遭難と変貌(5)
「――大丈夫じゃなさそうだな。まあ無理もない。あの若いのは……高いびきだなあ、暢気なもんだ」
「寝ててくれる方が面倒がなくていいです……」
イクスが起きていたらもっと泣いてた。
「そりゃそうだ」ゲンは笑った。「横んなってろ。辛いだろう」
辛いのだろうか。よく分からない。横になりたいんじゃなくて、泣きたいだけなのに。ゲンにはそれがわからないのだろうかと、思うともっと泣きたくなる。それに体の回りに横たわれるスペースはないし、と思った時、マリアラが来た。瞳はもう本当にすっかり藍色になっていて、きれいな色だな、と思った。マリアラはリンの額に手を当てて、うわっ、と言った。
「ごめん、後回しにしちゃって」
「当然だよ……」
飲んで、と差し出された小さなコップには水らしき物が入っていた。ただ、口に入れると劇的に甘かった。
「味は?」
「すごく甘い……」
「甘いの? すごく? わかった」
マリアラはすぐに薬作りに取り掛かった。リンの目の前で、薬の瓶がちかちか踊った。フェルドが、リンの回りでぐっすり眠っている子供たちを一人ずつどけた。
指先を、何か指揮するように閃かせながら、マリアラが言った。
「寒いでしょ」
「あ、うん、でもさっきよりは、全然」
「いやそういうこと言ってんじゃなくて……」
あっと言う間に薬ができた。緑色の、どろっとしたそれを渡しながら、マリアラは言った。
「すごく苦いよ。それからつらくなるよ。でも三十分で楽になるから」
「苦いのもつらいのもいやだなあ……」
記憶がよみがえった。魔女の風邪薬。真冬に高熱を出したときなどに処方される、苦い、壮絶な飲み薬だ。味はもちろんのこと、薬が効き始めた時の悪寒と苦痛と言ったら、飲んだことを心底後悔するのだ、毎回。
でもその三十分が過ぎれば、後はもうすっきりさわやかに全快してしまうので、つい、次もまた飲んでしまうのだけれど。
マリアラは静かに命令した。いかにも魔女らしい口調で。
「飲んで」
「……まずいんだよなあこれ……」
というより、なんだかひどく億劫だった。もう放って寝かせてほしいと思った。こんなもの飲まなくても数日あれば治るのだ。今は嫌だった。頭も痛いし背中も痛い。怠いし眠いし、ひどく辛い。寒いし泣きそうだし、身体がなんだかぐらぐらする。頭の芯が定まらずにふらふらと揺れている感じがする。こんなもの飲んで更に辛くなるのは絶対嫌だ。泣きたいだけで、だから、こんなもの飲みたくない。けれどマリアラは有無を言わせぬ口調で、言った。
「飲んで」
「……」
「リン?」
「……やだよう……もうほっといて……飲まなくても死なない……飲まずに死んだ人なんて知らないもん……」
我ながら、ものすごい説得力だった。こう言えばマリアラも引き下がるだろうと思った。
だがマリアラはまじまじとリンを見た。
「熱でおかしくなってる」
フェルドが言う。マリアラもそう思ったのだろう、頷いたのが見えた。失敬な、とリンは思う。おかしくなんてなってない。ただ眠いだけだ。眠くて怠くて辛くて寒くて痛くて、泣きたいだけだ。
マリアラは静かに宣言した。
「仰向けにして押さえ付けて鼻つまんで無理やり口の中に流し込むまであと、じゅー、きゅー、はち、」
カウントダウンにしたがってマリアラの後ろでフェルドが手をわきわきさせた。リンは渋々器を受け取った。みんな何にもわかってない、と思った。こんなの飲まなくても泣かせてくれればよくなるのに。それでもカウントダウンが止まらないので、しょうがないので器に唇をつけた。
この世のものとは思えない味がした。
「……!」
「味わっちゃだめ! 鼻つまんで飲んで!」
「くそう、覚えてろ……!」
リンは飲んだ。どろどろと薬が喉を流れていく。苦い。まずい。最低だ。吐く。これは絶対吐く。そう思ったのに、身体は薬を受け入れた。吐き気は湧き起こらず、どろどろが細胞の隅々までしみていくのがわかる。裏切り者、と思った。あたしの身体のくせに。
空になった器を見て、マリアラが優しい声で言った。
「よしよし、全部飲んだね。お利口さんだなあ、リン」
ついにリンはべそべそと泣き出した。なんだかすごく、理不尽な仕打ちを受けた気がした。
「うるさぁい……覚えてろぉ……起きたらぁ……マリアラのロッカーに何が入ってたか……みんなにばらしてやる……」
「ロッカーには教科書が入ってたけどな?」
「子どもがみんな寝てて良かったなあ。さっきまでの頼れるリン姉ちゃんのイメージが台無しだよ」
ゲンが苦笑した。マリアラがリンの身体を毛布でくるんでくれた。そっと横にされて、頭の下に柔らかい枕を挟まれて、リンはぐすぐす鼻を鳴らした。これから何が起こるのかわかっていた。頭痛が増してくる。熱も更に上がる。全身が震えて、関節が軋んで軋んで、悪寒が襲ってくるのだ。マリアラのバカ。なんて仕打ちをするんだ。友達なのに。
マリアラが、リンの目の前に時計を置いた。
「あと三十分。針がここまで来たら良くなるからね。大丈夫。頑張れリン」
「うううううう……マリアラのロッカーにはぁ……」
「またロッカーかよ。どんな思い出があるんだ」
「誰かからのラブレターがよく入ってた……知ってるんだから……」
「……」
「……」
「……」
「で、入ってたのか?」
「……よくじゃないよ」
「……入ってたのかよ」
それ以降、しばらく、周囲の声に注意を払っている場合ではなくなった。壮絶な悪寒と気分の悪さと体の震えと戦わなければならなかった。かすむ目で時計を見ても、針の進みは遅々として、いつまで経っても進まない。リンは耳のわきで誰かがうんうん唸っているような音を聞いていた。それが自分の声だなんて、思いもよらなかった。




