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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の現実
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雪祭り(7)

 マリアラははっとした。がくん、と身体が浮いて、慌てて机に縋り付き姿勢を整える。

 その鋭い音はまだ鳴り響いていた。笛ではなく、詰所のスクリーンの呼び出し音が鳴っているのだった。「はい!」ディノが声を上げ、スクリーンがぱっと明るくなった。〈アスタ〉の顔が浮かび上がる。


「こちら第三詰所の休憩ブース。〈アスタ〉、何が――」


 ディノが立ち上がり足早に歩いて行く。さっきまで朗らかに賑やかに話していた右巻きたちも皆静まり返り〈アスタ〉の反応を待っていた。

 今の呼び出し音は通常の音とは違っていた。

 緊急時にのみ、使われる音だった。


『ディノ? そちらは第三詰所?』

「そう。何があった?」

『そちらにラクエルはいる? フェルドと、マリアラと、ジェイドと、ダニエルもいるはず』

「……いるよ?」ディノはこちらを振り返った。「ダニエルはわからないけど、フェルドとマリアラちゃんとジェイドはいる」

「ダニエルも……治療ブースにいるはず、です、が」


 声が上手く出ず、マリアラは咳払いをした。なんだろう、〈アスタ〉の言い方は、普段の柔和な響きとは全く異なっていた。彼女はきびきびと言った。


『お祭りの日に残念だけど、国立次元歪研究所から速報が入ったの。ラクエルの皆さんに出動要請が出されました。この要請は他の全ての業務に優先されます』

「……!」


 眠気が吹っ飛び、マリアラは思わず腰を浮かせた。それは、フェルドとジェイドとも同時だった。他の全ての業務に優先される、ラクエル限定の要請と言えば、思い当たることはひとつしかない。

 仮魔女期に、ラクエルだけの特別カリキュラムとして、何度か訓練を受けていた。それは、最悪の事態を想定した訓練だった。


 【夜】の【毒の世界】に、穴が空きそうになったらどうするか――という事態に対応するためのもの。


 昼の【毒の世界】は、【毒】への耐性さえ持っていれば、それほど怖ろしい場所ではない。ちくちくする草の生えただだっ広い平原と、くすんだ灰色の空がどこまでも広がる場所だ。ごく稀に魔物に遭遇することもあるが、充分な備えさえあれば撃退し、お客さんを守り通し、【魔女ビル】に連れ戻すことは十分可能だ。

 しかし【毒の世界】が怖ろしいのは夜である。エスメラルダの子供たちは、皆学校の授業で、その恐ろしさを教わる。実際の魔物の襲来を録画したものを見せるので、その授業を受けた後の子供たちは何日も悪夢にうなされたりするほどだ。夕焼けなどと言うものはなく、【夜】は一気に襲ってくる。それはどうやら、巨大な【毒】の塊らしい。そして、その【毒】を追いかけるようにして魔物がくる。何千頭、何万頭というおびただしい魔物の群れが、お互いに食い合い襲い合い罵り合いながら草原を蹂躙する。その行進は、外の時間にして一日から、長いときでは一週間も続くという。

 もし【毒の世界】にいるときに【夜】に遭遇してしまったら、人間に出来ることは何もない。ただハウスに籠もって身を縮め、ひたすら、【夜】が過ぎるのを祈りつつ待つしかない。ラクエルの持つハウスはそのために、どんな魔物に踏まれてものしかかられてもつぶされないよう、何トンもの加重に耐えるよう、設計されていると聞く。


 しかし、【毒の世界】にいるときに【夜】に遭遇するのは、まだずっといい。

 一番最悪なのは、正常な世界の内側から【夜】に向かって【穴】が空いてしまうことだ。


『国立次元歪研究所の予報歪図よ』


 スクリーンから〈アスタ〉の顔が消え、代わりにエスメラルダ本土の地図が映った。ひょうたん湖から【学校ビル】にかけた、広い範囲だ。所々にパーセンテージが表示されている。

 普通の【穴】が空く兆候はごく微量なので、まだまだ予報することはできない。しかし【夜】に通じる歪みは、不幸中の幸いと言うべきか、それがもたらす破滅の規模に見合った強い波長を出していると言われる。


『エノス地区のパーセンテージが50を超えたの。今ならまだ散らせる』

「エノス地区――繁華街じゃないか」


 ジェイドの声を、〈アスタ〉が遮った。


『すぐに出動してください。訓練どおりにやれば大丈夫、まだ散らせる数値だから。分かっていると思うけど、行動は二人ひと組が基本よ。ジェイドはダスティンと一緒に。何かあったらすぐ通報するのよ』

「行こう」


 フェルドの落ち着いた声がありがたかった。マリアラは頷き、急いで机を回る途中で、治療ブースからリンとケティが顔を覗かせているのに気づいた。「ちょっと出て来るね」努めて穏やかに、マリアラは言った。表情を取り繕えているかどうかは自信がなかったが、出てきた声は我ながら平静だった。


