エピローグ(2)
『入っていいんですか』
明るい声。幼い少女の声。
イーレンタールの後ろから、ひょこっと小さな女の子が姿を見せた。マリアラとシャルロッテがひゅっと息を呑む音が聞こえた。女の子の後ろからダニエルが覗いたのも見えたが、ミランダは、その幼い女の子に視線を奪われた。真っすぐな黒い髪をおかっぱにしていて、あごの辺りで毛先が揺れる。目も黒く、くりくりしてすごく可愛い。年齢は四、五歳というところ。背が低く、頭がミランダの腰の辺りくらいまでしか届かない。この子のために特別に作られた、漆黒の魔女の制服を身につけている。
こんな可愛らしい子が、ミランダに似せて作られただなんて、信じられない。
そして、何より、この子が魔法道具人形だなんて絶対に信じられない。その所作も表情も、動きのひとつひとつに至るまで、自然で滑らかでスムーズだ。本当に、とても可愛らしいだけの、ごく普通の幼女にしか見えなかった。
彼女はダニエルの手を放した。
『離れても動けますか』
「もちろん」
イーレンタールが軽く言い、少女はおずおずと談話室の中へ足を踏み入れ、部屋中を見回して、ミランダに目を留めた。その目に歓喜が宿ったのをミランダは見た。あまりに明けっ広げな、なつっこい瞳だった。
――この感情が、作り物なの?
『あの人ですね!』
「当たり」
イーレンタールがにやりとし、彼女の背を押した。
「さ、行け」
『はい!』
彼女は走ってきた。こっちに、真っすぐに、まっしぐらに。その勢いに、イーレンタールが少し慌てた声を上げた。
「飛びつくなよ! お前は特別仕様なんだから!」
『わかってます!』
少女は言葉どおり、ミランダの直前で急停止した。
『はじめまして!』
ミランダを見上げるその瞳には、会えて嬉しいという彼女の心情があふれ出るようだった。先日会った、ケティ=アーネストを思い出した。あの子より少し幼いが、ひたむきで、一生懸命な瞳をしている。なんて――なんて可愛いのだろう。この子に命が宿っていないなんて、本当に信じられない。
硬直したままのミランダを見上げる目に、不安そうな色が宿る。
『あの……?』
「あ……はい。ごめん。こんにちは……」ミランダは彼女の前に膝をついた。視線を合わせて、囁く。「……初めまして。ミランダ=レイエル・マヌエルよ」
彼女はホッとしたように微笑んだ。
『あたし、ヴィレスタ、です』
「ヴィレスタ?」
『はい。いい、名前でしょう?』
ミランダは微笑んだ。
「うん。……うん、すっごく、すっごくいい名前ね」
『そうでしょう? ミランダも、素敵な名前ですね』
「ふふ、どうもありがとう」
『ヴィヴィって呼んでください。あの、あの、あたし、あなたの相棒としての、お仕事を、させてもらえるって聞いたんです。本当に、いいんですか……?』
その声を聞いてミランダは、不安に思っていたのは自分だけではなかったことに気づいた。
何やってるの、と、自分を叱咤した。こんな小さな生まれたての子に、こんなに不安そうな顔をさせるなんて。
「もちろんよ」
ミランダはそう言って、覚悟を決めた。
――この子が作り物だろうとなんだろうと、この子を守るのは、私の責任だ。
この子がこの顔と外見を持ってこの世に生まれ出たのは、ミランダのためだ。ほかの、もっと大人で、もっとちゃんとして、もっと素敵で、誰かに寄生などせずに自分で立てる少女が相棒になっていたなら、ヴィレスタは違った存在として生まれ出ていたはずだから。
だったら。
ヴィレスタに、この世に生まれ出てよかったと、思ってもらえるように。
ミランダの相棒として生まれたことを、後悔させたりしないで済むように。
「あなたに会えて、本当に嬉しい」
そう言った瞬間、ヴィレスタは、花がほころぶような笑顔を見せた。
『はい! あたしもあなたに会えて嬉しいです!』
「そんじゃ機能の説明を――」
イーレンタールが言いかけたが、それより先に歩み寄って来たダニエルがヴィレスタの肩に手を置いた。
「せっかく美味そうなものいっぱい用意してもらってるんだ。せっかくだから座ろう」
「そーそー」とフェルドが言った。「もーピザ冷めそうで気が気じゃなくて」
「ヴィレスタ、ミランダも。座って座って」
