出張前(6)
次の階を過ぎ、さらに降りるうちに、騒動が少しずつマリアラを追うように上から下に移動していることについて、考える余裕も出てきた。
――フェルディナントを知らないか、と白衣の人は言ってた。
ということは……つまり、
「マリアラ!」
抑えた声で名を呼ばれてぎょっとした。まさに、そのフェルドの声に聞こえたからだ。
ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
「フェルド?」
「下、下。ミフいる? 自力で降りるのは、無理だった、やっぱ」
言われるとおりに降りていくと、階段の踊り場に作りつけられている扉が細く開いていて、フェルドの顔がちらりと見えた。慌てて覗き込むと、外につけられたわずかな足場――帰ってきた魔女が扉を開けるために立つ場所だ――に座り込んでいた。手すりも何もない、ほとんど壁面に近いその場所で、一体何をしているのだろう? ここは十五階と十四階の間だ。地面は、はるか遠くにかろうじて見えている。
そしてあまりのタイミングの良さにどぎまぎした。ダスティンに追いつかれたのがこの階でなくて助かった。
「な……何してるの?」
『フェルド、悪巧み?』
ミフが勝手に鞄から飛び出してうきうきとした声を上げた。ミフは正直だ、とマリアラは思った。ミフは最近とても大人しかった。マリアラが沈んでいるのを察知していたのだろう。でも久しぶりにフェルドに会って、ミフは大喜びだ。
――それはわたしが大喜びだと言うこと?
「逃亡中。フィがいなくてさ、部屋に戻ったり玄関から出たりしたら捕まるだろうしさ。通りかかってくれて助かったよ」
「箒まで取り上げられちゃってるの……?」
「信用ないんだ、俺。前科が多すぎるから」
フェルドはこともなげに言う。ミフが張り切って、勝手に元の大きさに戻った。マリアラはミフの柄を掴み、フェルドを見た。こないだは検査服で、裸足にスリッパ履きだったのに、今日はちゃんと普段着で、靴まで履いている。
「今日は検査服じゃないんだ」
「ラスが一時間くれたろ。毎晩いろんなものをいろんな場所に隠しておいたんだ」
「……たくましいね」
思わず微笑んだ。フェルドはやっぱりフェルドだった。なんだかすごくホッとした。
呼吸まで軽くなった気がする。自分がどんなにフェルドに会いたがっていたのかを知って、不思議に思った。事態が変わった訳じゃないのに、一緒にいるだけでホッとするというのは、一体どういうわけだろう。
「でも逃げちゃっていいの?」
一応訊ねると、フェルドはマリアラの後ろに乗りながら、いいんだよ、と言った。とても腹立たしそうな声だった。
「もうやってられっか。毎日毎日似たような検査ばっかりで、本当に飽き飽きした。うんざりだ。専門家じゃないだろって、言われて、それもそうかと思ったんだけどさ……でもやっぱ、どう考えても同じ検査ばっかやってんだよ。そもそも二週間も大人しくしてやったんだから、そろそろ休みがあったっていいはずだろ」
「二週間?」
そんなもの?
【魔女ビル】から飛び立ちながら、マリアラはびっくりした。
まだ二週間しか経っていなかったのか。
「もう半年くらい経ったような気がしてた」
呟くとフェルドは頷いたようだ。
「本当にな。最初から、二週間経ってもまだ検査が続いてたら、無理にでも自由時間を奪取しようと思ってたんだけど、日が経つのが遅いのなんの。で、マリアラ、どこ行くんだ? 普段着で」
「ああ、うん。明日からね、ミランダと一緒にアナカルシスに出張に行くの。で、そのための、両替とか買い物とか、行こうと思って……」
「出張? ヴィヴィが言ってたけど、……一緒に行くんだ?」
「うん、そうなの」
話す内にミフはつつがなく下降し、【魔女ビル】から少し離れた、ひとけのない路地裏に降りた。フェルドは丁重な口調で、ありがとう、と言った。マリアラは背の高いフェルドを見上げて、どういたしまして、と微笑んだ。これくらい、本当におやすいご用だ。
「次の逃亡の日を決めておいてくれれば、その場所にまた偶然通りかかれると思うけど」
「ああ、それはありがたいなあ。でも無理だと思うよ。今日俺の脅迫を受けて渋々逃走を幇助したんだから、次は警戒されるだろ」
「脅迫?」
思わず笑うと、フェルドも笑った。
「そう、脅迫。言うこと聞かないとサソリを三十匹部屋に放してやるって言われたんだぜ、さっき」
「何それ!」
ふたりは声をあげて笑い出した。久しぶりに笑った気がした。
名残惜しい気持ちだった。フェルドはきっと、今から自由を満喫しに行くのだろう。
