空島と陥落(2)
*
次の日。
朝九時に、マリアラは、製薬所に出勤した。
この半年でだいぶ通い慣れた感がある。ジェシカとの確執があってから、この製薬所には、様々な改善が施されるようになっていた。薬の材料が納められたケースの隙間に、ジェイディスの手によるポスターが貼られている。また薬のレシピがラミネートされたものが机の上に置かれているし、机には、各自の計量カップやスプーンを収納できる引き出しがついている。マリアラが席に着き、引き出しから道具を取り出して準備していると、ケースの一部がごろごろ動いて、ジェイディスが足早に入ってきた。マリアラがいるのを見て、ジェイディスは苦笑する。
「おはようマリアラ。〈アスタ〉から聞いたよ、あんたはほんと、真面目なんだねえ」
マリアラは立ち上がって礼をした。
「おはようございます、ジェイディスさん。あの、医局の方でも何か、手伝えることがありましたら、何でも言ってください」
「よしよし」
ジェイディスは手を伸ばして、マリアラの頭をぐりぐり撫でた。
「わっ!?」
「というかあんた、相棒に会いに来てあげなさいよ。データ取られるだけであの子自身は暇なんだから、毎日退屈してろくでもないことし始めてるわよ」
いいながらジェイディスは持って来たポスターを広げ、昨日の分を回収して貼り直している。どの薬を作れば医局にとって一番ありがたいか、というデータを、毎朝貼るようになったのだ。【魔女ビル】の医局はエスメラルダ全体の薬量や患者数を管理する業務もあるのだそうで、昨日の在庫数を分析して、一番足りない薬はどれなのか、すぐに分かるようにしてくれている。それを見ると今日は溶連菌の特効薬を作るのが“医局にとって望ましい”らしい。
「ろくでもないこと、って、なんですか?」
「ヴィヴィも、ミランダが医局にいるときには大抵フェルドの近くでなにやら勉強してるし……ヴィヴィに悪影響が出るんじゃないかって心配でたまんないわよホント。ね、製薬は二時間って聞いたわよ? それが終わったらちょっと顔見せなさい。みんなホッとするから。わかった?」
そう言ってジェイディスはきびきびと出て行った。フェルドがどんな“ろくでもないこと”をしているのか、と言うことについては、何も教えてくれなかった。一体何をしているのだろう、とマリアラは思う。会いに行ってもいいだろうか。フェルドは、嫌がらないだろうか。
溶連菌特効薬のフラスコをひとつ作り終える頃、ヴィックがやって来た。
この半年で、ヴィックともすっかり仲良くなっていた。マリアラは嬉しくなって手を振り、ヴィックも照れたように微笑んだ。ジェシカとの諍いの時にマリアラの肩を真っ先に持ってくれた男の子だ。彼はイリエルで、数少ない男の子の左巻きだ。口の悪い男の子たちの間では、左巻きだと言うだけで“なよなよしている”とか“そういう資質の持ち主だ”といったようなレッテルを貼られるのだそうで、またヴィックは魔力も弱いので、色々と苦労が多いのだ、と言うことは、仲良くなってから知ったことだ。マリアラよりひとつ年下の十五歳。少年保護法に縛られているため、毎日数時間は一般教養の授業を受けなければならないし、レポートも書かなければならないし、合間を縫って製薬もしなければならないし、夜八時以降は絶対に部屋に戻らなければならないため、ヴィックはいつも忙しい。
「いぇーい、レアキャラ発見ー」
ヴィックはおどけた口調で言い、マリアラは苦笑した。
「おはようヴィック。キャラ扱いしないでくれる?」
「いやー会いたかったよマリアラ」ヴィックは屈託なくニコニコした。「珍しいね、今日は何時まで?」
「十一時まで。あと一時間とちょっと」
「わーい、隣に行っちゃおーっと」
ヴィックはマリアラに懐いている。まるで弟のようで、マリアラも、ヴィックと話すのは嫌いじゃなかった。とても屈託がなく、人なつっこく、可愛がられるタイプの男の子だ。動道の中で見知らぬおばちゃんに飴やお菓子を渡されるという話を聞いたときには、あまりにらしくて笑ってしまった。
ヴィックはマリアラの隣の席に座り、ふうっとため息をついた。
「で、聞いてよマリアラ。最近ねえ、俺大変なんだよ」
「ふうん」
「マリアラも経験ない? 左巻きってさあ、右巻きのヤカラどものマウンティング合戦とは無縁なのはありがたいんだけど、戦利品扱いされたりするんだよねえ、困ってるんだ」
「何それ?」
マリアラは目を丸くした。ヴィックの話はいつも荒唐無稽な色を含んでいる。
「例えばさ、Aという右巻きと、Bという右巻きが、どっちが強いかって張り合ったりするじゃない」
「……するの?」
