第一章 遭難と変貌(1)
――あーもう、あーもう、あーもうっ!
頭の中ではさっきから毒づき続けていたが、リン=アリエノールは、一言も口には出さなかった。顔の方までは自信が持てないが、とにかく、ここで自分が焦っても、子供たちを前にイクスに宣戦を布告しても、何の益もないことだけは、よく分かっていたからだ。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ」
代わりに周囲の子ども達を抱き締めて、心の中とは裏腹なことを言い続けていた。言い続けていればそのうち本心からそう思えるようになるかもしれないと期待して。
洞窟の中は阿鼻叫喚の渦だった。でもそれは、七歳から十二歳の子供たちが十五人も寄り集まって吹雪に閉ざされているのだから、当然のこととして我慢することができた。みんなが凍傷にならないように気を配るとか、雪まじりの凍るような風が絶え間無く吹き込む洞窟の入り口付近にいなければならないとか、泣き叫ぶ子をなだめて出来る限り暖めてやるとかも、年長者として当然だし、何よりもうすぐ魔女が助けにきてくれるという安心感があるから我慢することができた。ケガ人が数人いて、そのうちのひとりには意識がないということでさえ、同行していた山男が、魔女が来るまで死ぬことはないだろうと請け合ってくれていたから、何とか不安に押し潰されなくて済んでいた。その子のことは、年長の子たちが抱き締めたりさすったりして、凍死しないように頑張ってくれているからなおさらだ。
我慢がならないのは。
リンより年上の、しかも男の、しかも先輩に当たるあの男が、一番暖かな洞窟の奥底に引きこもって、おまけに子供をなだめるどころか当たり散らしてさらに泣かせているということだった。あいつさえあの子を抱き上げてくれていればまだ安心できるのに。前からいけ好かない先輩だと思っていたが、これはもう最悪だ。腕力さえあれば雪の中に蹴り出して凍死でもさせてやりたい。
「泣いたってしょうがねえだろ! 黙ってろよもう!」
イクス=ストールンはそう怒鳴り、一番小さな女の子をさらに泣かせた。子供たちは縮こまり、リンはため息をつき、その洞窟の中にいた、ただひとりの壮年の男は、痛みをこらえるような声でリンに囁いた。
「悪いな……ケガさえなきゃあいつを雪ん中に蹴り出してやるのにさ」
同じことを考えていたことにリンは苦笑した。
「自分でできないのが残念でたまりません」
「あんた偉いなあ。寒いだろうに」
「ゲンさんこそ。ケガは大丈夫ですか」
「なに、かすり傷だよ」
でもリンは知っていた。彼のケガは意識不明の子に劣らないほど深いはずだ。気を失わないでくれているだけでありがたいというのに、リンを気遣うまでするなんて、山男というのはすごい人種だと思う。イクスに爪の垢でもやってほしい。
「俺も協力するよ、リンちゃん。みんなで力を合わせれば蹴り出せるんじゃねえ?」
子供たちの中では一番年上の男の子が防水布から顔を出して真面目に言い、周囲の男の子たちが次々に頷いた。ゲンとリンは思わず笑い出し、吹雪の音にも負けずにその笑い声は洞窟の中に響いた。泣いていた子たちが泣き止み、イクスが顔を上げた。
「何だよ、寒くておかしくなったんじゃ――」
「寒いから」
リンは大声を出した。吹雪にもイクスにも負けないように。
笑い声で子供が泣き止んだことで、少し勇気が出てきた。
「笑った方があったまるよ。よっしゃ、一番、リン=アリエノール、歌います!」
「ええー?」
「待ってました!」
イクスが上げた声はゲンの大声にかき消され、リンは子供でも知っている明るい朗らかな歌を歌った。さっきイクスを蹴り出そうと言った男の子が声を合わせ、リンのひざの上に乗っていた一番幼い男の子がそれに続き、ゲンも続いて、洞窟の中に次第に歌声が広がっていく。ケガをしている子も、泣いていた子もみんな歌った。意識のない子とイクス以外はみんな。
歌い終わった刹那の空隙に、イクスが言った。
「能天気だねえ。体力使わない方がいいんじゃねえの」
「怒鳴りちらしてみんなを泣かすより百倍マシよ」
