遭難と変貌(4)
「……怒ってるのか?」
急に話し声が耳に飛び込んで、リンはびくりとした。いつの間にか壁にもたれて眠っていたらしかった。頭が重い。そしてだるかった。風邪でも引いたかもしれない。
ハウスの空調もおかしい気がした。さっきまであんなに暖かかったのに、今は、寒い。ぞくぞくする。
その声はゲンの声だった。ゲンの治療はもう済んだらしい。いつの間に。事態を把握しようと周囲を見回すと、なんだかすごくいい匂いがただよっていた。子ども達の大半も眠っていて、フェルドは大きな鍋をかき回していて、ウィナロフは相変わらず洞窟の奥に座り込んでいる。イクスは横になって、毛布にくるまっていびきをかいていた。マリアラはハウスの別の場所に移って、違う子どもの治療をしている。
リンの目を覚まさせた声はゲンのもののようだった。フェルドは、え、と言った。
「誰が?」
「あの子が」
ゲンはマリアラを指した。ゲンの顔色ももうすっかりいいが、ひどく眠たげだ。
「マリアラが? どうして」
「いや、目が」
「目が?」
「さっきと色が違った。灰色、だったろ、もともと。それが藍色になってた。俺の知り合いで、怒ると色が変わるって奴がいるんで」
「ああ――違いますよ、あれは、魔力の使い過ぎです。珍しい話じゃないですよ、マヌエルだと。俺はないけど、他にも何人か知ってるし」
「へええ……ルクルスだけかと思ってた」
リンはその会話で、マリアラの瞳の色が、確かに藍色になっているのに気づいた。同時にその頬の辺りに浮かぶ疲労の色にも。ゲンのケガはやはりひどかったのだろう。骨のひび割れをつなぐのに魔力を使い過ぎたのだ。
ゲンは体を起こした。もう痛まないらしく、リンは嬉しくなった。
「寝てた方がいいですよ。寝ながら食べたって誰も叱らないから。――リン、起きたのか。食事……」
ゲンはフェルドの言葉を遮った。
「寝てられねえよ。狩人がそばにいるってのに」
「狩人?」
ぼんやりしていたリンは、思わず声を上げた。
狩人――狩人? こないだ会った、あの、グールドとかいう赤い髪の、あの怖ろしい人の、仲間?
フェルドは動じずに、器にシチューをよそった。ほわわん、と湯気が上がる。
「俺は匂ったけど、ゲンさん、マヌエルじゃないのに。よくわかりましたね」
「ルクルスってのは勘がいいんだよ」
「ふうん」
フェルドは腰を浮かせて、リンに器を手渡した。ほかほかと湯気が上がっている。茶色いシチューで煮込まれた、ハンバーグだ。ウィナロフが食べたいと言ったもの。ニンジンだのジャガイモだのがごろごろ入っていて、美味しそうだ。
でも食欲がなかった。狩人という単語が衝撃的過ぎたためかもしれない。
「あの人……狩人なの?」
スプーンを受け取る時に囁くと、フェルドはあっさりうなずいた。
「こないだと同じ匂いがする」
「匂い――?」
「〈毒〉の、匂いなのかな、なんか金臭いような……今はごくかすかにだけど」
「そう?」
全然気づかなかった。
「銃を出せ」
ゲンが威嚇した。ウィナロフは逆らわなかった。今は毛皮を脱いでいて、その顔もよく見えた。精悍な顔立ちの、まだ若い男だった。フェルドやイクスと、あまり変わらないように見える。真っ黒な髪は短く切られているが、くせっ毛らしく、いろいろなところがぴんぴんとびはねていた。瞳も黒だ。ウィナロフはその黒々とした瞳でゲンを見て、首元にかけた革紐をはずして、そのままゲンに投げてよこした。ちん、と洞窟の床に、革紐につけられた金色の何かが音を立てた。
リンは目をこらしてそれを見た。黄金色の、小さな、親指大の、銃だった。
「ほら」
ゲンがフェルドに渡そうとしたが、フェルドは顔をしかめた。
「悪いけど……触りたくないな。毒の匂いがぷんぷんする。気味が悪い」
「ラクエルってのは毒に強いって言うじゃねえか。他のマヌエルは【毒の世界】に入っただけで昏倒するって言うだろ、けど」
「他のマヌエルに比べれば、耐性があるってだけで、強いわけじゃないんです」
「……俺は元の大きさに戻せねえんだよ」
「戻さなくていいんじゃないかな。縮めといた方が安全そうだし」
