プロローグ(2)
奥の方は人もまばらで、あいているソファもいくつかあった。窓辺のソファに席を決め、〈アスタ〉に連絡しなければ、と思う。その前に飲み物でも買おうかと自動販売機へ歩み寄る途中で、ふと、窓の外に三人のマヌエルがいるのに気づいた。
雪かきのマヌエルが、この路地に差しかかったらしい。
他の人たちもそれに気づいて、何人か窓辺に寄って来た。マヌエルの雪かきはとても派手で、見る分にはすごく面白い。彼らの雪かきを見るために、わざわざ外国から観光客が来るくらいだ。また同時に、猛威を振るう雪害からエスメラルダを守る、漆黒の制服を着たマヌエルたちを目にすることは、かなりの安心感をももたらしてくれる。来る日も来る日も降り続く雪と、それを溶かす漆黒の制服、町のメンテナンスをする清掃隊の青い制服は、冬のエスメラルダの風物詩だ。
マリアラはちょうど折よく雪かきに遭遇した幸運に頬を緩めて、休憩所にいた人たちと一緒に窓の外に目をこらした。
左巻きであるマリアラにとって、雪かきの仕事に携われる右巻きのマヌエルたちは、羨望の対象だった。一般的に、右巻きの方が左巻きよりはるかに魔力が強い。マリアラには、路地の雪を一瞬で溶かすなんてできないし、できたとしても一ブロックで疲労困憊だろう。
彼らは若かった。まだ十代だろう。周囲を見回し、何か話し合っている。ややして、ひとりがこの休憩所に目を止めた。中の誰かを見ながら、仲間たちと一言二言言葉を交わした。
――雪かきじゃ、ないのかな?
考えていると、そこに、もうひとりのマヌエルがやって来た――
まだ明るい時間だったが、降りしきる雪はいよいよ激しさを増し、そのマヌエルの顔はよく見えなかった。けれど、背の高い人だというのはわかった。箒で飛んで来たその人が地面に降り立つと、先にいた三人がその人を取り囲んだ。
三人は口々に何かを言い、その人に頭を下げる。その人が何かを言う前に、ひとりが押し切るように両手を合わせた。宥めるように笑い、早口で何かを言っている――
――あ。
そこで気づいた。
先にいた三人は、最後に来たあの背の高いマヌエルに、雪かきを押し付けようとしていた。
背の高いマヌエルは、文句を言ったようだ。でも三人はそれ以上聞いていなかった。逃げ出すように走ってこの休憩所に駆け込んで来て、声を張り上げた。
「失礼しまーす!」
若い彼らの狙いは、入り口近くでお喋りに興じていた、あの三人の少女たちだった。
「もうすぐ日暮れです! 未成年女子は女子寮まで送ってくから――」
きゃあー、と華やかな声が上がる。マリアラは目を凝らして、雪かきを押し付けられてしまった、背の高い気の毒なマヌエルの姿を見ようとした。
確かに、吹雪に閉ざされた休憩所で、未成年の少女は優先的にマヌエルに送ってもらえる。誰でも利用できる休憩所で夜を越すようなことになると、さまざまな弊害があるからだ。マヌエルにとって大切な仕事のひとつだろう。
でも雪かきと、可愛い女の子を送って行く仕事とでは、どちらが楽しいかと考えると……
損してる、と、マリアラは考えた。あのマヌエルは気の毒だ。
「いいんですかあ? まだ雪かきがあるんじゃ」
いそいそと帰り支度をしながら少女のひとりが言い、マヌエルが笑いながら答えるのが聞こえる。
「大丈夫だよ。あいつの魔力は底無しだから」
その時。
歓声が上がった。マリアラも息を飲んだ。
厚いガラス越しにもその音が聞こえた。蒸気が吹き上がり、視界が一瞬消えた。そして湧き起こった風が、鮮やかに、蒸気を吹き散らした。
マリアラは呆気に取られた。
この窓から見える路地や屋根や生け垣に積もった雪が、一瞬で、綺麗さっぱり消えてしまった。
「な? 言っただろ。あいつの魔力は底無しなんだ」
少女たちをエスコートして出て行きながら、マヌエルのひとりが言うのが聞こえた。
だから彼ひとりに雪かきを押し付けても構わないのだと、言わんばかりだった。
と。
背の高いマヌエルが、こちらを見た。
黒々とした瞳がマリアラを捉えた。コートのフードを被っていたが、その髪も眉も、瞳に負けないくらい真っ黒なのが見て取れた。明らかにマリアラより年上だ。でもどことなく少年っぽい印象の若者だった。幼年組の子供達と一緒に雪の中で転げ回って遊びそうな。眉がくっきりとしていて、一本気な内心をうかがわせる。
すぐに彼は目をそらした。少女たちを後ろに乗せた三人のマヌエルが次々と飛び立って行くのには目もくれず、彼はそのまま歩いて行った。行く先で蒸気が上がり、見る見る内に、町に覆いかぶさった雪を溶かしていく。
