第三章 仮魔女と魔物(6)
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魔物が倒れた地響きで、我に返った。
魔物は少し離れた場所にいた。グールドが落ちれば魔物は温泉街へ向かうのをやめるのではないかと思ったのは正解だったらしい。が、喜ぶ暇はなかった。グールドは既に立ち上がっていて、マリアラはまだ保護膜に包まれたまま地面に倒れている。
グールドは左手にナイフを、右手に銃を持ち、踊るように数歩歩いた。ミフは急いで柄に保護膜を吸い込んだが、マリアラの体が重しになって数瞬遅れた、その最後の一握りの保護膜にナイフが突き刺さった。
ミフは保護膜を引きちぎって跳ね起きた。
その柄を、グールドが撃った。
『あっ』
ミフが声を上げた。「ミフ!」マリアラは悲鳴をあげることしかできなかった。どん、どん、どん、と続けざまに〈毒〉が撃ち込まれ、ミフは小刻みに跳ねた。その柄の、いつもマリアラが握るあたりに組み込まれた緊急起動用の回路からパチッと火花が散り、次いで蓋が外れた。
中から複雑な回路が現れて――
「僕はね、魔女には詳しいんだ」
楽しげにグールドは言った。
「下手したら仮魔女のあんたより詳しいかもね。ここに結晶が嵌ってる。これを外すと箒はもう動けない。でもいつも思うんだ――箒は持ち主が殺される時、どう思うんだろうね? 今まで一度も、聞けた試しがない」
どん。最後の一撃でミフの魔力の結晶が外れ、ミフは動かなくなった。
「覚悟して、向かってきたんだよね?」
グールドはこちらに向き直った。愉悦が滴るようだった。
「温泉街に、あの子を逃がしたから。あそこに魔物が乱入したら大変、そう思って、向かって来たんだよね? そしてそのとおり、あんたは魔物を止めた。なら」
グールドは優しく笑った。
「その代償を、支払わなくちゃね」
――炎とか、風とか。言ってもらわなきゃ思い出さないなんてダメだ。
さっきそう思った。マリアラは自分を叱咤した。
――何やってるの、同じ間違いを、繰り返すつもりなの?
左手をそろそろとポケットに入れた。この暗さでは、風を呼べない。
グールドの笑みが深くなった。保護膜の残骸を縫い止めていたナイフを引き抜き、おもちゃのように弄んだ。
「無理するなよ。左巻きのくせに」
「左巻きだって……弱くたって、風くらい、使えますから」
光があれば、の話だけれど。
絞り出した声は震えていた。情けない、と思った時、背後、山火事の方で光が炸裂した。マリアラはてっきり山火事が再び迫ってきたのだと思ったが、グールドはそちらを見て少し眩しげに目を細めた。
「……あんまり時間はなさそうだ」
突然だった。グールドはマリアラに視線を戻しもしなかった。出し抜けに左足に鈍い振動を感じ、
「ぅあ……っ!」
自分の口から悲鳴が漏れたのを他人事のように感じた。グールドの持っていたナイフが、今はマリアラの足の甲に突き刺さっていた。がくがくと体が震え、次の瞬間には横ざまに倒れていた。さっきの火傷よりよほど熱い。
「魔女には詳しいんだって言ったでしょ」
楽しげに言ったグールドは、今、マリアラを真近で覗き込んでいた。
我に返るとマリアラはいつの間にか地面に仰向けに倒れていて、グールドが上からのしかかっていた。モノクロになった視界の中に、グールドの髪と瞳だけが紅く見えた。マリアラは歯を食いしばり、なんとか風を集めようとした。左足がズキズキ痛むが、さっきの光のお陰で辺りは少しだけ明るい。呼びかけに応えた風を一握りだけ、グールドに解き放とうとした時。
「いい子だね」
嬉しげな声が聞こえたと同時に、今度は右手に衝撃が食い込んだ。
マリアラは絶叫した。手のひらの真ん中を何か楔のようなものが貫いていた。真っ赤に灼けた炭を押し当てられ、細胞が爆発した。喉が灼ける。グールドはマリアラの額をぺろりと舐め、
「いい声」
まるで愛を囁くかのようにそう言った。グールドの左手がマリアラの腹を這い回った。
「美味しそう」
舌舐めずりしそうな声が腹の上で聞こえ、嫌悪感にわずかに左手を上げただけで右手のひらに突き刺さった熱い切っ先が傷口を割く。
――これは現実なのだ。
――本当に殺されるのだ。
初めてそう思った。いやただ殺されるだけじゃきっと済まない。いったいこれはなんなのだろうと思う。代償を払えとこの人は言ったけれど、こんなに理不尽な取り立てってあるものだろうか。
リンに無事でいてほしいという願いは、そこまで大それたものだったのだろうか。
「うう……っ」
「そんな声じゃなくて、もっと叫んでよ」
グールドがわらう。掲げた刃物がよく見えた。光を受けて輝くナイフの切っ先がふらふらと泳いできて、マリアラの眼球に当てられた。
ちくりと痛みが走った。
「魔女のことはよく知ってるんだ。でも眼球の味まではまだ……」
言いかけてグールドは、出し抜けに飛びすさった。
