雪祭り(9)
フェルドが先に行った。マリアラも後に続いた。そこは、ビルとビルの隙間にある、ごく細い通路だった。と、小さな人影が見えた。マリアラは目を疑った。子供だ。
ごく幼い――本当にごく幼い、二歳か三歳くらいの幼女だった。この寒さだというのにひらひらのワンピースを一枚着ただけ、おまけに裸足である。細い路地をまっすぐに、ぺたぺたと走っていく。おかっぱに切られたさらさらの黒髪が肩の辺りで揺れている。あの年頃の子供にしては、危なげない足取りだった。
フェルドが声を上げた。
「ちょっと、そこの子! 今危ないから――」
幼女は応えずに路地を通りきり、出た先を左に回った。横顔がちらりと見えた。とても可愛らしい子供だった。
フェルドが先に角を回り、ギョッとしたように急停止した。マリアラも続いて道路に出て、やはり驚いた。
誰もいない。
「あれ――、今、女の子、いたよな?」
「うん、いた。小さな女の子、ワンピースと裸足で、黒髪のおかっぱで」
ふたりできょろきょろと辺りを見回す。やっぱりいない。どこにも。
とても不思議だった。女の子が角を曲がってフェルドが続くまで、ほんの一秒か二秒だ。そんな短い時間で、一体どこへいけるというのだろう?
フィの柄にぶら下げられた無線機に、フェルドが手を伸ばす。マリアラはもう一度今来た路地を振り返り、もう一度女の子が消えた場所を振り返って――
驚愕した。
そこに、女の子がいたのだ。今消えたばかりの、とても可愛らしい幼女だ。
いや、女の子だけではなかった。保護局員の制服を着た若い男性と、恐らくは研究者なのだろう、防寒具に厚く身を固めた初老の男がいた。その二人は長々と地面に倒れていた。マリアラはそこへ駆けつけようとしたが、寸前でフェルドが止めた。ミフの柄をフェルドの右手が掴んでいる。
「凍死させるのは本意じゃないの」
幼女の声は大人びていた。優しい、まろやかな響きを持つ声だった。
「この人たち、連れて帰ってあげて。あんまり騒ぐから、つい――。でも、大丈夫。ただ眠っているだけよ」
フェルドはゆっくりと、ミフの柄を握ったまま、地面に下りた。
「あなたは、」
「私のことは詮索しないで」
「ここは今、危険なんです」
フェルドは自然に、敬語を選んでいた。その気持ちはマリアラにもよくわかった。目の前、今ほんの数メートル先にいる幼女は、見た目どおりの2歳くらいの女の子ではない。それをひしひしと感じていた。
幼女は微笑んだ。人の心を蕩かすような、とても魅惑的な微笑みだった。
「そうね、わかっているわ。でも私のことは心配要らない」
「歪みが、」
「残念だけど」薔薇のつぼみのような唇だった。「あなたがたのせいで、ここに集まりつつあった歪みは既に拡散されて、無害な濃度にまで落ちてしまっている」
そういって幼女は屈み込み、研究者の握りしめている四角い装置を持ち上げた。それを見て、唇を緩めた。
「人間は勤勉ね。こんな装置で数値を計れるなんて。大勢で、組織的に、対処しようと協力し合うなんて、私たちにはない文化だわ。そのお陰で【穴】が霧散してしまった。本当に残念」
マリアラは混乱する。それでは、まるで、【夜】に向けた危険な穴が空いてしまった方が良かったとでも、言うかのようではないか。
この人は、“この世の終わり”が来た方が良いとでも、思っているのだろうか。
しかしどうしても、目の前にいるこの幼女が、そんな破滅思考を持つ危険な存在だとは思えなかった。どうしてだろう? 初めて会ったはずなのに、とても親しみを感じる。厳かで、それでいて優しくて、信頼に足る存在だと、まるで生まれる前から知っていたような気さえする。
すると彼女は、マリアラの疑問を見透かしたかのように微笑んだ。
「あのね、【夜】への歪みは、いっそのこと濃度を上げて、一度【穴】として昇華させてしまった方が良いのよ。今日あなたたちが少々散らしたって、何の意味もない。数カ月以内にまた濃度が上がる。そしてまた今日みたいに大騒ぎしてその地区から人を追い出して対処して、たった数カ月ぽっちの時間を稼ぐ。こういうの、いたちごっこって、言うんでしょ? いたずらにいたちごっこに興じる間に、【穴】を開けてしまえばいいのに。どの辺りに空くのかわかってさえいれば、対処はそんなに難しくないわ。水で塞いでしまえばいいんだもの。そうすれば数年単位の時間を稼げるのに」
あなたは一体誰なの。一体何を言ってるの。
マリアラはそう聞きたかった。フェルドも同じはずだ。しかしその質問を口に出すことが、どうしても出来なかった。“私のことは詮索しないで”と言われたあの言葉が、どうしてだろう、ひどく重い。その言葉に反して“詮索”しようと思うだけで、物理的な重さを持ってのし掛かってくるような気がする。
