雪祭り(4)
「マリアラ、サインお願いしますっ!」
リンに声をかけられ、マリアラは我に返った。見るとリンが書類ばさみとペンをこちらに差し出していた。書類ばさみには数枚のレポート用紙が挟まれていて、『社会学Ⅱ(マヌエル学実習)職場実習受講報告書』というタイトルのすぐ下に、『受講証明者署名』とあり、署名欄が設けられている。『(可能ならばマヌエルの署名をいただくこと)』と添え書き付きだ。
「わあ、なんだか責任重大だな」
「大丈夫大丈夫! 気軽に気軽に!」
リンに励まされ、マリアラはペンを走らせた。ただサインするだけなのに、なんだかとても社会的に重要な仕事をしたような気になる。サインを終えて見ると、リンがこれからレポートに書かなければならない項目はかなり多岐に亘っている。確かにこれだけのことを四時間で調べて書かなければならないのなら、早い内に始めた方が良いだろう。
書類ばさみを返すと、リンは明るい声で言った。
「ありがとー! あたしのことは気にしないでね。できるだけ邪魔にならないようにするし、質問も、できるだけしないようにって言われてるの。でもね、後日、指導官から簡単なヒヤリングを頼まれるかも。五分で済むから、できるだけ協力お願いします、って」
「わかった。リン、すごいね。頑張ってね」
「うん! あたしもーめっちゃ燃えてるの! 座学は苦手だけど研修は楽しいしね!」
マリアラも頑張って、とリンは笑顔で言い残し、早速レポートに取りかかった。例えば薬の整理方法だとか、治療希望者が来たときに混乱なく待たせるためにどのような工夫がなされているか、だとか、そういったことを自分で調べて書くようだ。マリアラはなんだかむずむずした。モーガン先生のゼミにいた頃のことを否応なしに思い起こさせられる。
もし孵化していなかったら、きっとマリアラもリンのように、様々な研修を受けてはレポートにまとめる日々を続けていただろう。エスメラルダ本国で職を得られる教師になるのは、保護局員や医師に負けないくらいの難関だ。モーガン先生のように【学校ビル】に部屋をもらえるような教師になるのは、もっともっと難しかっただろう。
目指していたと言うほど明確な目標ではまだなかったが、でも憧れていた。いつかモーガン先生のような教師になることが、夢だった。
ペナルティが明けたら、と、また思った。近いうちに、モーガン先生に会いに行こう。すぐには無理かも知れないけれど、論文の指導や査定がひと段落した頃を見計らって。
――魔女になっても、君は僕の大切な生徒だからね。
そう言ってくださった、モーガン先生の、日だまりのような温かな笑顔を思い出していたとき。
がらり、と治療ブース側の引き戸が開いた。
「急患です! お願いしまっす!」
小さな男の子を背負って駆け込んできた若い男性のマヌエルは、入口右手に設えられた番号機から札を一枚取った。番号札はシールになっている。ミランダ側の寝台に男の子を寝かせると、その胸に番号札のシールをぺたりと貼った。彼らに続いて、寮母らしき女性も入ってきていた。寮母は心配そうに眉をひそめ、手を揉み絞っている。男の子は意識ははっきりしていて、泣いてもおらず、照れくさそうな顔さえしていた。右目の脇をぶつけたらしく、一筋の血が額に筋を付けている。
「転落です、三メートルほどかな。落ちる途中で氷で擦ったんだと思います。意識あり、出血少量、でも頭に近いんで」
「ありがとうございます。了解です」
ミランダはてきぱきと応えた。マリアラはまだ経験が足らず、どうしてもこういうとき出遅れてしまう。
右巻きは男の子を下ろすと、「治ったらまた来いよ」と男の子の肩を叩き、急ぎ足で出て行った。外は既に、大変な賑わいだった。子供たちが興奮して騒ぐ声や悲鳴じみた歓声が、引き戸が閉まると共に断ちきられる。
「マリアラ、治療をお願い」ミランダはこちらを振り返った。「一応脳波の記録を取りましょう。私、そっちを準備するから」
「わかった」
マリアラは男の子に屈み込んだ。八歳くらいの、やんちゃそうな男の子だった。ケティの存在が、明らかに、彼には最大の障害らしかった。同年代の少女の前でケガをして担ぎ込まれ、寝台に寝かされ、魔女ふたりと寮母にあれこれ世話を焼かれるなんて、それは彼のような少年には恥辱だろう。マリアラはケティと男の子の間になるように椅子を調節して座り、男の子の頭に手を伸ばした。
「滑り台、面白かった?」
訊ねると男の子は、うん、と頷いた。
「ちょっと勢い出過ぎちゃって。ねえ寮母さん、俺もう、滑り台戻っちゃダメ?」
「それは……」
当然でしょう、と言いたかったに違いないが、寮母はプロフェッショナルらしくその言葉をぐっと飲み込んだ。
「魔女のお姉さんの診断次第よ。脳波を取っていただいて、OKが出てから」
「俺平気だよ。ちょっと擦っただけだもん」
「それを判断するのはあなたじゃありません」
「……はーい」
男の子は唇を尖らせ、縋るようにマリアラを見た。マリアラは慎重に彼の容態を探った。軽い擦り傷と打ち身のほかは、さしたるケガもないようだった。
あっという間に傷が癒えた。そこへミランダが器具を運んできた。男の子はまだ縋るようにマリアラを見ている。
「脳波を取って、それで問題がなかったらね」
マリアラはそう請け合い、ミランダが器具からしゅるしゅるとコードを伸ばして男の子の頭に付けた。万が一にも脳波に悪影響が出ないようにか、男の子は神妙な顔をして大人しくしていた。息さえ詰めている。マリアラは表情を変えないようにと自分を戒めた。もし面白がっていることが彼にバレたら、とても怒るだろうから。
「んー」
十数秒後。
機械の表面についている液晶画面をじっと見て、ミランダは言った。
「……問題ないわ。滑り台に戻ってもいい――」
「っしゃー!!!」
男の子はしゅばっと立ち上がり飛び出した。呆気にとられるほどの速さでかけだそうとした彼の襟を、寮母ががっと捕まえた。さすが、少年寮の百戦錬磨の寮母である。
寮母の形相が変わっていた。眦をつり上げ、じたばたもがく彼の顔を両手で挟んで覗き込み、彼女は底冷えのするような低い低い声で言った。
「お行儀は……どうしたんです……?」
怖い。
少年は慣れているようだったが、さすがに今寮母に逆らったら滑り台に戻れないと悟ったのだろう。きちんとこちらに向き直って、深々と頭を下げた。
「……魔女のお姉さんたち、治療してくださりありがとうございました!」
「ど」マリアラは笑いを噛み殺した。「どう、いたしまして!」
「お邪魔いたしました、お仕事頑張ってください!」
「もう戻ってこないで済むようにね!」
「はーい!」
彼は出口まで歩いて行き、がらりと開けるや駆けだした。あっという間に彼の背が見えなくなり、寮母はこちらに頭を下げてその後を追った。マリアラはミランダと顔を見合わせ、思わず噴き出した。




