空島と陥落(3)
――前回とは違う。
〈アスタ〉の声が頭の中でわんわん響く。前回とは違う。何が違う? もちろん、緊急度が違うのだ。前回は五十%を超えたという“注意報”が出された。でも今回のは既に八十%を超えている、“警報”だ。取るものも取りあえず駆けつけるべき、数値なのだ。
――本当にそう?
不安の囁きが、胸を締め付ける。
前回と違うのは、緊急度だけ?
エノス地区が近づいてきた。笛の鳴り渡る音が聞こえている。前回と違う状況はここにも顕著に表れていた。前回はお祭りで、学校も大半の企業もお休みで、大勢の人たちがお祭り会場に出かけていたから、あの程度の混乱で済んだのだ。
今は格段に違う。今日は平日で、しかも昼飯時だ。
雑踏と、怒鳴り声と、悲鳴と。必死に叫ぶ保護局員の声。不吉なサイレンの音。無機質な女性の冷たいアナウンス。
『避難命令が出されました。エノス地区から直ちに待避してください。保護局員の指示に従い、直ちに待避してください。夜の【毒の世界】への空間陥落が懸念されます。直ちに待避してください。確率、更に上昇中。現在八十五パーセント』
上がってる。
ぞわぞわと背中を這い上がるのは、緊張だろうか。恐怖だろうか。逃げ出す人々の頭の上を飛び越えていくと、人々の視線が自分に注がれるのを痛いほどに感じた。マリアラは呼吸を整え、心臓の鼓動も整えられればいいのにと考えながら、目を走らせた。
『更に上昇中。現在八十六パーセント』
脅すような放送の声が神経を逆なでする。落ち着け、と胸に手を当てた。
「あっちだ!」
誰かが足下で叫んだ。目をやると、伸び上がるようにして、保護局員の制服姿の男の人がマリアラを見ていた。右手が北を指している。拡声器が、ハウリングと共に叫んだ。
「あのビルの向こうだ!」
「ありがとう――」
「頑張ってくれ!」
激励の言葉に手を振った。彼の周囲を流れていく人たちも、仰向いてマリアラに口々に激励の言葉を寄越した。お陰で少し落ち着いた。
すぐに、目立つように高く掲げられた黄色い旗が翻るのが見えてくる。こないだと同じく、ふたりの男の人と、ひとりの女性がいるのが見える。
『八十八パーセント』
マリアラは思わず叫んだ。
「――リン!」
そうだ。前回と違うところはここにもあった。男性ふたりは前回と同じ、ギュンター警備隊長と、ジルグ=ガストンだった。しかしその助手は、リンだ。研修中の身であるはずのリン=アリエノールが、マリアラを見て大きく手を振っていた。
こんなところに。
マリアラはゾッとした。
【毒の世界】の【夜】が、すぐそこに迫っているのに。
前回と違い、パーセンテージは上がる一方だ。ラクエルたちが続々と到着しているはずなのに、一向に減る様子がない。空間が陥落したら、塞がなければならない。魔物が入り込む前に、何とか、食い止めなければならない。
ここは危ないのに。こんな場所にいないで、安全な場所にいればいいのに。リンはまだ保護局員ではない、研修中の身なのに。
なのに。
――それが、リンが選んだ道なんだ。
――そういう道を、リンは進んでいくんだ。
マリアラはそう考え、リンと男性二人の前に降り立った。
「マリアラ=ラクエル・マヌエルです」
名乗ると、リンが目配せしてきた。マリアラの緊張を抜いてくれるような、茶目っ気たっぷりの目配せだった。
「先日に引き続き――ご協力に感謝します、マリアラ=ラクエル・マヌエル」
ギュンター警備隊長が丁重に言い、マリアラは踵を揃えてそれを受けた。リンがこないだのステラのように、つるつる素材でできた雨合羽様の上着をマリアラに差し出した。それを羽織る。
「前回と違うのは、速報が出た時には既に拡散させられる段階を過ぎていたと言うことだ」
ギュンターは穏やかな口調で言った。マリアラは固唾を飲んだ。ギュンターは落ち着き払っていて、この事態を大した脅威だと思っていないような態度だった。
「しかし、大丈夫。まだ時間はある」
『九十パーセント』
マリアラはそわそわした。が、ギュンターはその真摯な眼差しをマリアラから逸らさなかった。
「地図を見て。君にはB-9ポイントを頼みたい」
ガストンの言い方も穏やかだった。マリアラは吸い寄せられるように地図を見た。
『九十一パーセント』
「ここだ。この近辺に待機」
リンがマリアラの左手首に腕輪をはめた。次いで、ミフの柄にも似たものをはめる。
「それが君の居場所を知らせる。【穴】が開いたらマヌエルならば必ずわかる。開いても魔物を倒そうと思うな。【穴】をふさごうとも思わず、とにかくそのどちらかを作動させることと、自分の身を守ることだけを考えろ。他のラクエルが駆けつけるまで」
