乱入と調べ物(7)
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日々は穏やかに過ぎていった。
忙しい真冬を過ごした直後に、ぽかりと降ってわいた休日だったが、全く嬉しいと思えなかった。
それでも最近はようやく心の平穏を取り戻し、午前中に薬の勉強をし、午後にエルギンやニーナや媛について〈アスタ〉の手を借りずに調べてみる、という日課がすっかり定着していた。薬の方はともかく、後者の方は芳しくなかった。文献が本当に残っていない。こないだ運良く見つけたように、全く関係のなさそうな文献を読んでいて、ひょこっと彼らの名前が登場するという僥倖に期待するしかないというのが現状だ。媛についてはまだそれも期待できたが、エルギンとニーナについては本当にお手上げだった。
マリアラはため息をついて、図書室の窓から外を覗いた。もう四月だ。最近は、雲の間から晴れ間が覗く日が増えていた。エスメラルダは長い過酷な真冬をようやく乗り越え、輝かしい季節を迎えようとしている。僕は今頃の季節が一番好きなんですよ――そう語った優しい声が、ふと、耳に甦った。
――さあ、外に出よう。ひらめきは、いつもと違う環境でこそ訪れるものだ。
その考えはまるで天啓のように降ってきた。モーガン先生に会いに行こう。そう思い至った瞬間、身震いが出た。
――またいつでもおいで。孵化して魔女になっても、君は僕の、大切な教え子だからね。
冬の間も、何度も会いたいと思った。でも忙しすぎて――そして先生の方も論文の査読に追われている頃だろうと思って、なんとなく実行に移すことができないでいた。
でも、もう春だ。僕はこの季節が本当に好きでね、と、モーガン先生はおっしゃっていた。空の色も、香りも、植物も動物も人々も、建物までも、全てが緩んでのびのびと身体を伸ばすこの季節。
【学校ビル】の教師たちも、ホッとひと息つく季節だ。
思いつくともう、いてもたってもいられなくなってきた。しかしご無沙汰しているので、ただ遊びに来たと言うだけでは敷居が高い。何か口実があるだろうか。“過去”で撮った王宮の写真を見せるわけにはいかない――けれど、そうだ、【魔女ビル】の排気ダクトの中を歩いたことは話してもいいはずだ。ニーナやエルギンの話は聞けないけれど、『おひめさまのこい』を持っていって、ビアンカ=クロウディアというお姫様について、先生のご意見をうかがうのも大丈夫のはずだ。
口実もあり、時間もある。先生のお好きだったシュカルクッフェンを買って訪ねていったら、きっと喜んで迎えてくださるはずだ。折良く、おやつ時だ。講義の時間だったら近くの休憩所で待っていればいいし、明日も明後日も時間はあるのだから、メモを残すだけでもいい。
マリアラは喜び勇んで、図書室を出た。
とても久しぶりに、心が浮き立っていた。
首尾良くシュカルクッフェンの箱詰めを手に入れて、【学校ビル】の十八階にやって来た。
懐かしさに胸が締め付けられる。ここに通うようになった頃の、胸の高鳴りを思い出す。モーガン先生はとても人気のある先生だったから、ゼミに入れる権利を勝ち取る競争も過酷だった。晴れて通えることになった時の幸せは、昨日のことのように思い出せる。まさか入ってたったの七ヶ月で孵化を迎えるなんて、あの時は想像もしなかった。
か細い足音が聞こえた。
見ると、前方から、本を胸に抱えた少女が歩いてくる。
俯いていて、顔がよく見えない。ほっそりした大人しそうな少女だった。この区画にいると言うことは、この子も歴史学のゼミに入っているのだろうか。ひとつかふたつ、年下のように思える。
その子に目を引かれたのは、マリアラが以前よく好んで着ていた服屋さんのロゴが目に入ったからだ。背中に背負った革の鞄に、そのロゴをかたどったキーホルダーが揺れていた。値段が手頃でデザインが派手すぎず、それでいて可愛らしい雰囲気のものが多くて、大好きなお店だった。今もその服屋で買ったスカートを履いていたから、ここにも利用者がいるのだと思うとなんだか嬉しくなった。あの子はどこのゼミの子なのだろうか。
