【壁】を通れない。ここに来ようと思ったら、【国境】まで行ってアナカルシスに出て、それからぐるっと【壁】沿いにエスメラルダの外側を回ってくるしかない。何百キロもの空間を通らなければ、マリアラの声も、もちろんマリアラ自身も、ここへは来られない。


 グールドの手はリンの腕を掴んでいるのに。

 絶望的だ、と、リンは思った。

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