空島と陥落(6)
事後処理も報告も済んで、解散するまでずっと、ダスティンはマリアラから離れなかった。すっかり自分が相棒になったかのような態度だった。いや、相棒じゃなくてきっと、保護者だ。
その間マリアラはずっと、吐き気と悪寒に耐えなければならなかった。ダスティンの傍にいるだけで気分が悪くなると言うのでは、まともに仕事をするなんて絶対に無理だ。それはマリアラに取ってはとてもシンプルで簡単な事実なのに、それをダスティンに分かってもらうのは、到底無理だという気がする。
ガストンとギュンターがねぎらいの言葉と解散を告げるとすぐに、ダスティンはマリアラに言った。
「送ってくよ」
――冗談じゃない。
マリアラは首を振った。きっぱりと拒絶したつもりだった。
「ひとりでいいの。帰る前に寄るところがあるから」
「どこ? ついでだし、一緒に行ってやるよ」
愕然とした。
どうしてこうも話が通じないんだろう。
「来なくていい、です。製薬所の机、散らかしたままにして来ちゃったから、片づけなきゃいけないし」
「手伝ってやるよ。遠慮しないでいいから」
泣きたくなった。
「――ひとりで平気」
「はいはいはい、ダスティン、そう焦らない焦らない。考える時間をあげなさい。ほら行くわよ」
ヒルデが言って、ランドがダスティンの首根っこを掴んで、ふたりがかりでずるずると引きずっていってくれて、マリアラは心底ホッとした。かすかだった吐き気は少しずつ存在感を増していて、これ以上ダスティンの話を聞いていたら、この場で吐いてしまいかねなかった。鳥肌までたっている。いや、蕁麻疹、かもしれない。腕をさすって、周りの人たちに頭を下げて、歩き出した。ミフに乗って飛んで逃げたかったけれど、どこかで休まなければ、墜落しかねなかった。
と、ダニエルが追いかけてきた。
「マリアラ、ちょっと付き合え」
ダニエルは有無を言わさずそう言って、マリアラの背を左手で軽く押した。と、吐き気と悪寒がすっと遠のき、マリアラは泣きたくなる。
勝手に治さないで。
すんでのところで、そう言うところだった。ダニエルにこんな反感を持つ日が来るなんて衝撃だった。ダニエルは構わずにマリアラを誘導して、近場の休憩所に連れて行った。人々がみんな避難したこの辺りはまだ誰もいなくて、休憩所は明るく、清潔で、静まり返っている。
「……ちょっと休んで帰ろう」
ダニエルの声は、とても優しい。今さら、と、また反感を覚えた。今さら――吐き気と悪寒を治されたのも、本当に今さらだ。休憩所に入りはしたものの、それ以上一歩も動けなかった。
優しい声が降ってくる。
「さっきは悪かった。お前が助けを求めていたのに、様子を見てて、悪かった」
――本当に!!!
込み上げてくるものを、なんとか、飲みくだすだけで精一杯だ。おいで、と言われたが、行くわけにはいかない。本当に、今さらだ。〈アスタ〉は酷い。フェルドにももちろん出動要請を出すと言ったのに、嘘をついた。ララも酷い。ララはマリアラがダスティンをひっぱたくのを止めた。叩いていたらさすがのダスティンにもマリアラの気持ちがわかったはずなのに。どうして止めたの。どうして助けてくれなかったの。どうして、どうして、どうして。子供じみた癇癪を素直に外に出すことができないのは、“わたしはまともじゃないのかもしれない”という恐怖がまだ胸に巣くっているからだ。
ダニエルは穏やかな声で言う。
「あいつの言い分はおかしいと、俺は思った」
嘘つき、と反射的に思った。そんなこと思ってもいないくせに。子供じみた癇癪が、胸の中で暴れ回っている。
ダニエルはその癇癪を宥めて諭してほぐすように、優しい声で言葉を重ねた。
「俺だけじゃない。ララも、ヒルデもランドも、ジーンもメイカもジェイドも、みんな同じ気持ちだったと思う。お前は怒っていい。大丈夫、お前にはちゃんと怒る権利があると、ダスティン以外は皆わかっているさ。本当に酷い言いぐさだった。あいつは、あの考えなしの独りよがりで軽薄な大バカ野郎は、お前とフェルドの半年を侮辱したんだから」
「――」
「だが俺たちが誰もあいつを諌めなかったのは」
「……」
「対外的には、お前はもう一人前だからだ。相棒の帰趨について、俺にもララにも口出しする権利はない」
こっちにおいで、と、ダニエルが言っているのがわかる。マリアラはまだ意固地な気持ちで、足を踏み替えた。地団駄のような音が出た。ダスティンのことを思い出すと、吐き気と悪寒がまた思い出される。勝手に治すなんて。ひどい。信じられない。一人前扱いして欲しいなんて頼んでないのに――駄々っ子のような憤りが、まだ頑なに、胸の中に居座っている。