みんなが動き出した。ヴィレスタはもちろん一番の特等席だ。ミランダはその隣で、ヴィレスタの隣にダニエル。ラセミスタは一番端っこで、その隣にさりげなくマリアラが座った。シャルロッテはジェイディスの隣。次々にピザが回され、美味しそうな食べ物がどんどんとりわけられる。その間にミランダは、同席してくれた人たちの名前をひとりずつ紹介した。
それがひと段落したとき、ヴィレスタの前にお菓子の山を築きながらダニエルが言った。
「で、イーレン、この子は普通に食事を取っていいわけだよな?」
「そう!」
機能の説明をしたくてたまらなかったらしいイーレンタールは、ここぞとばかりに色めき立った。
「そうそうそう、そーなんだよ! 動力の大半はミランダからもらうが、その他に、一日に百グラムの魔力の結晶を食べる必要がある。でもな、普通の食べ物でも代用できるんだ。画期的な技術なんだぜ、これは。その場合は量が結構必要になるが、まあ、普通の五歳児が食べる量くらいで収まるはずだ」
『甘いものが大好きです』
ヴィレスタが可愛らしい声で言い、ミランダは思わず顔をほころばせた。「そうなの?」
『はい! これ、美味しいです!』
そう言ってヴィレスタはマドレーヌを頬張った。イーレンタールは滔々と続ける。
「それだけじゃない、この子にはな、俺の持てる技術の全てを詰め込んだ。特別仕様だ。水の中でも動けるように特別のコーティングを施してあるし、」
『特別仕様なんです』
ヴィレスタが誇らしげに頷いた。その自慢げな様子に思わず笑みがこぼれる。
「それから力持ちだ。この体格だが、ミランダひとりくらいなら担いで走れる」
『気は優しくて力持ちです』
「見た目の割に重いけどな」
『七十五キロあります』
「メイに二人乗りするのには支障ないから」
『自力では飛べませんけど』
「箒みたいに大きさを変えたりはできないけど、その分よく動けるようにしてある。ミランダから数キロ離れた場所でも普通の人間以上に動き回れる」
その声は誇らしさに溢れていた。自慢の娘。確かにそうなのだろう。
「箒はなしで大丈夫かい?」とジェイディスが言った。「右巻きなら自分の箒がある方が真っ当だとあたしは思うけど」
「それについては今検討中ですよ。今後のこと考えるとあまり基礎魔力コストがかさむのは避けたいんです。ミランダの魔力量なら、ヴィヴィとメイと、あとヴィヴィ用の箒の魔力を供給しても大丈夫だろうけど、ほかの魔女が全員それやった上に普通に働けるかっつーと」
「ああ、魔力量が多くないと相棒得られないってことになりかねないわけだ」
シャルロッテがしげしげとヴィレスタを見ている。それから、意を決したように、マリアラを見た。正確には、マリアラの隣で未だに俯いている、ラセミスタの前髪の辺りを。
「この子本当に魔法道具なの? すごいね。こんなに自然で、それどころかすっごく可愛くって、お利口さんで」
「うん、ほんと」マリアラが頷き、
「そーだろー!!!」とイーレンタールが叫んだ。
「実作段階になると俺はもう感情回路の調整だの学習機能のセットアップだので手一杯でさ、細かな動作の調整とか目の動きとか表情とか声の抑揚とか、そう言うのは全部ラスがやったんだ」
「そうなんですね!? すすっ、すごいっ、ほんとめっちゃ可愛いもの!!!」
シャルロッテの声が上ずっている。ラセミスタの心をほぐそうと果敢にチャレンジしてみたのだろう。ミランダは固唾を飲んだ。ラセミスタは真っ赤に染まった顔をかすかに上げた。
と、マリアラが言った。
「ラス、大変だったでしょう? ずうっと工房に籠もってたもんね」
「たっ、たっ、……大変ジャナイヨ」蚊の鳴くような声が聞こえた。「だって……だって……〈アスタ〉の蓄積があった、から。たたただそそそれを定義づけして、して、」
「でも表情とか声の抑揚とかって、すごく重要ですよね? そこがヘンだったらこんなに可愛くならないと思うもの」
「でででもあたしは、そこまで――そ――そ……」
「……」
マリアラがラセミスタの耳元で、何か囁いた。
ラセミスタは目を見開いた。目から鱗が落ちたような顔。
「えっと、が、が、が、……がんばりました!」
「お疲れさまでしたー!」
シャルロッテがぱちぱちと手を叩いた。ミランダもホッとした。なんとか丸く収まった。