――いいなぁ。
ふと、そんなことを思った。しみじみと、あの子が羨ましかった。
孵化を迎える前、マリアラは、モーガン先生のような教師になれたらと、淡い願望を抱いていた。もし孵化しなかったなら、今もここに通っていただろう。専攻会の部屋はもっと下層にあるが、マリアラは本当に頻繁に、モーガン先生の部屋にお邪魔していた。先生の部屋の片付けを手伝ったり、細々した作業を任されたりするのも誇らしかった。一般学生の身分でも、レベルに応じた免許を取得できることを紹介してくださったのもモーガン先生だった。特一級免許を取れば博物館に保管されているような文化財も触れるようになるし、講義を行うこともできるようになる。君がそれを望むなら僕は最大限のバックアップをするつもりだ、そう勧めてくださった時の嬉しさと誇らしさを、今も昨日のことのように覚えている。
――孵化しなかったら、今頃、どうなっていただろう。
しばらくの間、その夢想に心を遊ばせた。フィールドワークに出かけるのも本当に楽しかった。モーガン先生にくっついて、旧市街の建物を調査に行ったときも、温泉街のすぐそばの遺跡を調査しに行ったときも、本当にうっとりするほど楽しかった。今頃は、フィールドワークに明け暮れる日々を送っていただろうか。アナカルシスの王都、アナカルディアにも有名な旧市街がある。こないだは、実際にその街を歩いた。もし今あそこにまた行くことができたら、きっと、新たな気づきや発見が色々とあったに違いない。当時、既製品を売る衣料店が既に確立されていたことや、政治的な要素で行く店を選んでいた文化があったことを元に、当時の文献をひもとくことができたなら――ああ、その話をモーガン先生にできないのがもどかしい。
通い慣れた先生の部屋にたどり着き、手を上げて、ノックをした。
少し待った。
でも、返事がなかった。
マリアラはもう一度手を上げて、扉を叩いた。こん、こん、こん。
「――あの」
小さな声がした。驚いて振り返ると、さっきの――前髪で顔の大半を隠した、マリアラの大好きなファッションブランドのロゴを鞄につけた、本を抱えた少女が、いつの間にかすぐそばに立っていた。
「モーガン先生は、お出かけですよ」
「え――そう、なんですか?」
フィールドワークだろうか? 講義だろうか? この時間にはモーガン先生はいつも、自室でゆっくり本を読んで過ごすという印象が強かったのだが――モーガン先生は自分の部屋がそれはそれはお好きな人で、図書室に行ったり本屋さんに出かけたりすることはあっても、めぼしい本を見つけたら自分の部屋にとんぼ返りするのが常だった。
親切な彼女は、口ごもるように言った。
「私の、先生が――あ、私の先生は、フェルプス先生なんですが」
フェルプス先生。また懐かしい名前だった。
「フェルプス先生が、モーガン先生は、一週間か――二週間くらい、留守にするらしいと、おっしゃっていました」
「そうですか。フィールドワークとかで……?」
「ええ、たぶん」
「ありがとうございます」マリアラは微笑んだ。「それじゃあ、また来ることにします」
少なからず落胆していた。ここに来れば絶対会えるはずだと思いこんでいたからだ。それにしても、一週間か二週間か、そんなに長期の間留守にするフィールドワークだなんて、一体どこに行かれたのだろう。アナカルシスだろうか? 旧市街だろうか? お供したかった、という、むずむずするような羨望をまた感じたけれど、もはや、マリアラにはその権利はないのだ。
踵を返そうとして、
「あの」
少女の声に呼び止められた。振り返ると、鳶色の前髪の間から、灰色の瞳が覗いていた。ひたむきな目だった。マリアラは、二年前の自分に話しかけられているかのような、そんな錯覚にとらわれた。モーガン先生と、それから歴史学の両方に、これからの前途を全て捧げて構わないのだと、ひたむきに思い込んでいた頃の自分に。




