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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の変貌
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遭難と変貌(8)



 マリアラはリンの腕から離れて、フェルドに歩み寄った。リンの目にもかすかに、フェルドの体から、若草色の何かが立ちのぼっているのが見えた。病気じゃない、とリンも悟った。変容している。

 孵化だ。


 ――どうして、今さら。


 もう既に、一度孵化をして、マヌエルになっているのに――

 マリアラが左手をフェルドの上にかざした。粒子が寄り集まり、沸き返った。ふつふつふつ、と沸騰するように踊った。ぱりっ、とかすかな音が響いた。フェルドの肌から、何か固くて透明なものが、はがれて落ちたのが、見えた。


「孵化……なのか……?」


 ゲンが囁く。リンはうなずいた。ゲンはルクルスだという話だった。ではきっと、今も、何も見えないのだろう。リンの目にも粒子が踊るのがかすかに見える程度だ。

 でも、間違いなかった。孵化が始まる。世界の神秘の、静謐で美しい真実の淵が、今そこで開いている。リンには見えない。たぶん一生覗くことのないそこを、マリアラもフェルドも、今覗いているのだと思う。


「綺麗……」


 マリアラが、囁いた。


「こんなに綺麗なものだなんて知らなかった……」


 ウィナロフが、言った。


「右、なのか」


 何か、促すように。誘うように。――惧れる、ように。


「うん……」


 夢を見ているような声で、マリアラは促されるままに、答えた。ウィナロフは続けた。


「光は済んでる。じゃあなんだ。風か? 水か?」

「闇、が」

「闇――?」

「闇……かな……黒い……ものが……右巻きに渦巻いてる……黒いのに綺麗、こんな綺麗なもの、生まれて、初めて、見た」

「……離れろよ」


 ゲンが言って、ウィナロフをそこからどかせた。彼は逆らわなかった。リンは、考えた。ウィナロフは狩人だ。だから、魔女のことに詳しいのだろうか。リンより先に、フェルドの異変が孵化だと気づいた。二度目の孵化。そんなことが起こり得るだなんて、今まで全然知らなかった、のに。


「大丈夫なのかよ……」


 ゲンが呻く。リンはその手を握った。暖かくてしっかりしたその手を。ゲンのためではなく、自分のために。


「大丈夫。異常なものじゃないよ、ゲンさん」

「そう……なのか?」

「うん。なんか、わかるよ。異常なものじゃない。起こるべくして起こったこと、何か大きなものが、望んでいることなんだって、思う。そんな――気がする」


      *



 夜が明けた。


 マリアラは少し前から、フェルドの上に左手を翳すのをやめていた。もうできることはすべて済んでいた。やらなければならないことはとっくにわかっていた、自分がちゃんとやり遂げたのだという実感もあった。けれどフェルドはぴくりとも動かず、どうしても、どうしても、死んでしまったのではないかという恐怖が去らなかった。


 二度目の孵化。

 そんなものが起こりうるなんて、今まで聞いたこともなかった。


『――ド』


 声が聞こえた。


『フェルド。フェルド、マリアラ? 聞こえる? 誰か、応答して』

「〈アスタ〉」


 マリアラは強ばっていた体を何とか動かして、スクリーンへ向かった。今更通信が回復したなんて。助けが一番ほしかった時に、沈黙してた、くせに。


『ああ、マリアラ。どう、』

「〈アスタ〉、」

『マリアラ?』

「ああ、〈アスタ〉、フェルドが……!」


 スクリーンにすがりついて、マリアラは泣いた。子供たちが少しずつ起き出している、魔女である自分が取り乱したところを見せてはいけないと、思ったのに、どうしようもなかった。リンはすごい。到底真似できない。吹雪の中で、自分は吹きっさらしのところに陣取って、風よけを務めながらみんなを励まし続けた。魔女がきても休もうとせず、マリアラがすぐに治療に入れるように、自分にできることを続けた。