「な――」
「よしよし、じゃあ次は俺様が歌っちゃうぞ? みんな知ってっか? 山の歌だぜ」
ゲンは横たわったまま、朗々と声を張り上げて歌った。肋骨が折れているのだろうに、いい声だった。イクスは悪い人じゃないのだと、厚い毛皮さえ貫いて叩きつけてくる寒風に耐えながら考えた。ただちょっと空気が読めなくて悲観的で協調性がなくて、自分がリンよりずっと頭がいいと知っていて、自分が一番可愛くて、それを表に出すことにためらいを持たないだけだ。子供を押しのけて真っ先に洞窟に駆け込んだ一時間前の姿を思い出すと、あんな奴にだけは魔女保護局に入ってほしくないと思うけれど、試験の結果はイクスの方がずっといいのだろうから、リンが入れればまた先輩面されて威張り散らされることになるのだろう。そう考えると保護局を目指すのもやめちゃおうかなんて思ってしまう。
ゲンの歌が終わった。リンは勇気と気力を振り絞ってもう一度歌おうとした。でもここは洞窟の入り口というよりほとんど外に近く、リンの頭にも背にも雪がどんどん降り積もってくる。子供達を励ましながらゲンを支えて洞窟にたどり着いた疲労もあって、体中が痛くて、頭が重くて、体力使わない方がいいんじゃねえの、と言ったイクスはやっぱり正しかったのではないかと思えてくる。洞窟の入り口がもう少し狭ければ。それか、奥行きがもっと深ければ。ううん、人数がもっと少なければ。そもそも、ツィスの収穫体験学習の日程が今日でさえなかったら。今朝教官が雲読みを間違えたりしなければ。もう四月だ。もう春だ。なんでこんな時に、よりによってこの日に、冬がぶり返したり、した、のだ、ろう――
「リンちゃん」
男の子が囁き、リンの手を引く。気が付くと洞窟の奥にいる小さな子どもたちがまた泣き出していた。どうして魔女は来ないの、と誰かが言い、イクスが言うのが聞こえた。
「魔女は忙しいんだよ。まだしばらくは来ないだろ」
「忙しい、の?」
「ここんとこずっと天候がよかったとこに急に吹雪がきたんだから、遭難してんのは俺達だけじゃないはずだ。魔女のシフトの状況によっちゃ、まだまだ遅くなると思うよ。だから言ったんだよ、体力使わない方がいいんだって」
嫌みったらしい。
怒りでちょっと目が覚めた。
イクスは自分の血のつながった両親がふたりともマヌエルで、生まれた時から十七歳まで【魔女ビル】で育ったということ、つまり魔女のことに詳しいということが、何よりも自慢なのだ。でも自分が孵化しなければ、親がマヌエルだからってなんだって言うんだ、とリンは思わずにはいられない。
イクスの冷たい声が聞こえる。
「あの山男がさ、ケガして、発信機作動させんの遅れたんだよ。一番早く作動させてくれてりゃ、今頃は――」
「この……」
思わず怒鳴ろうとした。邪魔さえ入らなければ、きっとそうしていただろう。
だが風向きが変わったのだ。吹雪がまともに洞窟の入り口に吹き付けていたのだが、それが弱まったようだ。リンは背後を振り返り、そこに、歩いて来るひとりの男の姿を見た。
初めは魔女かと思った。黒い服を着ていたからだ。
でも違う。それはたったのひとりきりで、毛皮は着ていたが、普通の人間に見えた。雪にまみれて、よろよろと歩いてくる。
「おーい! そこの人!」
リンは怒鳴った。イクスに怒鳴るためにためてしまった空気を使えてよかった、と思った。
「ここに洞窟がありますよ!」
「増やすなよ……」
イクスが毒づいたが構ってはいられない。リンの声に彼は顔を上げたようだ。毛皮に埋もれた顔がちらりと見えた。まだ若そうだ、と思う。
「といっても満員なんで、奥までは入れて上げられないんですけど――」
「助かる」
声が聞こえた。吹雪の中をさまよってきたにしてははっきりした声だった。彼はよろめきつつ歩いて来ると、洞窟の中を一瞥した。イクスはあからさまに迷惑そうな顔をしていたが、リンにはありがたかった。子どもたちには風よけがいるのだ。イクスがやってくれるべき壁の役目が。それに彼にしても人の温もりの近くにいる方が、吹雪の中を歩くよりはずっといいはずだ。




