乱入と調べ物(4)
* *
〈彼女〉はいつも薄暗いところにいる。エルヴェントラの執務室がたいていの時間、薄暗いからだ。
でも今日は明るかった。フェルドが呼ばれているからだ。ラクエルを薄暗いところに呼び出したりしたら、喧嘩を売っていると思われても仕方がない。
フェルドは今日は検査服ではなく、ふだん着を来ていた。散髪をしたばかりなので髪はとても短く切られて、つんつんと上を向いた様子はフェルドの内面を表しているようだ。威嚇。
この子がもし暴れようと思えばカルロスには自分の身を守る術はないだろうと、〈彼女〉は考えた。カルロスも右巻きではあるが、どの場所の水も空気もフェルドの方に与するだろう。フェルドは風に繊細な働きをさせるのは苦手だが、攻撃をさせるのならば、二度目の孵化で風を得た今なら、誰よりもすさまじい働きをさせられるだろう。そう、ライラニーナのように。いや、彼女よりも、もっと。
でもカルロスはくつろぎ切った様子でフェルドを迎えた。
今は皺深い老人の顔をしている。
「よく来たね、フェルディナント。私が校長、エルヴェントラ=ル・カルロス=エスメラルダ。よろしく」
「……」
フェルドはカルロスを睨んでいる。カルロスは苦笑した。
「そう威嚇しないでくれ。客観的に考えてみて欲しい。二度目の孵化を迎えたマヌエルが自分じゃなかったら? いろいろと検査をされるのは当たり前だと思わないか? 初めのラクエルが生まれた時にも似たようなことがあったんだよ。おかげでラクエルについても研究が進んで、シフトを組めるようになって、【毒の世界】までへも人を助けにいけるようになったんだ。その恩恵を否定しまではしないだろう、フェルディナント」
「昨日と同じ検査を何度も何度もやられてる気がする」
「君は専門家じゃないだろ」
「検査という名目で隔離されてるだけの気がする」
「そういう側面もある。君が昨日乱入したから、マリアラも今日はまた朝から検査ざんまいだよ」
フェルドが睨み、カルロスは微笑んだ。
「彼女の体調に何も変化がなければ、そう、隔離の必要はないということになるだろうね。ケガの功名というわけだ。だが相棒の身に何か多大な影響を及ぼすようになるかもしれない、というくらいの危惧は、持っても良かったんじゃないかな」
「……」
「まあ心配ないと思うよ。少なくともマリアラはね。彼女の魔力はかなり弱い。左巻きだという点を考慮しても、孵化できたのが不思議なくらいだ……」
君の足かせにふさわしい。
カルロスはそこまでは言わなかった。だが、そう考えていることは、〈彼女〉にはよくわかる。
マリアラの魔力は弱い。
ラクエルではあるが、それにしても、人を数人治療しただけで疲弊するほど弱いのだ。
そうでなければ、カルロスが、フェルドに相棒をつけるという冒険に踏み切れたはずがないのだ。彼女はまだ幼いといっていいほど若く、弱く、友人を、【親】を、家を、庇護を、誰かとの親しみのこもったおしゃべりを、美味しい食べ物を、ここにいていいのだという無条件の許しを、必要としている。そしてフェルドが初めて執着を見せた。全く、彼女はフェルドの足かせにふさわしい。
フェルドは何も言わなかった。
カルロスも沈黙した。
それは初め、あえかな陽炎のような変化だった。カルロスの外見が、少しずつ少しずつ、若返っていく。見せる気なのだ。フェルドに足かせをはめるためならどんな手段でもとる気なのだ。フェルドもその変化に気づいた。エルカテルミナ、エルカテルミナ。〈彼女〉は語りかける。心の中だけで。
〈彼女〉には何もできない。祈ること以外には、何も。
エルカテルミナ。――今代が最後の希望かもしれない。箱庭のほころびはもはや猶予ならぬところまで来ている。【毒の世界】に【穴】が空き始めた時点で対処するべきだったのに――このままでは【夜】に空いてしまう事態まで起こりかねない。エルカテルミナ、世界の澱を癒す花は、こんな場所で、足かせをはめられて、閉じ込められている場合ではないのに。
なぜマリアラに執着を見せたのかと、なじりたかった。