場に和やかな雰囲気が戻った。ヴィレスタは今のやり取りの間にも、ダニエルの築いたお菓子の山を着々と攻略し続けていた。と、ヴィレスタの前にいつの間にかティッシュが敷かれているのに気づいた。ティッシュの上には既にお菓子のかすがぱらぱらと散らばっている。どうやらダニエルが敷いてやったらしい。ララがケーキにろうそくを立てていた。とても嬉しそうに。その隣のフェルドがララが立てたろうそくに火を点ける。
唐突に。
本当に唐突に、ミランダは、今日の誕生会の主旨を悟った。
ただ仲の良い人たちが呼ばれ、楽しい時間を過ごすだけではないのだ。これからミランダとヴィレスタが関わっていく様々な場面を構成する人たちの代表がここにいる。治療院からはディアナが。医局からはジェイディスが。製薬の若い子たちからはシャルロッテが、雪かきや治安維持に携わる右巻きからはララとフェルドが。何かあったら頼れる人たちを、ミランダとヴィレスタに、紹介してくれる場だったのだ。
これは“寄生”なのだろうか。性懲りもなく、そんな気弱な言葉が浮かんでくる。いい加減に一人で立たなければならないのに。まだ生まれたばかりのヴィレスタを背負えるように、強くなっていかなければならないのに。
――ううん。違う。
その考えは、ごく自然に湧き上がってきた。胸の奥底にぽつんと灯った、温かくて、まだ小さな。でも揺らがない確かな光。
――頼ると言うことは、寄生することとは、違う。
だって、ヴィレスタを守っていかなければならないからだ。魔法道具であることで、これからきっと、様々な困難に立ち向かわなければならないヴィレスタの、何よりも頼れる相棒にならなければならないからだ。魔力が弱いと言うだけの理由でマリアラを攻撃したジェシカを思い出せば、魔法道具であるヴィレスタを彼女が一体どう思うかなんて考えるまでもないほど明らかなことだ。そしてこの【魔女ビル】の中にさえ、ジェシカのような考えを持つ人は決して少数派ではないはずだ。
そういう人の考えを、変えることはできないけれど。その現実を、変えてしまえるほどの力はミランダにはないけれど。
でも、覚悟を決めなければならない。そんな理不尽な考え方をする人間だけではないのだという真実を、ヴィレスタに示し続けなければならない。
そのために、頼れる人たちの力を借りることは、絶対に躊躇ってはいけないことだ。
「ほらほらヴィヴィ、こっちにおいで。今から歌を歌うからね。それで、歌い終わったら、このろうそくを一気に全部、ふうって息をかけて消すんだよ。出来る?」
「ほらほらミランダも、こっちにおいでよ。ほらほら、ここここ」
シャルロッテとマリアラに誘導されて、ヴィレスタとミランダはケーキに歩み寄った。ヴィレスタがケーキの正面に立つと、マリアラとシャルロッテが声を合わせて歌い出す。子供の頃からお誕生会のたびに何度も聞いた、あどけない、懐かしい歌だ。ダニエルが加わり、ディアナとジェイディスとフェルドとイーレンタールが加わり、ラセミスタも唇を動かしているのが見える。あなたが生まれたこの日、と、ミランダも唱和した。かけがえのないあなたがこの世に生まれた記念すべきこの日に、祈っています、楽しいことや幸せなこと、これからたくさん起こりますようにと。こういう歌詞だったのか。今までもよく知っていたはずなのに、なんだか初めて聞いたような気がする。
ヴィレスタがろうそくを吹き消し、みんなが拍手をした。イーレンタールは「見ろ呼吸機能も全部完璧だろ!」と胸を張る。マリアラがフェルドとラセミスタを誘って部屋の隅に隠してあった何かを取りに行く。現れたのはプレゼントの山だ。両手に抱えたそれを運んでくる彼らの嬉しそうな表情を見て、ミランダはなんだか泣きたくなった。至れり尽くせりだ。――どんなに卑屈で後ろ向きだったときの自分でさえ、みんながヴィレスタを歓迎してくれていることを疑う余地もなかっただろうほどに、完璧だ。
「……生まれてきてくれて、ありがとう」
口の中だけで、囁いた。しかしヴィレスタの鋭敏な耳はちゃんとその呟きを捉えた。さらさらのおかっぱが振り返り、黒い瞳がミランダを見た。
――かけがえのないあなたがこの世に生まれた記念すべきこの日に。
『それはこちらの言葉です』
ヴィレスタは囁きを返し、微笑んだ。なぜか少し、ぎこちない笑顔だった。
2017年12月27日 誤字修正




