第四章 仮魔女と狩人(2)
沈黙が落ちた。マリアラが左手で、毛布をかき寄せた。身震いをして、痛んだのだろう、顔を歪めた。リンは再びしゃがみ込み、マリアラの背を撫でた。そして気づいた。マリアラの周りの温かな空気が消えてしまっている。
ということはつまり、温めていたのはジェイドではないということだ。
「リン……」
マリアラがか細い声を上げ、リンはマリアラの方に顔を寄せた。マリアラは少し顔を上げ、囁く。
「魔物に……知能があるって……文献、で、読んだことあった?」
「へっ?」
一体何を言いだすのだこの子は。リンが目を丸くしたのを見て、マリアラは悲しそうに顔を伏せた。
「ごめん……変なこと」
「いっ、いや変じゃないよ! びっくりしただけだよ、えっと、なんか、うーん? なんかで読んだよ、言葉を解するとか……物語の中にはよく出てくるじゃない? 美しい若者の姿をした悪い奴の、正体は実は魔物でした、みたいな。それは、事実に基づいていたのではないか、という説が有力だとかなんとか」
そう言って、リンは恐々と、すぐそばに倒れ伏す魔物の方を見やった。
巨大な牛に似た魔物は、もうすっかり動かなかった。でも、魔物の毒は魔女に良くないはずだ、たとえマリアラがラクエルだとしても、いい影響があるわけがない。それにマリアラは、この魔物に食べられかけたわけだし――。リンはジェイドを捜した。魔力の回復を待ってから治療して移動するより、移動を先にした方がいいのではないだろうか。
と、ジェイドが戻ってきた。手に、汚れた箒を持っていた。少し離れたところに落ちていた、マリアラの箒を回収してきたらしい。ミフだと、リンは思った。持ち手の部分に小さな窓が開いていて、壊れてしまったように見える。
さっきまであんなに元気満々にわめいてたのに。
リンは胸を衝かれた。今のマリアラに壊れたミフを見せるのがいいことだとは思えない。ジェイドもそう思ったのだろう、ミフを手に持ったまま、マリアラを覗き込んだ。
「マリアラ」
穏やかな声で、ジェイドは言った。
「箒は……えっと、名前は?」
「ミフ」
「ミフ? そっか。ミフは、大丈夫だよ。折れたりしてないし、箒は丈夫だから絶対大丈夫。今は、俺が預かっておくね」
「……ありがとう」
安心したようにマリアラが言う。かくして、とリンは思った。〈ゲーム〉に勝ったのはジェイドだというわけだ。
するとジェイドは微笑んだ。
「ダスティンがあんなこと言ってたけど、あの、当然だけど、仮魔女試験は中止になったし……必然的に〈ゲーム〉も中止だから。誰が一番先に言葉を交わすか、ってことには意味がないんだ。もーダスティンうるさいし、イラッとして話しちゃった。ごめん」
「あ、中止……なんですか」
マリアラが言い、ジェイドは頷いた。その様子に、リンはなんだか感銘を受けた。ジェイドは優しい子だという気がする。顔立ちは地味だけど、よく見れば悪くない。彼女はいるだろうか? どうだろう。
「うん、だから……気にせず話していいんだよ。それにさ、俺たち、同い年だから。敬語もなしね。ダニエルには本当にいつもお世話になってるんだ」
「そうなの?」
「うん、俺の【親】はメイカ=ラクエル・マヌエル。ダニエルからなにか聞いてない?」
「うーん……聞いてない、と思う」
「そっか。メイカは女性で、右巻きなんだけど、相棒の左巻きと仲が悪いんだ」
「……そうなの」
「うん、すごくね。【親】が相棒と出動する時、仮魔女もくっついて行くって研修があるでしょ、その時もーほんと大変でさ……ふたりとも俺を介して会話するんだ。聞こえよがしに厭味を言うしね。お客さんの前でだよ?」
この子は本当に優しい子だ、と、リンは思った。
相次ぐ出来事に打ちのめされているようだったマリアラの体の強ばりが、ジェイドのお喋りによって少しずつほぐれていくのが見える。本当なら、早く移動した方がいいに決まっている。そのためには治療を促すべきなのだろう。
でも、『魔力の弱い』マリアラに、早く治せとせっつくのにはきっと意味がない。マリアラなら、やれるならきっととっくにやっているのだろうから。
ジェイドもあまり魔力が強い方じゃないようだから、その辺のことはきっと良く分かっているのだろう。
「……お客さんにも悪いしさ、板挟みだし居心地悪いし、針のむしろってきっとあんな感じ」
マリアラは頷いた。
「それは……大変だったね」
「うん、大変だった」ジェイドは繰り返して笑った。「見かねたダニエルがさ、出動研修を自分のところで引き取ってくれたんだ。その後はほんと快適だったよ。ララとダニエルは優しいし仲いいし」
「仲いいよね」
「いいよねー」
「ラブラブだよね」
「本当に、ラブラブだよねえ」
ふたりはしみじみと頷きあっている。リンは思わず笑った。
「それはそれで居心地悪そう」
「いやいや、険悪な二人の仲を取り持つよりずっといいもんだよ。お客さんもいつも笑顔だったし、」
ジェイドがそう言ったとき、ガサガサ下生えをかき分ける音が聞こえて来た。
さっきの話もあったのでリンは身構えたが、やってきたのは温泉街の詰所にいた、あの若者だった。若者はリンの反感など気にする様子もなく、てきぱきと事務的に言った。
「雪山西区第四ブロック温泉街詰所所属、ヴァイトと言います。ガストンさんから連絡を受けて来ました。負傷されたとのことですが、山火事と、狩人の脅威も去ったわけではありません。とにかくここから移動を」
「あ、はい、そうですね」
ジェイドは頷く。ヴァイトはマリアラを見た。
「治療はできましたか」
「いえまだ、……すみません」
マリアラが立ち上がろうとして、呻いた。ヴァイトはその手を丁重に握った。
「おぶっていくようにとの命令です」
「え、いえ、でも」
「失礼します」
ヴァイトはさっさとマリアラをおぶった。
大きなヴァイトの背中に乗せられると、マリアラは急に小さくなったように見えた。振動が響くのか、顔をしかめている。もしマリアラが『魔力の強い』魔女だったら、と、考えずにはいられなかった。こんな傷、さっさと治してしまえたのだろうかと。
リンは、マリアラをおぶったヴァイトの前を、光珠で照らしながら並んで歩いた。ジェイドが後ろを振り返りながら後についてくる。
ややして、マリアラが言った。
「あの……魔物……ですが」
「は」
ヴァイトは驚いたらしい。リンもだ。さっきから、マリアラはなぜ魔物のことばかり気にしているのだろう?
「死んだ……のかな、わからない、ですけど。まだ、まだ、生きているような気がするんです。あの、だとしたら、あの後、どうなるんでしょうか」
「魔物の処理はねえ」
ヴァイトは首を傾げる。
「アナカルシスから専門家を呼んだ方がいいかもしれないですね――被害の大きさを考えると目眩がします。東区の灯台詰所から、どうやら魔物の〈毒〉によって火災が拡大したらしいという報告が届いてましてね。それが本当だとすると、汚染された箇所の浄化をどうにか――」
突然、どこかで繊細なメロディが鳴った。
「あっ」
ジェイドが声を上げ、ポケットを探った。どうやらジェイドの無線機らしい。
ぴっという電子音とともにフェルドの声が叫んだ。
『ジェイド、逃げろ!!』