「……私のことは」重みを持った言葉が、もうひとつ、彼女の口から放たれた。「誰にも話さないで」
その音が耳に届いた瞬間、ずしりと何かが覆い被さったような錯覚を感じた。
「濃度は下がり始めているはず。あなたたちは自分の仕事をすればいいわ。この人たちのように記憶を奪うこともできた。でも他ならぬあなたに対してそれをする気は私にはない」
幼女はフェルドをじっと見ていた。吸い込まれそうな、黒々とした瞳。
「申し訳ないと思うておる」
口調ががらりと変わった。どこかで聞いたような言い回しだった。
どこで聞いたのだっけ――考える内にも、風変わりな幼女の口調は続く。
「【夜】への歪みは儂を狙うておる。こたびの騒動は儂がために引き起こされたと言える。しかし責務が果たされるまで、儂は陸を棄てるわけにはいかぬゆえ――」
【魔女ビル】の一階にある礼拝堂で出会った、あの魔物の口調だ。
マリアラがそう悟ったときだ。
彼女がこちらに向けて歩き出した。裸足がぺたぺたと音を立てるその音も聞こえた。フェルドの隣を通って、ふたりの背後へ回った。
時が止まっているような気がした。さっきからずいぶん時間が経っているはずだ。この間一度も連絡を入れていないのに、ガストンからもギュンターからも、ダニエルとララからも、他のラクエルたちからも、一度も連絡が入らなかった。周囲は静まり返り、ごく低い吹雪の音が遙か遠くで聞こえている。
幼女は振り返らなかった。さらさらの黒髪を揺らして、小さな囁きが聞こえた。
「息災でな」
「――、あれ?」
思わず声を上げる。瞬きをしたかどうかも定かではない一瞬のうちに、幼女の姿は消えていた。マリアラは目をこすった。一瞬前までそこにいたのに、今はもういない。
まるでかき消えたかのように、幼女は忽然と姿を消した。
「どこ――」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルと、マリアラ=ラクエル・マヌエル?」
出し抜けに。
本当に思いがけなく声をかけられて、マリアラは思わず飛び上がった。
振り返ると、先ほどまで長々と伸びていたはずの保護局員と研究員のふたりが、訝しそうにこちらを見ていた。ふたりは当然のように起き上がっていて、元気そうな様子だった。愕然としているマリアラとフェルドに、保護局員がつかつかと歩み寄ってくる。
「どうしました、まるで幽霊でも見たかのような顔をして」
年かさの保護局員は、丁寧な口調でそう言った。
「お待ちしていました。緊急対策本部に連絡を入れますね」
「あ――あ、はあ……」
「おっと、いいニュースだ!」
研究員が小さな装置を覗き込んで明るい声を上げる。無線機を操作し始めていた保護局員が、「どうしました」と声をかけた。
「数値が下がってるんです? 水晶玉使ってもないのに」
「見てみろ、ほら、顕著に下がってる。やはりマヌエルがその場に存在するだけで空間の歪みは散らされるんだ! わはははは、私の推測はやはり正しかった――!」
研究員は朗らかに叫んで装置を小脇に抱え、書類ばさみに屈み込んで猛然と何か記入し始めた。保護局員が研究員の脇の下からその装置を取り、覗き込んでこれまた明るい声を上げる。
「こりゃすごい! いやー、良かった良かった! 20%切ってるじゃないか、やはり対処が早ければ散らすのも簡単なんだな! ちょっと待って、今連絡しちゃうから」
「君たち今来たばかりだよな? 時間にして数分足らずでこの効果、んー、無意識なのかなあ、それとも……君たちここに来るまでに誰にも会わなかったよね。魔力使ったり水晶玉使ったり、してないよね?」
研究者に訊ねられ、マリアラは、
「、」
何も言えなかった。会った。得体の知れない幼女に会った。あなたたちは気を失っていて、凍死させるのは本意じゃない、と彼女は言った。わけのわからないことを話して、幼女は最後に、息災で、と言い残して消えた。
本来ならそれを報告すべきだ。【夜】へ向けた歪みは中途半端に払うよりもいっそ一度開けてしまった方がいい――【夜】へ向けた歪みは儂を狙うておる――彼女はとても不可思議で、同時にとても重要なことを言っていた。それを報告して、きちんと分析してもらって、対策を練ってもらわなければならない。それは重々わかっているのに。
どうしても、彼女について、言葉を発することができなかった。
マリアラとフェルドの沈黙には全く気を止める様子もなく、研究者と保護局員は嬉しそうに言葉を交わし合いながらどんどん事態を進めていった。さっきまで長々と地面に伸びていたのが嘘のようだった。まるで不思議な幼女に会ったという現実の方が夢だったのではないかと思えてくる。