「で、俺は左巻きだから、手に入れると価値があるってことみたいなんだよね、『俺ケガしたらヴィックに治してもらえるんだぜー』、ってのが、ステータスになったりするらしいんだ」
「……へええ」
「それでAがヴィックは俺の陣営だって主張して、Bがそんなことないヴィックは俺の陣営だって主張、更にCがえーヴィックは中立だよなあー? って言ってきたりするんだけど」
「……」
「マリアラ、経験ない?」
あるわけがない。
マリアラは感心した。初めのうちはヴィックの身の上話を聞いて、とても心配したりしていたのだが、最近、どうやら真に受けるべき話ではないらしい、ということが、ようやく分かってきた。口から出任せというほどの嘘ではないにしても、話を十倍にも二十倍にも大げさにして面白おかしく吹聴するのがヴィックの癖というか、リップサービス的なものであるらしい。ヴィックは苦労している子犬のようなつぶらな眼差しでマリアラを見ており、マリアラは笑った。
「大変だねえ」
「そーなの! 大変なんだよ! 俺はさーただ平穏な日々を過ごしたいだけなのにさあー」
ヴィックと話すのは面白い。マリアラはそれからもしばらく、ヴィックがあれこれと話すことに相づちを打ちながら製薬を進めた。
「俺ねえもうすぐ十六歳になるんだよ」
ヴィックがそう言った時、マリアラは二つ目のフラスコを作り終え、100ccずつパックに小分けにしているところだった。思わず手を止めると、ヴィックは穏やかな口調で続けた。
「相棒ができるんだ。イリエルは左巻きの方が圧倒的に少ないからね――それで、多分、何年間か外国に行くことになると思うんだ」
「……そうなんだ」
「どこに行くことになるかは分からないけど。そこにもさあ、マリアラみたいな人がいればいいのに」
「わたし?」マリアラは思わず笑った。「きっといるよ。わたし平凡だもん」
「いないよ」
ヴィックの言葉が、少し色を変えた。
「……この世のどこにもいないよ。マリアラは、エスメラルダにしかいない」
そしてヴィックは、ごまかすように笑った。
「そもそもさ、平凡な人間なんてこの世に一人もいないでしょ。ただ言いたかったのはね、俺がこれから行く赴任先にも、いつもニコニコしてて人をバカにしたりせずに楽しくおしゃべりしてくれるような人がいるといいなぁってこと」
「……いるよきっと」
微笑むと、ヴィックも微笑んだ。
「うん、……きっといるよね」
会話が途絶え、穏やかな沈黙が落ちた。
マリアラの残り時間はもうすぐ終わりだ。フェルドがどんな“ろくでもないこと”をしているのか見に行く前に、なにか手土産を入手した方がいいだろうか、と、考え始めていた。医局に閉じ込められているから、何か気晴らしになるものを持って行ってあげるのが良いだろうか。それか、やはり食べ物だろうか。甘くない物で手軽に食べられるものというと、肉まん辺りだろうか。変わり種の肉まんをいくつか持っていったら、喜んでもらえるだろうか。
『――マリアラ!!!』
出し抜けに、〈アスタ〉の声が製薬所に響き渡った。
マリアラもヴィックも飛び上がった。あんまり驚いて危うくフラスコをひっくり返すところだった。
「〈アスタ〉、どうし――」
『すぐエノス地区に向かいなさい。国立次元歪研究所から速報。ラクエルに出動要請が出されたの。この要請は他の全ての業務に優先されます』
「また!?」
マリアラは思わず叫んだ。つい先日――あの雪祭りの日に、【夜】の【毒の世界】に向けて穴が空きそうになった。あの時は特に何もなく、ただ出動しただけで済んだけれど。
『先日とは桁が違う。本当に、緊急事態なの。大至急よ。保護局員がエノス地区から人を全員待避させています。今度のは注意報じゃない、警報よ。【夜】に向かって【穴】が開く確率が……現在、八十二パーセント。まだ上がってる』
「――え、え、……え」
『急いで!』
「は、い!」
マリアラは弾かれたように走り出した。ヴィックが声を上げた。
「マリアラ、気を付けて……!」
「うん!」
扉を開けて。
マリアラは、振り返った。
「〈アスタ〉、フェルドは」
『状況が前回とは格段に違うの。急いで、マリアラ。フェルドにももちろん要請してるわ、でも、少し時間がかかるから――あちらで合流した方がいい』
――行動は二人ひと組が基本よ。
以前の出動の時は、確かにそう聞いた。あの時はフェルドの箒に二人乗りする形で現場に急行した。ララは少し離れたところにいたから、ダニエルはララが迎えに行くまで出動を遅らせた。
――なのに。
『廊下の窓を開けるわ、そのままそこから出て。前回同様、エノス地区第二出張所付近に緊急対策本部が設置されました。まずそこへ行って、指示を受けなさい』
「了解」
マリアラはミフに乗って、窓から外へ飛び出した。