「だ――大丈夫、マリアラ」


 リンが訊ね、マリアラは笑った。引きつった笑顔になっていませんように、と、祈りながら。


「大丈夫だよ、ちゃんと訓練受けてるから。ミランダに、後はお願いって、伝えてくれる?」

「う、うん。マリアラ、気を付けて……!」


 手を振って、引き戸に向かう。イリエルの右巻きたちの前を頭を下げて通り過ぎようとしたとき、ディノが無言で手のひらをこちらに向けた。反射的に出した手に、ディノの手のひらがぱちんと触れた。その隣の人も、その次の人も、無言で手のひらを合わせてくれた。ぱちん、ぱちん、紛う事なき激励の音に、動揺がぬぐい去られていくような気がする。


 そうだ、大丈夫だ。

 〈アスタ〉だって、まだ散らせるって、言っているのだから。


 引き戸の前で防寒具を身につけ、フェルドが引き戸を開ける。そこには既に三人の箒が待ち構えていた。ミフは無言で小さく縮んでマリアラの首元に飛び込んだ。

 こういう場合も、左巻きは右巻きの後ろに乗せてもらうものだ。ダニエルもそうするはずだ。今頃はたぶん治療ブースの外に出ているが、ララが迎えに来るのを待ってから来ることになるだろう。


 外は平常だった。混乱を避けるためか、それとも“今ならまだ散らせる”からなのか、中止になっておらず、音楽も聞こえているし、賑やかで楽しげな雰囲気が続いている。歓声、叫声、そして、笑い声。『寮母さん、俺滑り台に戻っちゃダメ?』不安そうに訊ねていた、あの男の子を思い出す。


 過酷な冬のさなかに、たった一日しかないお祭りの日。

 その楽しい日を、楽しいままで、いさせてあげたい。


 【夜】に向かって【穴】が開く、というのは、非常に危険なことだ。魔物がその小さなほころび目がけて殺到し、触手や鉤爪を差し込んで広げ、そこから侵入する。一体ならともかく、何体かだけでも入り込んでしまったら、冗談でなく『この世の終わり』だと習った。ラクエル以外のマヌエルはそこから吹き出す毒の香りに倒れてしまうし、ラクエルだけでは次から次へと入り込む魔物を倒しながら【穴】を閉じることなんかできない。

 だからどうしても、歪みが凝り固まって【穴】が空いてしまう前に、散らしてしまわなければならない。


 フェルドもジェイドも訓練どおり、無線機を箒の柄に吊していた。そこから、〈アスタ〉の指示が流れ出る。


『エノス地区の第二出張所付近に緊急対策本部が設置されたところよ。まずそこへ行って、指示を受けて』

「りょーかい」

「うっわ、すっごい吹雪」


 ジェイドがそう言った瞬間、彼の箒の柄の先から保護膜が飛び出した。マリアラは正面を見た。右巻きたちが交替で吹雪を押さえているのは雪祭りの会場だけで、その外は、いつもどおりの吹雪だった。「出すよ」フェルドが言い、フィの柄の先から保護膜が飛び出した。冷たい空気が遮断された瞬間に、吹雪の中に飛び込む。

 真っ白で、何も見えない。ごうごうと叩きつけてくる雪片は重く、四方八方から襲いかかって保護膜を小刻みに振るわせる。音はすごいが、中は温かく平穏だった。もしこの保護膜でエスメラルダ全体を取り囲むことができたら、と、マリアラは夢想した。右巻きたちが交替で吹雪を押さえなくてもお祭りができ、雪に埋もれずに暮らしていけるようになるのだろうか。


 エスメラルダは、住むには過酷な国だ。普段はあまり意識していないけれど、今つくづくとそう思う。冬は過酷で、しかも毎年少しずつ酷くなっているという研究データが出ている。また歪みの害もある。大気中に含まれる歪みはアナカルシスに比べて顕著に多く、毎日のように【穴】の大きさにまで育っては、住民を別の場所にすっ飛ばしてしまう。マヌエルたちがシフトを組んで、〈アスタ〉や保護局員とともにどんなに対策を練っても、年間の死者数をゼロにすることはできないでいる。それに加えて、【夜】に向かって空く【穴】まで開きかねない。それが、現実だ。


 でもマリアラは、エスメラルダが好きだと、今改めて思った。これからもここに住んでいきたい、と。

 どんなに冬が過酷でも、歪みの害が深刻でも、外国に移住したいとは思わないのはなぜだろう。


 千年以上も長い歴史のある、豊かで平和な国だ。先人たちが雪害や歪みの害に備えて数々の対策をとってきた、その偉業に敬意を払いたい、そんな気持ちが、大きな理由のひとつであることは疑いない。そして自分も先人たちと同じように、雪の害と歪みの害からこの国を守りたい。そう思うとなんだか、胸の奥がじんじんする。

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