第四章 仮魔女と狩人(3)
「えっ」
『乗り物を隠してたんだ、狩人がそっちに向かってる! 逃げろ! フィがすぐ――』
その声に被さるように、びいいいいいいいい、という奇妙な振動音が聞こえてくるのにリンは気づいた。
無線機の向こうからではなく、右前方からだ。森の木々をすり抜けて何かが突っ込んでくる。振動音はみるみる迫り、ヴァイトがマリアラをおぶったまま「走れ!」素早い動きで走り出した。「リン!」マリアラの悲鳴。リンは呆然としたまま、それを見た。
足のない小さな馬のようなものに跨がった、真っ赤な髪の男が、にいっと嗤ったのを。
『逃げろ! 今行くから!』
フェルドとつながったままの無線機を放り出しジェイドがリンの手を掴んだ。ぶわっと風が湧いて、グールドが押し流されて迂回していった。「走って!」ジェイドが怒鳴り、リンは我に返った。ジェイドに手を引かれるままに走り出す。びいいいいいい、また音が迫り、グールドの操るその乗り物がマリアラをおぶったヴァイトの前に割り込んだ。
「ぐあっ」
ヴァイトが声を上げた。マリアラの悲鳴。
ヴァイトの腹にグールドのナイフが、あのぎざぎざのナイフが、突き立っている。
「おいでよ」
グールドが手を伸ばし、ヴァイトが力を振り絞ってマリアラを後ろに投げた。マリアラが倒れ込み、そこへジェイドが駆け込んだ。風が湧いた。が、グールドは風の動きを読んでいた。塊を避けて体を倒しざま、左手に握っていた土塊をジェイドに投げた。泥のようなひとかたまりがジェイドの顔にまともに当たった。
「――!」
中に何が入っていたのか、ジェイドは倒れ、もがき苦しむように顔を掻きむしっている。びいいいい、乗り物がひときわ高く喚いた。
そしてリンは、グールドの狙いが、マリアラではなかったことを悟った。
――あたし……!
次の瞬間にはグールドの右手がリンを抱えていた。まるで白馬に乗った王子様にさらわれるお姫様よろしくリンはグールドの膝に抱えられ、びいびい喚く乗り物とともに猛スピードで斜面を下っていた。「リン……!」マリアラの悲鳴が後ろに流れていく。
「リン=アリエノール、だったっけね。さっきはありがとうね、無線機、貸してくれて」
グールドが囁く。リンは周囲を通り過ぎる木々の、あまりの速度にぞっとして身を縮こまらせた。動道の窓から手や顔を出してはいけません、というのは、エスメラルダの子供が幼年組の段階で骨の髄までたたき込まれることのひとつだ。通り過ぎるものに手が触れるとそのまま持って行かれますよ、寮母の厳しい口調を今も良く覚えている。
「――って、降ろしてよー!」
リンは叫び、グールドが笑った。
「せっかくこんな可愛い子さらったのに、降ろす誘拐犯なんているわけないでしょ」
「あんた狩人でしょ!? 誘拐犯じゃないでしょ!」
「狩人もやるけど、誘拐犯もやるよ」
「誇り高き狩人ともあろうものがそんなんでいーの!?」
「いーんだよ。君可愛いね」舌なめずりをした。「食べちゃいたいくらい可愛いよ。おまけにやーらかいね」
「変態みたいなこと言わないでよ!」
「狩人もやるし誘拐犯もやるし、たまに変態もやるよ」
「ひい……!」
身を縮めるとグールドは一瞬まじまじとリンを見て、そして笑い出した。まるで授業の合間に休憩所で缶コーヒーでも飲みながら気の置けない友人とおしゃべりをしている一般学生のような、あっけらかんとした笑い方だった。
「君本当に可愛いねー。こんなに綺麗な子ってそうそうお目にかかれないよね。なのに反応まで面白いってどうなってんの」
「面白くないよ! 興味持たないでいいよ!」
「いやもー興味津々だよ、切り刻んだらどんな声で泣くんだろうって」
「変態じゃないじゃん! ド変態じゃんー!」
喚いている内にも状況は刻々と悪化していた。
この乗り物は焦げ臭いような匂いの煙をまき散らしながら山腹を疾走していた。山火事の消えた黒焦げの空間に飛び出した。地面までの距離を目で測って、この速度で転がり落ちたらどうなるか、と考えたとき、それを読んだかのようにグールドが釘を刺した。
「飛び降りたらその場で刺すよ。人質はぐったりしててくれた方が好都合なんだから」
マリアラの手と足の傷を思い出して、勇気が萎えてしまう。
前方に、既にエスメラルダの町並みが見え始めている。このまま狩人がこの不思議な乗り物で町中に突っ込んだらどうなるのだろう。南大島と雪山の火事で手薄になった【国境】に逃げ込まれたら。
このままアナカルシスにまで、連れて行かれることになるのではないだろうか。
国外追放の瀬戸際、が、シャレにならない場所にまで近づいてきているのを感じる。
と、
『止まれ!』
フェルドそっくりの声がすぐ脇で聞こえた。
同時にグールドが乗り物の頭を左に回し大きく体を傾け、リンはもう少しで落ちるところだった。グールドは体勢を取り戻すや否やリンを抱え直し、右手できらめく金色の銃を引き抜いた。どうん、大きな射出音がして、ちっとグールドが舌打ちをした。
「箒って本当にうざいよね。そう思わない?」
いや、同意を求められましても。
リンはかすむ目を開いてそれを見た。箒がこの奇妙な乗り物に追いすがってきていた。柄を大きくたわめて、びゅん! 風切り音とともに振り下ろされた。グールドは首を傾けるだけで避け、
「邪魔しないで。人質殺すよ?」
箒がひるんだ隙に、再び下降を開始する。
リンは覚悟を決めた。人質、というのはつまり、リンのことだ。リンがこの妙な乗り物に乗せられている限り、グールドに手出しできないのだとすれば。
大丈夫だ、と思う。ケガなんて、後で魔女に、そう、マリアラに、治してもらえばいいだけじゃないか……!
がちゃり。
冷たい金属音とともに、リンの右手に銀色の輪っかが嵌められた。ぐいっと体を引っ張られ、続いて、――がちゃり。もう一度音がして、乗り物の首の部分に、リンの手首からのびたもう一つの輪が嵌められる。
――手錠だ。
「なんでこんなの持ってんのよー!?」
「変態やるときのために持ってるんだ」
「意味がわからない!」
「備えあれば憂いなしって、ね」
グールドは楽しげに笑った。フェルドそっくりの声を持つ箒が諦めたように少し遠ざかった。