グールドのいた場所を、なにか漆黒のものが薙いでいた。
金臭い匂いが鼻に届いた。放り出されたナイフがマリアラの顔の脇にからんと落ちた。
頭上から闇が降ってきた。
金臭い息が、マリアラの顔に吹き付けられた。
光を浴びても輝かない、巨大な牛に似た鼻面が、先ほどのグールドと同じように、マリアラを覗き込んでいた。
はっ、はっ、小刻みな呼吸音が耳元で聞こえる。魔物も呼吸をするのか、それとも自分の音だろうか。
――食べるのかな。
やけに冷静にそう思った。グールドに嬲り殺されるよりは魔物に食い殺された方がマシだ、とも。が、闇の圧力がふわりと失せた。
魔物は顔を上げ、雄叫びを上げた。
先ほどまでの苦しそうな悲鳴とは裏腹な、力強い咆哮だった。体をたわめ、後ろ足を蹴り上げた。グールドが吹き飛んだのがよく見え、辺りが明るい、初めてそれに気づいた。魔物は再びマリアラに向き直り、頭を垂れた。敬うように――労わるように。
ふんふん、と匂いを嗅いで。
魔物は、いまだ地面に縫い止められたままのマリアラの右手に鼻面を寄せた。
「ああ……っ!」
思わず悲鳴を上げた。魔物はマリアラの右手を縫い止めていたナイフをくわえ、一気に引き抜いたのだ。魔物が身をよじるとまだ背に取り付けられたままの足台の楔から体液が飛び散った。
右手が自由になり、マリアラは激痛と驚愕の余韻に喘いだ。
この魔物には知能がある。それを思い知っていた。
魔物の瞳だけは黒くなかった。様々な色が大理石の模様のように入り混じる、とても美しい瞳だった。
ごめんなさい。
魔物がそう言ったのがはっきりわかった。魔物は再び頭を下げた。
ごめんなさい……
「どう、し、て、」
マリアラがそう、喘いだとき。
光の塊が、さっき魔物がグールドにしたように、魔物を吹っ飛ばした。
――……!
マリアラは跳ね起きた。周囲は今や真昼のように明るかった。皎々と輝く光の塊は、まるで無慈悲な雷のように魔物を打ち据えた。魔物は悲鳴を上げた。真っ黒な体液がびしゃびしゃと周囲にぶちまけられ、ぱたぱたとマリアラに降りかかった。
魔物の巨大な体が木に叩きつけられる。開いた顎から吐き出した胃液のようなものさえ黒かった。
足音が聞こえた、それからリンの声も。
「マリアラ……マリアラあ……っ」
いきて、
か細い声で、魔物が囁く。光がまた魔物を撃ち、魔物が苦悶の声を漏らした。魔物の瞳が光っていた。とても美しい色だった。
て……
光がさらに叩きつけられた。骨の砕ける音がした。魔物の瞳から光が失せ、マリアラは呻いた。
「いや……」
「マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエル」
そう言ったのは知らない声だ。知らない人だ。
いつの間にかすぐそこに、知らない人が立っていた。マヌエルだと、マリアラは頭のどこかで理解していた。いつの間にか知らないマヌエルがここに駆けつけてきていて、魔物を光で打ち据え、倒して、今地面に降り立ったのだ。斃れた魔物からマリアラを庇うように。少しだけ誇らしげに。
彼はマリアラを覗き込んだ。
「大丈夫?」
返事をすることはできなかった。この人は誰だろうとぼんやり思った。
――あの優しい魔物を殺した、この人は誰だろう。
と。
「あーやれやれ、やっと来た」
嬉しげなグールドの声。目の前にいたマヌエルが息を飲んだ。ちきり、マリアラの頭のすぐ横で、金属音がした。
そこに銃口があった。
背後から伸びたしなやかな腕が、マリアラに巻き付いた。
首をねじるとグールドの顔がすぐそばにあった。グールドは、マリアラを抱えて嬉しげに笑っていた。マリアラの額に黄金色の〈銃〉を押し当て、愛おしむように微笑む。
「僕が一番したかったのは……右巻きの眼の前で、左巻きを殺してやることさ」
「ちょっ、」
マヌエルの手が伸ばされる。グールドの笑みが深まった――
その時マリアラは、とても温かな空気の渦が、自分をすっぽりと包み込んだのを感じた。
そして。
『うおりゃああああああっ!』
威勢のいい喚き声とともに飛んで来た箒の柄が、グールドに殴り掛かった。
「!」
反射的にグールドが右手を挙げ、〈銃口〉がマリアラの額から外れた。その隙間に箒が柄をねじ込んだ。〈銃〉から飛び出した毒の塊は分厚い空気の層に阻まれて逸れていった。グールドはマリアラを放し、跳び退さった。マリアラを包んでいた暖かな風の塊が、いきなり牙をむいてグールドに襲いかかった。
「ちぇっ」
舌打ちは、既に遠かった。マリアラは目を丸くして、グールドの逃げた方ではなく、今マリアラからあの死神のような狩人を引きはがした、その人を見ていた。
昨日のあの人だ。〈アスタ〉に頼まれて、昨日の休憩所にマリアラを迎えに来てくれた人に、間違いなかった。
背の高い人だった。黒々とした硬そうな頭髪は短く切られ、一本気な眉は髪より黒く見える。
――ラクエルだったとは知らなかった。
頭のどこかで、そう思った。