「わかりました」
「他のラクエルたちも既に持ち場に着いている。サポート体制は万全だ。すぐそばに、ほら、他のマヌエルたちも待機してる」
そう言ってガストンは、マリアラの背後を示した。
振り返ると、確かに。【魔女ビル】の方角から、続々と、箒に乗ったマヌエルたちがここに駆けつけてくるのが見えた。エノス地区をぐるりと囲むように待機してくれるのだろう。今日は吹雪じゃないけれど、何かあったときにすぐに対処できるようにしてくれているのだろう。
『九十二パーセント』
「頑張って、マリアラ!」
リンが水晶玉を手渡してくれながら言った。しっかりと微笑まれて、マリアラは笑みを返した。リンは強い、とまた思う。自分も頑張らなければ。
それでも。
「……フェルドは?」
聞かずにはいられなかった。リンは首を振る。マリアラは頷いて、水晶玉を胸に抱え、ミフに乗ってエノス地区B-9を目指した。
*
空間の歪みは緩やかにではあるが年々悪化し続けているそうだ。マヌエルがいくら歪みを追い払おうとしても、その進行をわずかに遅らせることしかできない。世界中どこでもそうだと話には聞いているが、エスメラルダは特に顕著だ。
けれど人間はたくましい。少なくともエスメラルダでは、歪みの研究も年々進んでいる。各地に設けられた観測所でのデータを元にして、【穴】が開く場所をある程度特定することが出来るようになったのだ。ただ歪みの状況は刻一刻と変わるので、日常生活ではあまり役に立たない。ごく軽い歪みならエスメラルダ中至る所で発生しているし、避難勧告を出せるほどに精度が高まるのは、十数分前が限度だからだ。
けれど、今のような時には、その技術の進歩が本当にありがたい。
現在の校長も、元々はその技術の開発に携わっていた人だという。ここ数代は、その分野の人ばかりが校長になっているとも聞いている。批判は当然ある――他の分野よりも、【穴】の研究に割り振られる費用がはるかに多いからだ――でもこういう事態になった今、それは当然なのだろう、とマリアラは思う。世界の崩壊を防ぐための研究なのだから。研究と技術が進んで、ラクエルと保護局員の訓練も徹底されているから、うわべだけはたじろがずに任務に就くことが出来る。
『九十四パーセント』
無機質な女性の声が、静まり返ったエノス地区に響き渡る。
今日は、前回とは何もかもが違う、と、マリアラは思った。渡された水晶玉を両手で胸に抱え込む。
前回は“二人ひと組の行動が基本”と言われたのに、今日は違う。ここから見ると、たくさんの保護局員や研究者たちが、マリアラが持たされたのと同じような腕輪を身につけて、あちこちに散らばっているのが見える。人海戦術だ――と、考えた。それが、前回より格段に大勢、組織立って配置されている。
多分、前回の出来事を受けて、防災計画が格段にブラッシュアップされたに違いない。
――【穴】はいっそのこと、一度開けてしまった方が良いのよ。
前回ここに来たときに、出会った幼女の話を、本当に久しぶりに思い出した。
不思議だった。あんなに印象深い幼女だったのに、今の今まで、ほとんど思い出しもしなかった。
マリアラは、あの幼女に確かに会っていた。――フェルドと一緒に。
――どの辺りに空くのかわかってさえいれば、対処はそんなに難しくないわ。
――そうすれば数年単位の時間を稼げるのに。
――【夜】への歪みは儂を狙うておる。
彼女は確かにそう言っていた。
そういえば、と思う。前回も、今回も、エノス地区だ。
それはもしかして、エノス地区にあの幼女がいるから――なのだろうか?
『九十七パーセント』
数値は上がり続けている。もうどこで開いてもおかしくない。マリアラは幼女のことを思い出すのをやめ、神経を集中しようとした。無機質な声が耳につく。
『避難してください。保護局員の指示に従って、直ちに避難してください。陥落の可能性、現在九十七パーセント。非常に危険です』
昼下がりの繁華街だ。ここにいた人はとても多かったはずだ。でも、少なくとも、居住区からは外れているから、学齢期に入らない人たち、赤ちゃんや幼児の寮はないし、歩けない人や年老いた人の寮もない。幼年組の子たちもいないはず。保護局員の指示に従って退避できない、まだ取り残されている人のことは、だから心配しなくても大丈夫だ。そう、自分に言い聞かせようとした。
『九十八パーセント』
無機質な声が宣言した、その時。
めき、と、何か取り返しのつかないような、音が響いた。




