第四章 仮魔女と狩人(4)
リンはグールドの足下の、わずかに平らな部分に座り込んだ。
焼け焦げた空間が終わりに近づいている。この先の消失を免れた森を抜けたら、もう、雪山が終わってしまう――そう、リンが思ったときだった。
頭上を、何か巨大なものが行きすぎた。
グールドがまた乗り物の向きを大きく変えた。地響きに体が揺れた。前方に何か巨大なものが落ち、きしゃああああああっ、と金切り声を上げた。ちっ、グールドの舌打ちがまた聞こえた。「生き損ないのくせに」毒づいたのは、何に対して、なのだろう。
グールドの足の隙間からかろうじて見えた、それは。
「――魔物……!?」
「どういうことなんだろうね、あれって」グールドが呟く。「どうやって手なずけたのか、あんたの友達に聞いてみてよ」
「手なずけ」
「あーあーあー、命撒き散らしちゃってまー」
ぐうん、と乗り物のスピードが上がった。が、魔物の動きはそれより遙かに素早かった。きしゃあっ、耳をふさぎたくなるような雄叫びとともに、グールドはまた乗り物の向きを変えた。ふたりの頭上を魔物の腕が薙いでいった。ぱたぱたと真っ黒な体液が降りかかる。
乗り物が右に揺れ左に揺れ、リンは必死で乗り物の首にしがみついた。この乗り物と手錠でつながれている今、振り落とされたら地面にたたきつけられながら引きずられることになるだろう。
グールドは何度か下降を試みたが、魔物がその都度それを阻んだ。何度もその魔物に迫る内に、リンは、魔物の体に取り付けられた足台のようなものの根本から、体液が飛び散るのを見た。命を撒き散らして、とグールドが呆れたとおり、魔物の口元からも時折真っ黒な液体が吐き出されている。
苦しげに。
あれは魔物にとっては血に当たる液体ではないのだろうか。
魔物の動きは既に断末魔のよろめきに見える。
それなのに。
――どうして?
リンはそろそろ魔物の意図を悟りながら、同時に心の底から訝しんでいた。
――どうして、魔物が?
魔物に知能があるのか、と訊ねたマリアラの声。魔物はこれからどうなるのか、と聞いた。かすかにしゃくり上げていた、哀しそうなマリアラの嗚咽。どうやって手なずけたのか、と言ったグールドの声。それら総てがかちかちと組み上がって、リンは呻いた。
「どうして……?」
「こっちが聞きたいよ」
グールドは忌々しげに言った。山の上の方を見て、舌打ちをひとつ。箒に乗った人影が飛び出してきたのが見える。きしゃあああああああっ、魔物が叫んで、振るった前足が地面をえぐって、どっ、と体液があふれ出た。びしゃびしゃと地面に落ち、魔物はよろめいた。
でも倒れなかった。様々な色が大理石の模様のように複雑に絡み合う魔物の瞳を見て、リンは胸を衝かれた。
魔物の瞳がこんなに綺麗だったなんて今まで想像したこともなかった。
「……くそっ」
グールドが呻いて、乗り物が反転した。
麓に向かうのを諦めた、と、リンは悟った。魔物の脇をすり抜けることがどうしてもできず、魔物が倒れるのを待っていてはフェルドとダスティンに追いつかれてしまう。グールドは思い切りよく山を登り始めた。ガストンを乗せたダスティンが西側、フェルドが東側に、展開したのが見える。
「あーあーあーもー。やっばいなーこれ」
グールドが毒づく。やばいのか、とリンは思った。
魔物が足止めしてくれたから、グールドは麓に逃げられなくなった。リンの首にナイフを突きつけて【国境】を押し通るという案が使えなくなったのだ。ありがたいとリンは思った。『命を撒き散らして』までグールドの邪魔をしてくれたあの魔物に。
――あの魔物はきっとあの時、マリアラを食べようとしていたんじゃないんだ。
今さら、リンは悟っていた。
――グールドからマリアラを、守っていたんだ……
「あたし用済みじゃない!? 今のうちに投降した方が罪が軽くなるんじゃない!?」
言ってみるとグールドは明るい声で笑った。
「魔女を信奉するエスメラルダに狩人が捕まってみなよ、今まで一度も魔女を狩ったことのない新人だって、例外なく死刑だよ」
「そ、そーな、の!?」
「僕なんて役付きだし大勢殺してるしねえ、投降したって車裂きにでもされるのがオチ」
「車裂き――?」
「あ、知らない? 体のあちこちに縛り付けたロープをそれぞれ車に結びつけてさ、」
「知りたくないよ!」
再び森に突っ込んだ。グールドがぶつぶつ言った。
「んー、どうしよっかな。燃料がなー」
「ねねねんりょうが!? ねんりょうって何!?」
「ガソリンだよガソリン。んーあとどんくらい保つかなあ」
意味がわからない。でも、どうやらこの乗り物に関する問題らしい、ということくらいは想像できる。エスメラルダ人であるリンにとって、個別に動く、しかも箒じゃない乗り物なんて、その仕組みを想像することさえ難しいけれど――
「この乗り物、魔法道具じゃないんだ……!」
「僕魔力の素養がないもん、魔法道具に乗れるわけないでしょ」
「もうすぐっ」リンは思いっきり叫んだ。「もうすぐこの乗り物のねんりょうが切れるんだって――!」
「あー、そういうこと言っちゃうんだ」
含み笑いとともにグールドが言った。
それと同時に、鋭く重く熱い衝撃が、リンの背を貫いた。