空島と陥落(4)
マリアラは振り返った。今いる建物の北側、真下の広々とした煉瓦の道の真ん中に、今まさに【穴】が開くところだった。マヌエルならば必ず分かるとガストンが言ったとおり、まだ見ないうちからその映像が見えた。手首の腕輪を作動させながら、建物の北側に駆け寄った。
今『見た』ばかりの映像がそこに見えた。
煉瓦の中心に黒い黒い小さな穴が穿たれて、その周囲が崩れてさらさらとその中にこぼれ落ちて行くように見えた。【穴】は黒い。どこまでもどこまでも黒かった。ほんの小さな、子どもの握りこぶしくらいのものだが、あまりの禍々しさにおののかずにはいられない。
そして、そこから触手が吹き出した。鉤爪が次々にわき出して穴を抉じ開けようとする。ぎりぎりと煉瓦がえぐれる音。マリアラは本能的に左手を掲げていた。持っていた水晶玉がまばゆい光を放った。どうすればいいか、なぜだかはっきりわかっていた。閉じられる、と考えた。それはまるで衣類の綻びを縫うのと同じように、自然なことのようだった。水晶玉に、意識を集中する。どこから魔力を集めればいいかも、どのように魔力を織ればいいかも、はっきりわかっている。
――解決できる。簡単だ。
マリアラは水晶玉を握りしめ、目を閉じた。――が。
「何やってるんだ!」
鋭い怒鳴り声と共に、全ての魔力を織り上げるより所が、消滅した。
愕然として、目を開いた。両手をもぎ取られたような衝撃だった。すぐそばにいつの間にか若者が立っていて、彼がマリアラの水晶玉を奪い取ったのだ。
「……ダスティン!」
邪魔されたことに強い憤りを感じるが、ダスティンは全く気づかずに奪い取った水晶玉を【穴】に向かって投げつけた。彼の持っていたものは既に投げられた後だったらしい。光り輝く水晶玉が触手の根元に叩きつけられると、あちら側からひどく苦しげな悲鳴が届いた。違う、とマリアラは思った。違う――違う、なんだかすごく、間違ったことをしている。
けれど、その時には、他のラクエルたちが続々と集まって来ていた。次々に光り輝く水晶玉が投げ付けられ、ダスティンやララや右巻きのラクエルたちが、生み出した光の塊を叩き付けた。触手や鉤爪はたまらずに押し戻された。左巻きたちが【穴】を閉じるために魔力を織り、【穴】が少しずつ収縮していく。ずるずると魔物の体の一部が地面を這う。右巻きの放つ光は猛り立って黒いものたちを追い立てていた。まるで、小さく哀れな鼠に牙を立て、爪を叩きつけて嬲り殺す、大きな金色の猫みたいに。
と、苦しそうにのたうつ触手の一本がマリアラの方に伸びた。黒い黒い触手は固いうろこのようなものにびっしりと覆われて、日の光にきらきら光った。綺麗だ、とマリアラは思った。わたしは、この触手を、どうするべきなのだろう。
うろこが開いた。ささくれだった内側が見えた。マリアラには、その触手が、差し伸べられた手のひらに見えた。助けて、と差し出される、苦しそうな、すがるような動きに見えたのだ。
「マリアラ!」
ララが叫んだ。マリアラに届く寸前で、その触手が弾け飛んだ。【穴】は既に閉じる寸前だった。ダスティンが放った光の玉が触手の根元を断ち切った。触手は宙を飛んで、地面に叩きつけられた。光の奔流が次々に触手に降り注いだ。マリアラは成すすべもなくそれを見ていた。できることなら駆け寄ってあの触手を体で庇いたいと、考えていた。その衝動を止めるだけで精一杯だった。
やがて光が止まり、
静寂が落ちた。
触手はからからに干からびて、灰色の屍をさらしていた。見ただけで、もう動かないことが分かる。触ったらたぶん、ぼろりと崩れるだろう。もはやそれは、触手の形をした、ただの灰の塊に過ぎなかった。
マリアラはまだ、それをじっと見ていた。
