出張前(5)
ヴィレスタと一緒に部屋を出る。無意識のうちにいつもの階段に向かって歩き出すと、ヴィレスタが言った。
『あの、差し出がましいとは思いますが』
しかつめらしい言い方だった。
『お買い物に行かれるなら、こちらの階段の方が近いですよ』
「え、そう?」
『はい、ここを降りていきますと、東の通用口がすぐなんです。通用口を出て左に行くと、動道まですぐです』
「へえー」
マリアラの部屋からすぐの階段を降りていくと、確かに、正面玄関まで少し歩かなければならない。医局に行ったり工房に行ったりするにはそちらの方が便利なのだが、外に出るなら通用口でもいいわけだ。マリアラは感心した。
「ありがとう。じゃあこっちから行ってみる」
『はい、お気を付けて』
ヴィレスタは手を振って見送ってくれた。彼女自身はあちらの階段を通って医局に向かうつもりなのだろう。マリアラも手を振って、歩きだした。頭の中に買い物メモを思い浮かべる。飴と、水飴と、キャラメルのほか、何を買うのが良いだろう。大陸鉄道に乗る時間は四時間ほどだと聞いている。暇つぶしのための、カードゲームがあると良いだろうか。ヴィレスタは、楽しんでくれるだろうか。
階段を降り始めると、どこか遠くが少し騒がしいのに気づいた。どこだろう? 上の方で、なにやら叫びかわす声がしている。何だろう、と思いながら階段を降りる内、足音が響いた。マリアラを追いかけるように、上から速足で降りてきた人が、
「マリアラ」
低い声で名を呼んだ。見上げて、マリアラは、ゾッとした。ダスティンだ。
にっこりと微笑んで、マリアラを見下ろしている。
「……こんにちは」
あげた声は我ながら固い。ダスティンはにこにこしながら降りてきて、マリアラから数歩離れたところで止まった。後ずさりたくなるのを、なんとかこらえる。
「今日は製薬、ないんだ?」
「……」
黙って頷いた。なんと返事をしていいか、わからなかった。
ダスティンの方は制服を着ていた。誰か通りかからないだろうか。そわそわ体が動きそうになるのを辛うじて堪えていた。
〈アスタ〉はちゃんと断りの返事をしてくれたはずだ。これ以上、何の用だろう。
「俺は今から雪山行脚だよ。今日は天候がいいからね、今のうちに早いとこ回らないと」
「……そうですか」
じゃあ早く行けばいいのに。
ダスティンは一歩近づいた。今彼は階段の二段上にいる。マリアラは、反射的に一段降りそうになって、辛うじて踏みとどまった。でもダスティンはもう一段降りた。手を伸ばせばすぐに触れる場所だ。今度は、少し右にずれずにはいられなかった。後ずさるような格好になってしまったが、どうしようもない。
「【毒の世界】にも観測所を作ろうって計画があるの、知ってるかい? あの世界についてはいまだにほとんど分かってないからね、研究者を常駐させて、いろいろデータを取ろうって計画があるんだ。早く始まらないかな。そうすりゃ俺も、せめてもう少し、ラクエルらしい仕事に就けるからね。荷運びには変わりないけど」
また一歩、近づいた。マリアラと同じ段に降りて、笑顔はそのままで、距離を詰めてくる。マリアラはもう一度下がって、壁際に追い詰められたらどうすればいいんだろうと考えた。あと三歩くらいしかない。
「――せっかく左巻きが空いてるのに」
「……」
また一歩。
「今日は休み? こないだも今日も、私服なんだね、マリアラ」
また一歩。
思ったより早く壁に背がついて、マリアラはぞっとした。ダスティンは微笑んだ。あくまで子どもをあやすような、優しい笑顔だった。手をマリアラの顔の横について、のぞき込んでくる。近づいてくる。吐息が額に触れた。
「……俺は諦めてないよ」
「……」
「おおい、そこのふたり!」