 リンのようになりたいと、昨日から心底思っていた。

 いざと言うときに、その人の真価が出る。


 ――わたしはいざというときに、みっともなく泣きじゃくるしかできない。


「フェルドが、フェルドが、」

『フェルドがどうしたの』


 新たな声が割り込んだ。ララだ。〈アスタ〉の部屋にちょうどいたのだろう。マリアラはしゃくり上げた。


「孵化、したの、ララ、フェルドが……」

「二度目の孵化が来たんです」リンが横から助け舟を出してくれた。「夜半過ぎに急に倒れたの。でもマリアラがいたから――」


 ララは一瞬だけ考えた。それからリンに礼を言い、マリアラに言った。


『落ち着きなさい。大丈夫よ。孵化はもう済んだの?』

「うん。……でも起きないの、ララ、ぴくりとも動かないの。呼吸も少ないし、脈拍も、」

『孵化の後すぐ動いて呼吸も脈拍も正常だったらそっちのが心配よ、バカね』ララはつっけんどんに言った。『ちゃんと教えたでしょ? 五日くらい寝るのが普通、脈も呼吸も通常の四分の一以下に落ちるの。体温も下がってるでしょう? 仮死状態にあるんだから当然よ。あなたもそうだったのよ、マリアラ。大丈夫よ、何も心配ない。よくやったわ。初めてだったのに、偉かったわね』

「大丈夫、なの……? でもララ、二度目なんだよ?」

『二度目の孵化くらい珍しい話じゃないわよ』


 ララの声はぶっきらぼうで、でも暖かかった。マリアラはきょとんとした。


「そう、なの?」

『そうよ。あたしだって二度孵化したわよ? でもほら、ぴんぴんしてるでしょ。ね、マリアラ。フェルドの孵化はなんだったの』

「風だ」


 男の声が割り込んだ。洞窟とハウスの継ぎ目に当たる部分に寄りかかって、そう言ったのは、ウィナロフだった。

 ウィナロフはマリアラをじっと見て、有無を言わせぬ口調で言った。


「風だよ。――そうだろ?」

『……なに?』


 ララにこちらの映像を伝えるカメラは、マリアラとリンの顔を映していて、ウィナロフはおそらく死角に入っているのだろう。声も届いたとは思えない。


 ――風だよ。


 どうしてそんなことを言うのだろう。フェルドの孵化は風じゃなかった。闇だ。

 いや、闇、だったの、だろうか。あれは。

 狩人の言うことなんか、と頭のどこかで思った。でも。


「……風、だった」


 どうして嘘をついたのか、その時のマリアラには分からなかった。

 でもそうしなければいけない気がした。なぜだか――わからないけれど。


『風だったの?』

「うん。ララ。風が、右巻きに渦巻いてるのが見えた……」



     *



 通信を終えると、ため息が出た。〈アスタ〉が代わって、マリアラと、そこの責任者に、今後の予定を伝えている。


 普段と変わらない、アスタの部屋。

 でもそこが、急に色あせたように感じられる。


 来るべき日が来た。ずっと覚悟していたはずなのに。それでもフェルドは違うのではないかと、魔力は強くても、ラクエルでも、自分の【息子】だけは違うのではないかと――フェルドは魔力の強さの割に、孵化が遅かったという、ただそれだけをより所にして、一縷の望みを抱いていた。


 でもやっぱり、そうだったんだ。カルロスの警戒は正しかった。

 背後で、ダニエルが、静かに言った。


「二度目の孵化だなんて、初耳だな、ララ」


 ララは揺らがなかった。完璧なタイミングで振り返り、完璧な声音と表情で、言った。


「当然でしょ。方便だもの。あの子を落ち着かせるには、そう言うしかないじゃない」

「……そうか」


 ダニエルはうなずいた。

 どうやら信じたようだということに、ララは心底安堵した。

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