と、フェルドが言った。
「買い物というと、ウル地区に行く?」
「え、うん、特には決めてなかったけど……。フェルドはどこ行くの?」
「外の空気が吸いたかっただけで、俺も別に決めてないんだ。暇」
「あ……そうなの?」少し勇気が要った。「……じゃ、一緒に行く?」
「いいよ」
ぶっきらぼうにフェルドは言った。買い物なんて興味がありそうにも思えないのに、本当に何をするためでもなく逃亡したんだな、とマリアラは思う。でもマリアラとしてはありがたいことだった。なんだか名残惜しい気分だったし、出張なんて初めてだし、旅行だって、学校行事以外ではほとんどしたことがないのだ。フェルドは頻繁に行方不明になっていたそうだから、きっと、必要なものにも詳しいだろう。
「出張って、出張医療のことだよな?」
歩き出しながらフェルドが言った。周囲を見まわしているのは、追っ手が来ないかどうかを確かめているからだろうか。マリアラが追いつくと、フェルドは歩く速度をやや緩めた。足の長さが違うので、歩く速さも自ずと違ってくる。
「ミランダがね、アナカルシスに出張に行くって、だいぶ前から決まってたんだって。それが明日から四日間なんだけど、昨日ね、急に、わたしも一緒に行くことになったの。ミランダが……」
――誰にも言わないで。
真摯な口調を思い出した。
「……人手が足りないって、言うから」
「そっか。頑張れよ」
「うん。頑張ってくる」
「最近、荷運びもやってるんだって?」
「ん? うん」
フェルドがマリアラの近況などを知っていたことに、少し驚いた。
「グレゴリーのいる空島にね、ラスに頼まれたの。なんか、気に入らない人だと隠れちゃうんだって。わたし、ラスにコツを聞いたんだ」
「ふうん」
「あと製薬と、それから医局のシフトもちょっとだけ。薬の勉強もしてるよ、いつでも使えるようにって」
「……相棒をさ」
フェルドは静かに言った。
ひどく苦しそうな声だった。
「新たにつける話、出てる、って?」
どきんとした。
ダスティンの、真剣な、噛み付きそうなまなざしが思い出された。
――俺は諦めてないよ。
背筋が粟立って、答えるのが一瞬遅れて、フェルドは、悟ったようだった。
「出てるんだ」
「出てないよ」
きっぱりとマリアラは答えた。嘘じゃない。〈アスタ〉からは一言も出ていない。
そろそろお店の開き始める時間だった。エスメラルダ一の繁華街であるウル地区は人であふれ始めていた。その雑踏に分け入る直前で、フェルドは立ち止まっていた。にらむような視線を受け止めて、マリアラは微笑んだ。
そうだ。出てなんかない。ダスティンが勝手に言って来てるだけで、誰からも強制されたわけじゃない。
「……〈アスタ〉からは一言も言われてない。だってフェルドはただ、二度目の孵化を迎えただけだよ。あれは不自然な出来事じゃなかった。なのに相棒を違う人に回すなんておかしいもの」
「でも――」
フェルドは視線を落として、珍しく言いよどんだ。フェルドも不安だったんだ。そう思うと、胸の奥にたまっていた澱んだなにかが、ゆるゆると溶けていく気がした。
「ほんとにおかしいよ」
つい、愚痴めいた口調になった。
「わたしもフェルドも駒じゃないんだもの。相棒に二度目の孵化が起こったぐらいで、じゃあ次の人って、他の人と組むなんて、できるわけないじゃない。でもそう言ったら、子ども扱いされたんだよ。今はショックで混乱してるんだろうから、時間を置いて冷静に考えてみて、なんて言われたの、ほんとに失礼しちゃう。落ち着いて考えても同じなのに」
フェルドは苦笑した。マリアラも笑って見せた。
「医局もね、いつフェルドが戻って来てもいいようにって、シフトに組み込まれたわけじゃないの。本当に、ただ、忙しいときに入るだけ。空島には、〈アスタ〉は担当になって欲しそうなそぶりだったの、グレゴリーが隠れもしなかったからだって。でも、フェルドが戻ったら無理だわねって、言ってたよ?」
「そっか」
「検査もきっと、もうすぐ終わるよ。わたし、一番初めのラクエルが生まれた時の話、習ったよ。やっぱりいろいろ調べるのに窮屈な思いをしたんだって」
「……そっか」
フェルドは頬をゆるめて微笑った。それだけで、なんだかすごく、嬉しくなった。フェルドはフェルドだ。前代未聞だろうと、二度目の孵化だろうと、それがなんだ。自分にはこんなにちゃんとした相棒がいるのに、ダスティンに乗り換えるなんて、そんなことできるわけがない。さっきは気弱になったけど、でもやっぱり、間違いじゃないんだ。そう思うと、久しぶりに胸のつかえが取れたようだった。