出し抜けに頭上から声が降ってきて、マリアラは心底ほっとした。ダスティンは平然とそちらを振り返った。白衣姿の男の人が、上の階段から身を乗り出していた。気づけば先程騒がしかった音も、いつの間にか近づいてきている。
「なんですか?」
「フェルディナントを知らないか」
白衣の人はそう言い、マリアラはドキリとし、ダスティンは訊ねた。
「いや……知りませんけど? まーたなんかやらかしたんですか」
「知らないならいいんだ」白衣の人はせかせかと言った。「見つけたら医局に知らせてくれ。じゃ」
顔が引っ込んだ。マリアラは跳ね回る心臓を押さえながら、何はともあれ、ダスティンの腕が離れた隙にそそくさと階段を降りた。全速力で走りださなかったのは、ダスティンへの配慮などではなく、足が震えていて踏み外して転がり落ちそうだったからだ。先日のような吐き気と悪寒はまだ襲ってきていないが、時間の問題だと言うことはよくわかっている。
ダスティンの苦笑を含んだ声が追いかけてきた。
「じゃあまたね、マリアラ。今度、お茶でも一緒にどうかな」
冗談じゃない。
「ダメで、す」
ダスティンは声をあげて笑った。
「そう言わないで。今度誘うからさ。なあ、驚かせて悪かったよ。今日はどこか、買い物でも?」
あなたに関係ないです、と、もう少しで言うところだった。マリアラは頷くだけして、足早に踊り場に降りた。足が本当に震えている。
「早くシフトに入って、【毒の世界】に落ちた人を、少しでも救いたいと思わないのか?」
ダスティンの声が真摯な響きを帯び、マリアラは足を止めた。モーガン先生の顔がよぎった。見るとダスティンは、悲しげな顔をしている。
「君にも俺にも、その能力があるのにな」
「……ごめんなさい」
かすれた声しか出なかった。ダスティンは、手を振って、階段を上がって行った。その姿が消えるや否や、マリアラは座り込んだ。足も手も震えて震えて、立っていられなかった。顔を手で包んで、ため息をついた。
話が通じない、とまた思った。
この上なくきっぱりと拒絶したつもりだったのに、ダスティンには通じなかった。
でも、ダスティンの方でもそう思っているに違いない。こんなに事分けて頼んでいるのに、マリアラに通じないと思っているだろう。そう思うと申し訳ない気持ちも湧いてくる。でも、
――俺は諦めてないよ。
ひどい、と思った。ダスティンには、マリアラの意見など、どうでもいいということじゃないか。
お前の返事は、承諾しか認めないと、そういう意味にならないだろうか。
『マリアラー』
鞄の中でミフが、情けないような、慰めるような、微妙な声を出した。マリアラは微笑んで、よいしょ、と立ち上がった。
「行こっか」
『それがいいよ。買い物して美味しいもの食べてリフレッシュして全部忘れちゃえ!』
「うん」
ゆっくり歩きだした。それでも。
――ひとりでも救いたいと思わないのか。
ちゃんとした魔女になりたいと願っていた。
建設的な仕事をしたいと願っている。
シフトに入れば、その両方が満たされる。モーガン先生のように【穴】から落ちてしまう人に少しでも備えておくことは、先生への礼儀でもあるような気がする。
それなのに。
――こないだも今日も、私服なんだね、マリアラ。
違う、と思う。さっきまでは制服だった。今から買い物に行くのだって、遊びのためじゃない。
でもそう言ったって、ダスティンは決して理解してはくれないだろう。ダスティンが望んでいるとおりの応えを返さない限り、ダスティンが満足することはないだろう。
だから仕方がないのだ。マリアラがシフトに入って建設的な仕事をするためにジェイドと相棒になる、と、言ったとしたって、ダスティンは絶対に認めないのだろうから。
こないだのような悪寒が襲ってこないのは、きっと、“ダスティンの意見はおかしい”と、ダニエルが太鼓判を押してくれたからだ。マリアラは深呼吸をし、足元に気を付けながら、ゆっくりと階段を降りていった。