――押し付けられたのに、ちゃんと、雪かきするんだ。
マリアラはその後ろ姿を見送りながら考えた。
――偉いなあ……
自分だったら、と、考えた。不当な扱いを受けたことに、くよくよしてしまうだろう。さっき、あの三人に無視され、ひそひそ陰口を叩かれた時のように、その場から逃げ出したくなってしまうだろう。
その背を見送りながら、マリアラは考えた。
――あの人は、強いなあ……。
それから、三時間が過ぎた。
ララはまだ来ない。マリアラは本を読んでいたが、一冊読み終えてもまだ連絡がこないことに、さすがに不安になってきた。日は既にとっぷりと暮れ、さっきのマヌエルが溶かした雪も、また元どおり積もり始めている。休憩所に残っている人たちはもはや全員が男性だった。あれから何度かマヌエルが来て、女性をひとりずつ送って行った。吹雪はいよいよ激しくなり、残っている人たちは既に寝支度を始めている。
〈アスタ〉に連絡しようか。どうして自分で帰ってはいけないのだろう。マリアラは居心地が悪くて身じろぎをした。休憩所にいる人たちも不審に思っているらしく、ちらちらと視線を投げて来る。
制服のままだから、マリアラが仮魔女であることは一目瞭然だ。
だから、なぜマリアラが帰らないのか、不思議なのだろう。マリアラ自身も不思議だった。どうしてこんなところで、ひとりで待っていなければならないのだろう……
「帰らないの」
声をかけられ、びくりとする。見ると壮年の男がひとり、酒瓶を手に近づいて来ている。つんと酒の匂いが鼻をつき、マリアラは反射的に身を強ばらせた。
男は少し呂律の回らない声で言った。
「あんた仮魔女だろ。箒ないの」
「あ、あります」マリアラは咳払いをした。「でも……〈アスタ〉の指示で、ここで待機って、言われて」
「へー。まーこの吹雪だしな。あんたみたいな仮魔女がひとりでふらふら飛んだら、風に巻かれて吹き飛ばされそうだもんな」
がはははは、と男は笑う。マリアラは心が萎むのを感じる。
魔力の弱い自分を、見透かされたような気がした。
「あんたイリエル? レイエルか?」
マリアラの隣にどかっと腰掛けながら男が言う。マリアラは首を振った。
「いえ……ラクエルです」
「ラクエル!?」
男が目を剥き、聞き耳を立てていたらしい周囲がざわついた。マリアラは身じろぎをした。しまった、と思った。正直に言う必要なんかないのに。
「ラクエルの左巻きの仮魔女って、……もうすぐ試験じゃないの?」
背後から声が投げられる。マリアラはさらに身を堅くした。マヌエルはみんなの憧れの職業であるがゆえに、その動向はちょっとした注目の的だ。マリアラは特に希少なラクエルなので、仮魔女期なのはマリアラひとりだ。ちょっとマヌエルのニュースに詳しい人間なら、それくらい把握していてもおかしくない。マリアラは縮こまり、周囲に人が集まり始めていることにぞっとした。
どうしよう。逃げ場がない。
「マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエルだろ。試験……ああ、明日じゃないか!」
「へえー、明日! 頑張ってね!」
「じゃあなんで帰らないんだよ。早く帰ってゆっくり休んどかないと」
隣の壮年の男がマリアラの肩に手をおき、軽く揺すった。手は重く、不躾で、じっとりと熱かった。振り払うこともできず、ただただ身を縮めるしかない。
「相棒は? ゲームあんの?」
「あー、あるある。候補が三人いる。へえー、全員男だ。派手なゲームになりそうだなー」
さっきから情報を提供しているのは背後にいる若い男で、本棚からもって来たらしい雑誌を捲っていた。『月刊マヌエル通信』というタイトルの雑誌はマリアラも知っている有名なものだ。マリアラは走って逃げ出したくなる衝動に必死で耐えていた。ゲームの話なんて聞きたくない。明日の試験を乗り切れるかどうかで頭がいっぱいで、ゲームのことまで考えている余裕なんかない。
なのに、みんな興味本位で、ゲームの行方を取り沙汰する。
マリアラにとっては一生にかかわる大事だ。明日の“ゲーム”の行方で、マリアラの相棒が決まる、ようなものだ。到底気楽に楽しむどころではない。
マリアラの肩に手をおいたままの男が、さらに身を寄せ、その手をマリアラの背に回した。
「三人の男があんたを巡ってゲームか。いい気分だろうなあ」