乱入と調べ物(8)
「――はい?」
「あたしのこと、覚えてないですか」
「……、はい?」
マリアラは目を見張った。知っている子だっただろうか?
マリアラがここに通っていたのは、孵化する直前までだ。孵化して目覚めた直後から一年間の仮魔女期が始まり、仮魔女試験を受けてからもう半年近くになるから、この子とすれ違っていたとしても、一年半ほども前のことだ。フェルプス先生とモーガン先生は同じ階に研究室を持っていたけれど、隣同士というわけでもなく、専門が同じというわけでもなかったし――
「すみません、覚えてるわけ、ないですよね。あたし、……ミーシャ=ブラウンと言います。あなたの、一学年下で」
「そうなんですか」
後輩だと言われても、すぐに、敬語を改めることも出来ず、マリアラは頷いた。ミーシャは、肩までの亜麻色の髪をふたつの三つ編みにしていた。大人しそうで、真面目そうで、優等生、と言う感じの子だった。
「……専攻を決めるときに、モーガン先生のゼミの、その、ゼミ紹介にも行ったんです。その時、案内役、されていましたよね」
「ああ、あの時」
孵化する直前――半月か、ひと月くらい前に、確かにゼミ紹介があった。マリアラはゼミに入ったばかりで右も左も分からず、先輩方の指示の元、色んな雑用を必死で片付けていたときだ。大勢の後輩たちが見学に来たのは覚えているが、正直、その中にこの子がいたと言われても全然思い出せない。
「ごめんなさい、あの時は緊張していて、周りを見る余裕が全然なくて」
「いえそんな、すみません、覚えていらっしゃらないのは当然なので、気にしないでください、すみません」
と言うよりむしろ、この子の方が良くマリアラを覚えていたものだ、と、思わずにはいられない。ミーシャはもじもじして、それから意を決したように言った。
「あの。……魔女の生活って、楽しいですか?」
「ええ」
反射的に頷いて、マリアラは、
思わず、微笑んだ。そうだった。
孵化してから見つけた自分の居場所は、とても居心地のよいものだった。もし孵化していなかったら、ラセミスタと会うこともなかったし、フェルドと相棒になることもなかった。ダニエルやララの【娘】として迎えてもらうこともなければ、ミランダやヴィレスタや、ディアナや、ヒルデとランドといった人達と、親しく交わることもなかった。
“孵化”という出来事は既に、マリアラの人生を作る大きな要素のひとつになっていた。“孵化”していなかったらどうなっていただろう――という夢想に心を遊ばせることはあっても、本当にそうであって欲しかったと望む段階は、既に遠く過ぎ去っていたようだ。
――孵化しても、君は僕の大切な生徒だからね。
モーガン先生の温かな言葉は、きっと、今日のこの日を予期してくださっていたのではないか。そんな気がしてならなかった。
孵化しても。相棒を得ても。リズエルの友人ができて、【魔女ビル】に住んで、歴史学の徒としてではなく魔女として生活していくことを心の底から受け入れる日が来ても――魔女であっても、歴史を一番に優先する立場でなくなっても。それでも、歴史を忘れなくても良いのだと、ビアンカ姫のような興味に出会ったときにはいつでも訪ねてきてくれて良いのだと、そう、言ってくださっていたのではないだろうか。
「色々大変なことはあるけど……」
「……そうですか」
ミーシャは頷いたようだった。唇に微笑みが乗ったのが見えた。彼女は踵を揃えて、ひとつ、お辞儀をした。
「これからも頑張ってください。応援しています」
「あ、あ、どうも、……ありがとう」
「失礼します」
ミーシャは踵を返した。かつん、と靴音が鳴った。足早に歩み去るミーシャの後ろ姿を少し見送って、マリアラもまた、反対方向に踵を返した。また来よう、と思った。一週間か二週間後――モーガン先生がフィールドワークから帰ってこられる頃を見計らって、また来よう。今日買ったシュカルクッフェンは、ラセミスタに一緒に食べてもらおう。モーガン先生に会えなかったのは残念だったけれど、でも、お陰でなんだか少し、吹っ切れたような気がする。
部屋に帰ると、珍しく、ラセミスタが先に帰っていた。彼女はマリアラが帰って来たのを見て、嬉しげにぴょんと立ち上がった。
「ねねね、マリアラ、晩ごはんは?」
「え? まだだよ」
答えるとラセミスタは少しもじもじした。
「じゃあじゃあっ、あのっ、【魔女ビル】十九階の喫茶店、行ってみたいんだけど、どうかなあ」
マリアラは驚いた。ラセミスタから、外で食べようと誘われる日が来るなんて。【魔女ビル】の外ではないけれど、レストランに行くのだって大変な進歩ではないだろうか。
「夜景がキレイって、雑誌に載ってたの。でねでねっ、特製パフェに、チャレンジ、してみたいんだ……!」
「特製パフェ?」
十九階の喫茶店と言えば、ミランダの大好きな、四種の(たまに五種になる)チーズのパスタがある、あのお店ではないだろうか。パフェがあるのは知っていたが、特製パフェの存在は知らなかった。ラセミスタはうんうんと頷いた。
「あそこのパフェはね、今までも何度か部屋に注文して、届けてもらったんだけど……さすがに特製パフェにひとりで挑むのは無謀かなって思ってて。あのね、プリンとチョコレートケーキが載ってるんだよ」
「パフェに!?」
うわ、甘そう。
反射的に思ったが、でも、マリアラも連日頭を使って、確かに糖分が欲しい気分ではあった。パフェだなんて久しぶりだ。なんだかうきうきしてきた。それを悟って、ラセミスタも本当に嬉しそうに笑う。
「マリアラ、行ったことあるんじゃない? 特製パフェは食べてない?」
「うん、まだ」
というか、存在自体を知らなかった。あそこに前回行ったのはミランダがやけ食い(?)をしたときで、自暴自棄になっていたミランダでさえ注文しなかったパフェなのだ。存在を知らなかったのかも知れないけれど、自ずと、“特製パフェ”とやらの破壊力が窺えるような気がしないでもない。
ラセミスタは先日街へ出かけた時の“一張羅”に着替え終えていた。マリアラは、また近いうちにあの服屋さんへ行って、気軽に着て出かけられるような服も、何着か見繕ってもらった方がいい、と思った。ラセミスタを傷つけずに、また嫌な気持ちにもさせずに、それを自然に伝えるのはどうすればいいのだろう。
そしてふたりは連れだって喫茶店に向かった。どうしても、先日出かけた時のことを思い出さずにはいられない。あの時はほんとうに楽しかった。フェルドに連れて行ってもらった店のハンバーガーはものすごく美味しかった。
フェルドは今、どうしているだろう。医局に行けば会えると分かっているが、もしかして検査されているところを見られたくないかも知れない、と思うと、気後れしてしまう。休みもないようで、夜しか部屋に戻っていないらしい。今もしもう一度、ラセミスタと一緒に街に出かけることになったとしても、フェルドが一緒に来てくれることはきっとないだろう。そう思うとまた気が滅入ってきそうなので、マリアラは急いでその考えを振り払った。




