ふたりで買い物へ(5)
「ラス、急いで帰ろう。結構遅くなっちゃってるよ」
「そう? まだ四時前だよ。そんなに暗くもないし」
それはそうだ。それはそうなのだ。それはそうなのだが、どうしても、さっきの四人組のことや、盗撮騒ぎがあったことを、思い出さずにはいられなかった。またどこかで誰かに目を付けられるかもしれないし、暗くなったらその確率は格段に増えてしまうだろう。
過敏すぎる。心配しすぎだ。何度も自分にそう言い聞かせようとしても、どうしてもうまくいかなかった。焦燥と恐怖が、後ろから、頭をぐいぐい押しているような気がする。身体がこちこちに強ばっている。何がそんなに怖いの? 自分に聞いてみても、ちっともわからない。
これはきっと、さっきの“記者”が言った言葉のせいだ。
“コアなファンがめっちゃ多いとか聞きますよ”
その言葉を思い出すと背筋がぞくっとする。“コアなファン”という存在は、マリアラの理解の範疇を超えている。それってどんな存在なの? 盗撮したらスクープになるとあの“記者”は考えた、それは“コアなファン”が喜ぶから? それってどこにいるの? 普通に道を歩いてるの?
この近くにもいるの?
マリアラは努めて平静な声を出した。
「……だって、たくさん本を買ったでしょう。本棚にずらーって並べるチャンスだよ? 本をどっさり買ったときの醍醐味のひとつじゃない? それに、さっきの本屋さんから、工房に連絡が届いているかも知れないよ」
「あ、そうだね! それは確かにそうだ。じゃあそろそろ、帰ろうか」
良かった。帰る気になってくれたようだ。
自分でも驚くほどホッとした。
しかし、安心するのにはまだまだ早すぎた。動道へ向けて歩き出してすぐ、前方から大柄な人が歩いてきて、つい身構える。何事もなく通り過ぎ、ホッとする。背後から足早に歩いてくる足音が聞こえて身構える。何事もなく通り過ぎていき、またホッとする。動道までのほんの僅かな道のりが、永劫にも感じるように思える。そして、動道に乗ることを考えるとまた緊張せずにはいられない。動道には逃げ場がないし、走ったりしたら危ないし、ミフに乗って逃げ出すという最終手段も使えない。
と、また後ろから足音が近づいてきた。マリアラは反射的に身を縮め――
「やっぱそーだ」
そう言った声が聞き慣れた低い声だったので、ふたりはぱっと振り返った。
「あれっ」
ラセミスタが明るい声を上げた。
「フェルド、どうしたの?」
「そりゃこっちの台詞だよ。何してんの?」
近づいてきたのは普段着のフェルドだった。どこかに買い物に行った帰りだったのだろうか、ダウンジャケットと黒いジーンズという格好に、小ぶりのリュックサックを背負っている。
マリアラは、ホッとした。
今までずっと頭の後ろをぐいぐい押していた何かが、すっと取りのかれたような気がした。
そしていぶかしんだ。なんでだろう。
「今ねー、本屋さんに行って、それから、コオミ屋に行ってきたところなんだ!」
ラセミスタは誇らしげにそう言い、フェルドは、へええ、と言った。
「そうなんだ」
「そうなんだよ!」
「すげーな」
「すげーだろ! アフタヌーンティーセットを堪能してきたんだ! もう夢にまで見たコオミ屋の生ケーキ……シフォンとー、ショートケーキとー、カシスのムースだった……はあぁ……」
「もう帰るところ?」
フェルドはマリアラにそう訊ね、マリアラは、うん、と頷いた。
「そう。フェルドは買い物?」
「まーね。俺ももう帰るところ」
ますますホッとした。この流れなら、きっと【魔女ビル】まで一緒に帰ることになる。フェルドが一緒にいてくれれば、“コアなファン”の襲来に怯えずに済む。
早くも、空は次第に暗くなり始めていた。重く垂れ込めた雲の向こうでは、太陽が赤みを帯び始めている頃合いだろう。ラセミスタはふわふわした足取りで先に立って歩き出した。フェルドとマリアラはその後に続く。
「あいつのお守り、大変だっただろ」
フェルドに言われ、「お守りって」マリアラは思わず笑った。
「別に、大変じゃなかったよ」
それは嘘じゃなかった。マリアラが勝手に怯えていただけで、ラセミスタと街を歩くこと自体はちっとも重荷じゃなかった。
さっきの焦燥と恐怖が遠のき、なんだか、気恥ずかしさを覚えていた。何をあんなに怯えていたのだろう。ただ街を歩いていただけなのに。
“コアなファン”なんて、実際には、影も形も現れなかったのに。
「本屋さんで、ラスが買った本の量、ほんとすごかった。大規模インフラ構築のね、構想を考えてるんだって」
「そうなんだ!」ラセミスタはくるりと振り返った。「すっごくいいプランになりそうだよ! もうほんとマリアラ、どうもありがとう。今日はすっごく楽しかった!」
「いえいえ、どういたしまして」
「前向けラス」とフェルドが言った。「人にぶつかるだろ」
「おっと」
ラセミスタはまたくるりと前を向く。その細い手首に、書店の紙袋がぶら下がっている。
「わたし、本屋さんで紙袋もらったの見たの初めて」
「そっか。……あいつあんな服も持ってたんだ?」
「ううん、あれも買ったの。【魔女ビル】の中の服屋さんで」
ラセミスタはまたくるりと振り返った。
「イーレンもね、会議の前とかプレゼンの時とか、服屋さんで全身コーディネートしてもらってるんだって。初めて聞いたよ、もーイーレンったら教えてくれたらいいのに。フェルド知ってた?」
「いや、知らなかった。前向けって、転ぶぞ」
ラセミスタは素直にまた前を向いた。
「人生初のコオミ屋も行けたし、あーほんと、今日はいい日だったなあー」
「マリアラは?」
低い声がそう言った。
あんまり低くて、先を歩くラセミスタには聞こえなかったようだった。マリアラは思わずフェルドを見返した。思いがけずまともに目が合って、どきんとする。
「……え?」
「マリアラは、楽しかった? 今日」
「わ……わたし?」
フェルドが何を思って、そんなことを言ったのか、分からなかった。
黒々とした瞳がマリアラを見ている。どきん、心臓がまた飛び跳ねた。楽しかったのか――その問いの真剣さに気圧されるように、考えた。
わたしは、楽しかった?