近いうちに出て行くと思っていた。世界が彼を選んだのだから。この世のどこかに存在する彼の片割れに、もうひとりのエルカテルミナに、いつか巡り会うために、カルロスの手を逃れていくのだと、思っていたのに。――信じていたのに。
もう彼はカルロスのしかけた罠にはまってしまった。絶望と共に考えた。
今度もきっと駄目なのだ。
カルロスの変化はゆるやかで、しかし顕著だった。皺が伸びて、髪が色を取り戻し、背筋が伸び、剥き出しの手に、喉に――若草色の紋章が、浮かび上がってくる。肌が艶を帯びる。その色は先程までよりまだ白い。カルロスはフェルドの目の前で、フェルドよりもまだ若い外見をとった。年の頃は十六くらいだろうか。育ちの良さそうな外見だ。黒々とした髪が頭のいたるところでぴんぴんととびはねている。整っていると言えそうな容貌だが、成長期の途中であるらしく、全体的に危うげな、アンバランスな雰囲気を醸している。
「な――」
「この姿になるのは久しぶりだ」
声だけは変わらない。カルロスはにっこりと笑った。
〈彼女〉は沈黙していた。もしあたしに人間の体があれば、と〈彼女〉は考えた。今どうしているだろう。なつかしいなつかしいその姿を目の前で取られて、心臓が張り裂けるように痛んでいるだろうか。嗚咽が漏れているだろうか。この男にいまさらあの姿を取って欲しくはなかった。罠を仕掛けるためだけなどに、使って欲しくはなかった。足があれば駆け寄って、手があれば、めちゃくちゃに殴り掛かっていたかもしれない。
でも手も足も喉も肺も目も涙腺もなかった。だから沈黙を守っていた。
フェルドが呻いた。
「あんた……なんなんだ」
「僕は年を取らないんだよ」
口調まで――
「もう何年生きたかなあ。長すぎて忘れた」
からかうような笑顔まで――
「フェルディナント=ラクエル・マヌエル。この世には君の知らないことがいっぱいあるんだ。僕はこの紋章を体に刻んだ。これはある種族から盗まれた技術でね。今じゃその技術を使える者は一人しかいない」
そう。〈彼〉しか。
存在しないはずの心臓が痛んだ。
「紋章を手に入れ――その後孵化を迎えた。そうしたらこのとおり、いつまで経っても若いまま。エルヴェントラの座を手に入れて、もう二百年は経ったかな。校長就任には前校長の指名にかなりの影響力があるものだからね。そうそう、史上初めて女性の身でエルヴェントラになったのは、君も知ってのとおり、彼女だ。媛だよ。彼女の功績はすばらしかったが、やはり女性だったから、エルヴェントラの座に彼女を座らせるのには根強い反対があった。伝統を壊すことになるとね。だが媛の前代のエルヴェントラ、ゲルトという男が、彼女以外には勤まらないと強く強く推した。その伝統が今も生きてるってわけだ」
話に脱線が多いというところまで――
なにからなにまで〈彼〉そのもので、〈彼女〉は泣きたくなる。涙には心を洗う力があるのだと、言ってくれた優しい声を思い出す。心を洗う手段を失って、もう何百年経つだろう。
フェルドが呻いた。
「二百年……?」
「生きているのはもっと長い。もっともっとずっと、恐らくは君の想像の及ばないくらいに」
そう言ったならばフェルドが誰を思い浮かべるのか、カルロスは知り尽くしている。それをカルロスに教えたのは〈彼女〉だった。フェルドは地理と生物と数学以外の成績が悪く、特に歴史は壊滅的だが、ひとりだけ憧れている人間がいる。かつて世界中を歩き回って世界地図を作ったという、生没年は未詳だが、まだ生きているという噂さえある、伝説上の人物かと思わせて、でもこの世のいたるところにその痕跡があるという、
――〈彼〉。
〈彼〉はもういない。〈彼女〉は心の中だけで呟いた。
もういない。もうどこにもいない。目の前にいるこの男は、〈彼〉などではありえない。絶対絶対許さない。
「まさか……デクター=カーン、とか」
フェルドの問いにカルロスは笑った。
またひとつエルカテルミナに枷をはめたと、確信した笑顔だった。