「なあ、話をしよう。――お前は今、また、三人の相棒を選んでいい立場になった」
「そんなの」
「これは口出しじゃなくてただの忠告だ。ダスティンはやめとけ。な?」
「当たり前じゃない……っ!!」
思わず叫んだ声は涙声で、まるで悲鳴のようだった。ダニエルは笑った、ようだった。視界が歪んで、何も見えない。
「半年前、相棒決める研修やってた時な。俺はジェイドがいいんじゃないかな、と、思ってたんだ実は」
「……そ、」
「今また、ちょっとそう思ってる。あいつはいい奴だ。少なくとも、人がなんらかの理由で魔力を集めてる水晶玉を、奪い取る前に一声かけるくらいの気配りはできる。ちょっと気が弱いかなぁという気はするけど、ものの道理は分かっているし、ダスティンよりずっとオススメだ」
声がだんだん近づいてきて、顔を覆った両手に、柔らかなタオルの感触が触れた。マリアラはそれを握り込み、顔を押し当てた。ひっく、肩が震えた。大きな手がマリアラの肩を、よしよし、と言うように叩く。
今さら子供扱いするなんてひどい。
さっき助けてくれなかった、くせに。
泣きじゃくるうちに誘導されていた。靴を脱いで、少し歩いて、ソファに座らされた。何という手管だろう。空恐ろしささえ感じる。
と、いたずらっぽい声が言った。
「もう一人のオススメを聞きたいか?」
「うう……っ」
「もう一人はなあ、まー行動力だけはある奴だ。自由が大好きで、外でいろんなものを見るのが好きすぎて、休みのたびにどっか飛んでくから、相棒になったら苦労するんじゃないかと思って心配だった。……でも最近、その評価が変わりましたね。えーもうほんと、ガラリとね」
おどけた口調でそう言って、温かな手のひらで、ぽんぽんとマリアラの頭を撫でる。
「あいつがあんなに検査を我慢するとは思わなかった。見直した」
ぽんぽんと、また頭を撫でる。
「休みもないのに毎日毎日、まるで仕事みたいに医局に行く。ララも【魔女ビル】の寮母さんもラスもミランダもイーレンも、あいつを知る人間みんなが驚いてる。それはさ――そうすることが一番の近道だって、わかってるからなんだろうなあ、と、思う」
マリアラは声を出すことができなかった。声を出したら泣き声が出る。それも大きな、赤ちゃんみたいな声が出る。
「だから心配するな。この件においては、お前がどうしたいのか、と言うことを、一番に優先していいんだ。誰がどう言おうと意見を変える必要はないし、お前が一度決めたなら、その判断を俺は尊重するし、変な横やりが入らないようにできる限りのことをする。そもそも――たかが二度目の孵化が起こったくらいで、ごちゃごちゃ騒ぐ方がおかしいんだよ。なあ?」
ダニエルはもうそれ以上何も言わず、マリアラの嗚咽がおさまるまで、黙って頭を撫でてくれていた。
もはや癇癪もすっかり力を失っていた。反感も子供じみた拗ねた気持ちも。フェルドが二度目の孵化を迎えてからずっと、マリアラの心に食い込んでいた、気後れと心配と不安とが、嗚咽と共にじわじわ溶けていく。溶けて、洗われて、流れて、消えていく。
ダスティンを引っぱたくのを止めたララの行為にも、今は、少し感謝したいような気持ちになっていた。
ダスティンを公衆の面前で平手打ちなどしていたら、きっと話はこじれたに違いない。ダスティンは結構ややこしい性格のようだから、きっと根に持っただろうし、敵意を持たれることになったはずだ(それもフェルドに対してだ!)。ダスティンはラクエルで、仕事仲間である。決定的な決裂を迎えるのは得策ではないと、ララは代わりに判断してくれたに違いない。
わたしはいつになったら大人になれるのだろう、と、マリアラは思う。
ひとりで立てるようにならなければと言う気持ちと、子供扱いして欲しいという気持ちと。それはどちらもマリアラの心の中に、同じくらいの居場所を占めていた。その二つの心はせめぎ合って、反発し合ってもつれ合って、未熟なマリアラはただ翻弄されて、泣いたり怒ったり暴れたくなったりして、コントロールなどできそうもない。
“ちゃんとした魔女”になれるその日までの道のりは、まだまだ険しくて遠そうだ。
でも、いつかきっと。
じんじんする気持ちを持てあましながら、マリアラは、頭のどこかで考えた。
――いつかそのうち、きっと。




