空島と陥落(5)
呆然と見上げると、ダスティンは、驚くほど真面目な顔をしていた。そう、彼は本気だった。マリアラの【親】であるダニエルとララを見て、頭を下げたのだ。それからマリアラに視線を戻して、マリアラの左手を掴んだ。
「フェルドは二度目の孵化を迎えた。――でも君は迎えそうもないと〈アスタ〉が判断した」
ここ最近、誰もが避けていたその話題を、ダスティンはためらいもなくマリアラの心臓に突き刺した。
「そして俺も迎えそうもないよ。だから、頼むよ、マリアラ。君の相棒には、俺の方がふさわしいんじゃないか。フェルドは少なくともここしばらくはシフトになんか戻れない。俺ならすぐ入れる。人手不足なんだ。それにまたこんな事態が起こらないとも限らない。そうだろ? 俺がそばにいれば、いつでも守ってあげられるよ」
マリアラは、呆気に取られていたが、最後の一言で我に返った。
――守ってあげられるよ。
そうだ。さっき、この人は、水晶玉を奪って、可哀想な触手をなぶり殺しにして、わたしを助けてくれたと思っているのだ。
意固地になっているということを、自覚していたけれど。
マリアラは丁寧な動きを心がけながらも、有無を言わせぬ強さで左手を取り戻した。
「……フェルドは戻ってくるもの」
呻くと、ダスティンは頷いた。
「相棒を解消するってことは確かに、あまり頻繁に行われるわけじゃないけど。でもないわけじゃないんだ。相棒同士の間に、何か決定的な齟齬が生じて、片方あるいは双方の希望によって解消されたことは過去にも何度かある。二度目の孵化っていうのは、充分な理由になると思う。〈アスタ〉は確かに、まだ君とフェルドを組ませる気らしい、けど」
「それならわたしに拒む理由なんてない」
「マリアラ」
ダスティンは、聞き分けのない子どもをあやすように、マリアラの両肩に手を置いた。
「俺の方が孵化が早かった。左巻きのラクエルが生まれるのを、俺だってずっと待ってたんだ。あいつのやり方はフェアじゃないよ。あいつだって生まれてくる仮魔女の魔力があんまり強くないって分かっていたはずだ――だったら前代未聞の自分は初めから選ばれるべきじゃないんだって、わかっていたはずなんだ。今日の事態を招いたのはあいつだ。シフトに入れるペアをひと組でも増やさなきゃいけない時に、卑怯な手段で君を手に入れたりするからこんなことに――」
「――」
頭の中が、真っ白になった。
「マリアラ」
踏み込む寸前で、ララが、マリアラの右手を掴んだ。
それで、我に返った。
マリアラはもう少しで、ダスティンの横っ面を張り飛ばすところだった。
「――!」
「ダスティン、聞き捨てならないわね」
ララはマリアラの右手をしっかりと右手で掴んで、左手で、マリアラの肩を抱いた。
「あんたがフェルドを気に入らないのは分かってるわ。でも卑怯な手段を取ったなんて言いがかりは聞き捨てならない。具体的に、あの子が何をしたっていうの?」
「あなたの前で【息子】の悪口を言ったのは悪かった。謝りますよ」
ダスティンは頭を下げる。
「でも俺の意見は変わらないよ。あいつはそもそも、初めから、ゲームに参加すべきじゃなかったんだ。その結果どうなった? 今日みたいな非常事態に、左巻きを一番守らなきゃいけない日に、ひとりで放ったらかしてるじゃないか」
「それはフェルドのせいじゃないわ。医局の許可が下りなくて、フェルドには出動要請も出せなかったと〈アスタ〉が言ってた。あの子はこの事態をまだ知らされてもいない」
「結果は同じだ。傍にいられない右巻きに、いったいなんの価値があるっていうんだよ」
「話を逸らさないでくれる? さっきの返事をまだ聞いてないわ。卑怯な手段を使ったってさっき言ったわよね。具体的に何をしたか、言ってご覧なさいよ」
「それは――」
「あらそう。具体的な例は挙げられないと言うわけね」
「そういうわけじゃないよ。こんなところで、本人がいないところで、あんまり吹聴すべきじゃないかと、」
「本人がいないところで相棒を横取りするのはアリってわけ?」
「いや――」
「初めに言っておくわ。マリアラ、フェルドに義理立てする必要はないのよ。確かにあの子がシフトに戻れるのはだいぶ先の話になるでしょう。あんたがもしも望むなら、それは仕方がないと思ってる」
ララはそう言って、ぽんぽん、とマリアラの肩を叩いた。
「あたしが気に入らないのは、具体的な例を挙げることもできないくせに、いかにもフェルドが相棒を不当な手段で得たのだ、と言う印象を、周りの人に植え付けようとするそのえげつない魂胆だわ」
「……ゲームの時、フェルドは別に、卑怯なことなんかしなかったよ」
ジェイドがいつもどおりの気弱な言い方で助け船を出してくれた。ダスティンは旗色の悪さを悟ったらしく、頷いた。
「わかったよ。じゃあそれは撤回する。でもさ――」
「まあまあ、今日のところはこれまでにしときましょ」
ぱんぱんと手を叩いて、事態を切り上げたのはヒルデだった。
「報告とか事後処理とかいろいろやらなきゃいけないこともあるし。マリアラだって急にそんなこと言われても困るでしょう」
「そっか」ダスティンは微笑んだ。「そうだよな。考えておいてもらえればいいから」
「考える――」
マリアラは、ダスティンを見上げる。ダスティンは、マリアラがさっき、自分を引っぱたくところだったと言うことにさえ、どうやら気づいていないようだ。笑顔だった。その笑顔に、マリアラは途方に暮れそうになる。考えろと言う。今すぐじゃなく、考えておいてくれと。
考える。――考える?
考えて、そして、結論を出す?
「……考える必要はない、です」
気づくとそう言っていた。ダスティンを見上げて、マリアラは、頭を下げた。
「ごめんなさい。でも、わたしは、たかが二度目の孵化を迎えたと言うことくらいで、相棒関係を解消するなんてできない」
ダスティンは、たじろがなかった。微笑んで、マリアラの肩を叩いた。
「まあ、そんなに急がないでよ。今は興奮してるだろうし。ごめんな、こんな時に、こんな話しして」
「違――」
興奮しているせいじゃない、確かに【夜】への【穴】が開いたのはショッキングな出来事だったけど、
「ショックだったよな。目の前で【穴】が開いて、触手が吹き出すの見てさ。水晶玉投げるのも忘れちまったくらいだもんな」
――違う!
忘れたわけじゃない。立ちすくんでいたわけでもない。邪魔をしたのはあなたじゃないか!
言いたいが、言えなかった。言ってもわかってもらえない気がした。子どもだと、マリアラは思い知った。ダスティンが相手にしているのは、聞き分けのない、判断力もない、さっきの出来事には立ちすくんで何もできなかった、子どもに過ぎないマリアラなのだ。
吐き気がする。さっきの気分の悪さは既に悪寒を伴う強さにまで成長している。
わたしはおかしいのだろうか、さっきそう思ったことが、マリアラの四肢を縛り付ける。
――フェルドはただ、二度目の孵化を迎えただけだ。
その程度で――と思う自分の感性もおかしいのだろうか。建設的な仕事をしていたら後ろめたい思いをしないですむと思っていたが、その考えさえ、おかしかったのだろうか。“まともな感性”の持ち主なら、ここでダスティンの差し出す手を取って、シフトに入るのだろうか。
それならば、と、絶望と共に考えた。
――わたしは一生、“まとも”になんかなりたくない。




