出張前(3)
「今度が初なんだけど、もうヴィヴィもいるし、そろそろ出張医療も始めていいんじゃないかって……出張医療って、い、忙しいのね、でもね、でも、出張は四日の予定なの。で、最後の一日はね、自由にしていいんですって、だから、だから、だからっ」
マリアラは、哀しみの残滓が吹っ飛ぶのを感じた。
「口実が出来たわけですね!」
思わず叫ぶとミランダは悲鳴を上げた。
「こ、心の準備が……!」
「出張っていつなの? 近々?」
「明後日……でも行き先決まったの、ずいぶん前なのよ!? 私が行くって決まる前から、行き先は決まってたのよ!」ミランダは泣き出しそうな顔をした。「この手紙見たからってその場所にしたわけじゃないの! でも彼、そう思わないんじゃないかしら、て、手紙届いて即会いに行くなんてなんか、なんか、待ちかまえてたみたいでやらしくない!?」
「なんでやらしいの」
マリアラはつい笑い出し、ミランダは恨めしげな顔をした。
「他人事だと思って……! 絶対呆れられるもん、行き先知らせたらすぐ来るなんて、なんか、なんか……」
「じゃあ知らせずにこっそり出張行って帰ってきたら?」
ミランダは頭を抱えた。「そ、そんなあ!」
「あー、でもー、近くだからうっかり鉢合わせしてばれちゃったりしたらー、もっと居たたまれないよねー♪」
「ほ、本当に他人事だと思ってない!?」
マリアラはにっこりして、ミランダの腕を叩いた。
「大丈夫だよ。ちゃんと手紙くれたんでしょう。それも配属決まってすぐ、くれたんでしょう? わたしね思うんだけど、会いに来られたら困る相手には、研修の間に手紙を書くんじゃないかと思うの。そうしたら、文通とか、会ってみるとか、そういう話が出たときに、断る口実ができるもの」
沖島に行ってから、早いもので数カ月の時間が流れている。それほどの月日が流れたにも関わらず、落ち着いたら手紙を出す、と言う約束を守ったのだ。彼は律儀な人だとマリアラは予感した。アナカルシスの各地に行く研修を受けていた時は、ミランダの書く返信を受け取れない恐れがあったのではないだろうか。万一にも行き違いが起こらないよう、決まった住所に部屋を持てるようになる日まで、待っていたのではないだろうか。
「そ……そう、かしら。でも……あああ……どうしよう……届いた直後に会いに行くなんてなんか……なんか……なんか……最低……」
「手紙の返事、書くんだよね。その中に、出張の行き先がずっと前から決まってたってさりげなく書いておけば?」
「返事……そうか……返事も……あああ……」
マリアラは隣に座り込んで、ミランダが落ち着くのを黙ってじっと待っていた。相手は一体誰なのだろう、とその間に考えていた。あの晩、やはり、ミランダは夜中に出かけたのだろう。イェイラとザールもそれを疑って話を聞きに来たようだった。ミランダは夜中に出かけ、沖島の近くで彼に会った。ということは、エスメラルダに住んでいた人のはずだ。それが、その後すぐにアナカルシスに行くことになったらしい。アナカルシスで全土を転々とする研修を受けた後、配属が決まったことをミランダに書いて寄越した、ということは、アナカルシスで職を得たということだ。でも、就職する当てもなくアナカルシスに大急ぎで出かけなければならなかったなんて、一体どういう人なのだろう。
でもとにかく、男の人だ。もはやそうに決まっている。そうでなかったら暴れてやる。恋煩い、とそこまで考えたとき、ミランダが顔を上げた。
「一緒に来て、マリアラ」
「……へ?」
見るとミランダは壮絶な顔をしてこちらを見ていた。
「ひ、ひとりで会うなんて絶対無理。絶対駄目。イェイラも左巻きでシフトに入ってない魔女なら同行してもいいって言ってた。お願い、一生のお願い。マリアラは左巻きだもん、出張医療に来て悪いことないもん、私と一緒に出張して!?」