「暢気なこと言うなよ。いいか、奴らの銃にはな、名前が刻まれてるんだ。名前と役職名と。それ見て〈アスタ〉に連絡しとかねえと――」
「〈アスタ〉には連絡が取れないんですよ。さっきやってみたけど、吹雪が強まってて通信ができないんだ。銃も手放したんだし、吹雪が止むまで、このままでも構わないんじゃないかと思うけど」
「マヌエル二人とルクルスと、吹雪の中で敵に回せるほど神経太くないよ」
ウィナロフが言った。落ち着いた口調だった。
「吹雪の中に追い出されるのはさすがに困るんだ。洞窟の中にいさせてもらえるだけで恩に着る」
「もう夜だ」ゲンはフェルドに囁いた。「お前ら、ラクエルなんだろ」
そうだ、と、リンは思った。
ラクエルが魔法を使えるのは、光がある場所でだけだ。
ウィナロフは淡々と言う。
「信頼できないのはわかるけど……今この状況で、手出しなんかしない。そこまで恥知らずじゃない」
「狩人なんかの言葉が信用できるかよ」
「あんたルクルスだろ。エスメラルダじゃ居心地悪いんじゃないのか。狩人の大半はルクルスだ。その気持ちはわかるけどな」
ウィナロフの言葉に、ゲンは唸った。
「だろうな。――だが魔女に助けてもらったことが一度もない奴らばかりなんだろうよ。自慢じゃねえが、俺はこれで四度目だ。ルクルスを排除しようとしてんのは魔女じゃなくて元老院だ。そんくらいの判断もできねえ奴らに、とやかく言われたくねえな」
「……まあね」
「出て行け」ゲンは軋るような声で言った。「お前がいる限り、安心なんかできねえよ」
「いいよ、出て行かなくても。目の届かないところに行かれるのもどうかと思うし」
フェルドが落ち着いた声で言った。ゲンがフェルドを睨んだ。
「……お前なあ」
「まあ大丈夫ですよ。銃はゲンさんが持っててくれれば。俺が嫌なのはその銃だけで、使う人間は大丈夫ですから。そいつは普通の――」
言いかけて、フェルドは一瞬口をつぐんだ。
呟きは、リンにだけは聞こえた。かろうじて。
「……普通でもなさそうだけど」
ゲンは舌打ちをした。けれど、それ以上出て行けとは言わなかった。
フェルドはリンが一口も食べていないのに気づいて、リンの手の上にふんわりしたパンを二つ乗せた。
「食べろよ」
「あ……うん」
狩人。狩人、だなんて。
リンは混乱していた。こないだ会った、グールドという赤い髪の狩人は、とても残忍で、怖ろしい存在だった。マリアラに大ケガをさせたりしたし、リンをつかまえて、あの子を捨てないと殺す、と、言った。あれは脅しではなかった。本気だったと、わかっていた。もしフェルドが【壁】に穴を開けるという前代未聞のやり方で箒を外に出してくれなかったら、今頃リンはここにいなかった。
しかし、ウィナロフという人間が、あの怖ろしい狩人と同じ存在だと言うことが、どうしても腑に落ちなかった。
もしウィナロフがグールドのような人間だったなら、そもそも、子供たちを吹雪から守るために盾になってくれたりしなかったと思うのだ。防水布だって出さなかっただろう。リンと一緒になって、子供たちを励ます必要だってなかった。どこかで隠れて魔女が子供たちを助けに来るのを待ち伏せして、撃っていたはずだ。効率を考えるのならそれが一番いい。
でも、あの人は狩人なのか。
子供たちやリンにも親切で、イクスよりずっと好感が持てるような人も、狩人の中に、存在するのか。
なんだか泣きそうだ。
なんで。どうして。いったいどうして。
「――リン!」
フェルドの手がリンの額を押した。ぐらっ、と体が揺れて壁に頭をぶつけた。シチューがこぼれた。押されたわけじゃなくて、ただ手を当てただけだったということに気づいた時、フェルドは「うわっ」と声を上げた。
「マリアラ!」
「ごめん、もうちょっと――」
マリアラの声も疲労が濃い。フェルドはリンからシチューを取り上げて床に置き、自分の巾着袋を取り出した。中身をざあっとあけ、かき回しながら毒づく声が聞こえる。
「風邪薬――、くそ、どれだよ、もう」
「大丈夫か、リンちゃん」
ゲンが、体はまだウィナロフに向けたままで言った。リンはうなずいた。
「だいじょーぶ、です、よ」
ただちょっと泣きたいだけだ。子供たちが寝てなきゃとっくに泣きわめいてる。