助けを求めて自分にすがりつこうとしていた幼子が、横から蹴られ、地面に叩きつけられ、踏み付けにされて殺されるところを、まざまざと見せられたような、気がした。
「ありがと、ダスティン。よくやったわ」
ララがダスティンを褒めて、マリアラは我に返った。
――ありがとう。
か細い声を思い出す。フェルドと一緒に、【毒の世界】に帰した魔物。
――また帰ってこられるとは思ってなかった。
身体が震えていた。魔物が、ただ忌むべき怖ろしい存在ではないとうことを、マリアラは既に知っていた。雪山で、マリアラを助けてくれたあの巨大な魔物。リンを攫った狩人が麓に逃げるのを阻止して、最後には【壁】に引っかかった鉤爪を外して、【壁】に触って消えた。
狩人が南大島に放った魔物は悶え苦しみ、泣き叫び、ただ殺してくれと叫んでいた。あの夢が、ただの夢だったとは思えない。
ありがとうと囁いた、【毒の世界】に送った魔物。あの子がよく言われるような恐ろしく邪悪な魔物だったなら、狩人から逃げた時点で、南大島は壊滅的な被害を受けていたはずだ。
さっきの触手も、助けを求めていた。
そう感じるのは、マリアラがおかしいからなのだろうか。
見上げるとダスティンは、マリアラを見て微笑んだ。まさにマリアラが今にも言うはずの礼を、待ち受けるかのように。
マリアラは呻いた。
「……ダスティン」
「いや、礼なんかいいよ」ダスティンは相好を崩して言った。「右巻きだからさ。左巻きを守るのは、当然だよ」
マリアラの持っていた水晶玉をもぎ取るように奪って投げた。あんなことしないでも、かわいそうな触手をあんなふうに殺さなくても、あちらにちゃんと帰してあげられたのに。
礼を言うなんて絶対に無理だった。でもなじることもできるわけがなかった。マリアラは両手を確かめた。さっきもぎ取られたように感じたが、手は変わらずにちゃんとある。じんじんうずくような気もするが、多分錯覚だろう。
「……やった、な」
ランドが言った。ララが、ダスティンが、他の人達がみんなうなずく。彼らの中に少しずつ実感が広がって、それと同時に笑みもこぼれ始めた。やった、とララがもう一度言い、やった、とダニエルが頷く。そうだ、やったんだ、とマリアラは思った。魔物の侵入を一体も許さず、【夜】に向けて開いた【穴】もちゃんと閉じた。ひとりの犠牲も出さず、少しの被害も出さず――あの可哀想な魔物を除いては!
「歪み予報ってのは大したもんだな。開いた直後に見つけることができれば、被害を出さずに済むんだ。すげえ」
「そのうち、小さな【穴】の予報も実用化できるようになるのかしら」
「だろうなあ。どうするよ。俺ら、失業だぜ」
ランドのおどけた言い方に笑い声が湧き、近くのビルの陰から、ちらほらと人影が覗き始めた。マリアラはその中に、イェイラの整った顔があるのを見た。人魚というのはきっとこういう顔立ちをしているに違いないと思わせる、まろやかで完璧な、まるで静謐な水のような美貌だった。
マリアラは口元を押さえた。どうしよう、と思った。
どうしよう、――吐き気がする。
――わたしは、頭が、おかしいの?
あれは魔物だ。わかっている。――わかっていた! あの生き物をこちらに入れてはこの世の終わりだったのだと、だから危機を取り除いた今は、みんなと一緒に喜ぶべきなのだと、ちゃんと分かっていた。分かっていた、つもりだった。
それなのに。
どうしても、どうしても、手放しで喜べない。歴然とそこにある重大な問題に、ただ蓋をしただけ。問題は残っている、だから喜んでる場合じゃない――そんな警句めいた考えがぽつぽつ浮かんで、めまいがする。
と、ダスティンが言った。
「マリアラ。……俺の相棒になってくれないかな」
自分の耳が、信じられなかった。