「え……と?」
「……忙しい……?」
泣き出しそうな、すがりつくような目で見られて、マリアラは思わず首を振った。
「え、ううん、忙しくは、ない、んだ、けど、でも」
「じゃあお願い、お願いします! このとおり! 手紙来ただけでこの体たらくなの、マリアラ、私が彼に会って冷静な受け答えなんか出来ると思う!?」
ミランダは正座をして両手を合わせた。鬼気迫る目で見られて、マリアラは、
―― 一緒に行ってどうなるんだろう、
――むしろお邪魔じゃないんだろうか、
――そう簡単に出張医療の担当になどなれるものだろうか、
――わたしが一緒にいるだけで冷静に受け答えが出来るようになるのだろうか、
と様々なことを考え、けれど、既に拒否できるものではないということを悟っていた。こういう目をした人の前では無駄な努力というものだ。それに拒否したいかといえばそうでもない。
マリアラは頷いた。
「……そりゃ行ってもいいんだけど、でも、出張医療の担当ってそう簡単になれるの? 明後日出発なのに、」
「大丈夫! 何とかする! ああ――ああ、ありがとうマリアラ! 大好き!」
「でも、わたしレイエルじゃないから歓迎されないかも――」
「左巻きなのに!?」
本気で驚かれて、マリアラも驚いた。
「左巻きってだけでもいいの?」
「いいに決まってるわ! 医局にも単発でいいから入ってくれないかっていわれてるんでしょ? 容態を探ってそれにあった薬を作れるってだけでも本当に助かる――私がじゃないのよ、マリアラ」
ミランダはさっきまでの取り乱しぶりが嘘のような真剣なまなざしでマリアラを見た。
「患者さんが助かるの。大勢助かるのよ。私、医療を研究してる人に言われたことがあるの。魔女はずるいって。知識や経験ではなく本能で人を癒せる、左巻きだというだけで、自分の生涯に渡る研究をも凌駕するほどの実績を上げられるって。だから――出来るだけ大勢の人を、その腕で、救ってあげて欲しいって」
「……そっか」
「相棒ができないことを、ずっと気に病んできたけど。ちゃんと働けないことを、心苦しく思ってきたけど。でも、」
ミランダはにっこりと笑った。
「本当はそんなこと、言ってる場合じゃないのよ。治療ができるんだから」
「……うん」
そうだったのか、とマリアラは思った。
相棒がいなくても。相棒が前代未聞でも。
それがどうした、という話だ。自分に出来ることを出来る限りやるという以外に、選択肢などあるだろうか。
「そ、そういうわけですので、」
ミランダはよろよろと立ち上がり、深呼吸をした。続いて立ったマリアラに、すがりついた。
今の冷静さはどこへ行った、と思わず言いたくなるほど、またさっきのミランダに戻っていた。
「お願いだから、一緒に来てね。後でやめるとか言わないでね」
「言わないよ。でも、〈アスタ〉の許可が出れば、だけど」
「その点は大丈夫。ああ、ありがとう、マリアラ。詳しくは後で連絡するわ。でも今日は、こ、この気力が萎えないうちに、私、私、返事、書いてくる、わね」
「うん。頑張って」
ミランダは夜目にも明らかな蒼白な顔に戻って、ぎくしゃくと屋上から【魔女ビル】内に入っていった。その背を見送りながら、ミランダは偉い、と思った。自分だったらきっとプレッシャーに負けて、返事を先延ばしにして、今夜はこのまま寝てしまうだろう。明日の朝、更に増したプレッシャーに悲鳴を上げる羽目になることがわかりきっていながら。ミランダはきっと、嫌なことや大変なことは先に片づけてしまうタイプなのだ。偉い。羨ましい。
どんな返事を書くのかなあ、と想像しながら、マリアラもゆっくりと建物の中に戻った。ミランダの剣幕に毒気を抜かれたのだろうか、先程までの暗澹たる気分は、消えはしないものの、だいぶ薄れている。ありがとう、と言われたが、礼を言うべきはこちらかもしれない。