ややしてマリアラは、微笑んだ。
「……うん。すごく楽しかったよ」
「なんか買えた? あいつのじゃなくて、自分のもの」
「う、ん」
どぎまぎして、あたふたして、思い出した。今日見つけた、とても印象的な絵本のこと。そしてそれに触発されて選んだ、デクター=カーン関連の書籍数冊。ラセミスタの買った冊数には全く及ばないけれど、それでも面白そうで、すぐにも読みたいと思えるような本が、五冊。
「うん。すごくいいもの見つけた。大収穫」
「そう?」
「うん。あの、フェルド、デクター=カーンに恋したお姫様の話って、聞いたことある? ビアンカ=クロウディアって、いう名前みたいなんだけど」
「ビアンカ?」フェルドは首をひねる。「そんな名前あったかな……ちょっと思い出せないけど」
「そっか」
動道に着いて、ラセミスタに手を貸して、一番緩やかな速度のレーンに上がる。動道の乗り方は、子供の頃から幾度となく訓練していればすぐに覚えられるが、外国から来た人は初めは怖いものらしいし、ラセミスタも同様だった。低速のレーンから速いレーンに移動していくのには少しコツがいる。ラセミスタの手を引いたまま二速のレーンに移り、そのまま三速のレーンに移った。【学校ビル】と【魔女ビル】は比較的近いから、最高速レーンに乗ると速すぎて行きすぎる恐れがある。三人は三速レーンの座席を探して移動し、程なく、空いていた座席に座った。ここから【魔女ビル】までは、三速レーンで10分ほどだろうか。
「多分そのお姫様は世界一周には着いてってないんだ」と弁解するようにフェルドは言った。「着いてってたらさすがに覚えてるはずだから」
「うん、多分そうだと思う。そのお姫様はね、こぢんまりした素敵なお屋敷で、デクター=カーンが世界を旅して戻ってくるのを、いつまでもずっと待っていたんだって。……おとぎ話だからもちろん本当じゃないのかも知れないけど、でも、作者がドロテオ=ディスタって書いてあったから。どこかに、モデルになったお姫様がいたんじゃないかなって思って……それで、デクター=カーンに関する専門書を何冊か買ったんだ。休憩時間に読もうと思って」
「デクター=カーンって専門書あるの? 架空の人物じゃなかったの?」
ラセミスタがそう訊ね、フェルドが目を剥いた。
「架空なわけないだろ!? 地図が残ってんのに!」
「え、そうなの?」
「お前ほんっと魔法道具以外の知識はゼロだよな」
「なんだよーフェルドだってデクター=カーン以外の歴史の知識はゼロのくせにー」
「お前ほどじゃねーよ」
「あの、デクター=カーンというのは、何て言うのかな、屋号みたいなものだったんじゃないかっていうのが今は通説になってるよ。まず一番初めの、天才的な地図の描き手であるデクター=カーンという人間がいて、その技術を受け継いだ弟子に当たる人物が、同じ名を名乗るのを許されたんじゃないかって」
ドロテオ=ディスタやその他の作家たちは、デクター=カーンが不老不死であるという体裁にして物語を紡いだのだろう。その方が面白いし、ロマンがあるからだ。マリアラはそう思ったが、フェルドは口をすこしへの字に曲げた。異論があるらしい。
「でもさ、デクター=カーンが不老不死だっていう伝説なんかあちこちに残ってるじゃんか。一概に全部が全部おとぎ話とは言い切れないんじゃないかと」
「人間が不老不死になる方法なんて、それこそ、古今東西色んな権力者が探し求めてるはずなのに、誰も見つけられてないんだよ」
「いやでもさ、人間だったとは限らないじゃんか。例えば人魚はさ、人間よりずっと寿命が長い、実在する種族だろ。デクター=カーンがもし人魚だったとしたらさ――」
「でもそうなるとね」マリアラはできるだけ真面目な顔をして言った。「デクター=カーンは実は女性だったってことになるよ。人魚は女性しかいないんだもの」
「待ってやっぱ今のなし。うぁーそうなるか……」
フェルドは天を仰いだ。よっぽどデクター=カーンに思い入れがあるらしかった。こうなると、デクター=カーンにハマるきっかけになったものが何だったのか聞いてみたい。
と、とすん、と肩に柔らかな重いものがもたれかかってきた。
見るとラセミスタが、マリアラの肩にもたれて眠っていた。長いふわふわの茶色の髪が、かすかな寝息に揺れている。




