雪祭り(2)
「おととい、誘拐されかけたんだってね。ベネットさんから聞いたけど、ほんと無事で良かった」
欠片を口に入れようとしていたマリアラは、思わず顔を上げた。「え、誘拐?」
「レンドーって男、まだ捕まらないんだって。……大ケガしてる人がいるからって嘘ついて君かレイエルを連れ出して、一体何するつもりだったんだろうね。こうまで本気で逃げてる――フェルドが通報してすぐベネットさんたちが逮捕に向かったってのに、全く痕跡がつかめないほどの鮮やかな逃げっぷり。聞いた? 犯行の前の日、急に仕事辞めてるんだってさ。で、自宅もすっかり片付けられてもぬけの殻。もしかして、組織的な犯行だったのかも知れないよ?」
マリアラは更に呆気にとられた。
「組織的に――? でも、レンドーさんは、狩人じゃないのに。捕まえて、どう……」
「人身売買って知ってる?」
「じんしん」
「エスメラルダにも、裏社会ってのがあってさ。そこで一番高く売れる商品は、左巻きの魔女だもの。金貨二百枚はくだらないだろうね」
まさかあ。
マリアラは笑おうとした。賭博や麻薬などの実態については、エスメラルダでは一般教養でかなり詳しく教えられる。かなり踏み込んだことまで教えるので賛否両論はあるが、裏社会に足を踏み入れた人間の末路を詳しく教えることで、身を持ち崩す人間を少しでも減らそうということらしい。そういう裏社会では未だに人身売買が営まれている、と言うことも、習った。しかしまさか、ミランダや自分がその商品にされることなんて想像もつかない。
しかし、ディノの顔を見て笑いが引っ込んでしまった。ディノはからかうような口調で、面白がるような顔で話していたが、目はひどく、真面目だった。
「俺ね、“独り身”の右巻きでね。ベネットさんみたいな保護局員たちと連携して、エスメラルダの治安維持に関わってるんだ。だからいろいろ詳しくなったよ。むやみに怖がる必要はないんだけどさ、でも、危険を知らないよりはずっといいはずだ。知っていれば、“急患”と聞かされても慌てて駆け出したりしなくなるだろ。レンドーが何度も出張所の前を通るのを見てなくても、怪しいって、わかるようになるだろ」
ディノの言い方は真面目で、真実みがあった。この人もいい人のようだと、マリアラは思った。フェルドやミシェルよりも少し年上のようだ。ベネットと同い年くらいだろうか。
彼は懐から、小さな入れ物を取り出した。ぽん、という音を立てて大きくなったそれは、一冊の雑誌だ。
「これフェルドに渡しといてよ、俺休憩被らないかも知れないから。返すのはいつでもいいって言っといて。で、君も読んでいいよ。結構面白いよ」
マリアラは差し出された雑誌の表紙をじっと見た。今まで一度も見たことのないタイトルの雑誌だった。きちんと製本されていたが、一般に流通しているものではないかも知れない。見出しには大きく、でかでかと、“特集 封印された誘拐事件 その真相”と書かれている。
「早くしまって? 一応ね、あんま大っぴらに読んでていい本じゃないから」
「え、あ、あ、はい」
マリアラは急いでその雑誌を小さく縮めてポケットにしまった。ディノは笑う。
「保護局員と連携して仕事するようになるとさ、そういう本も読めるようになるわけよ。それ、保護局警備隊の出版部が出してる雑誌、っつーか、ムックなんだよね。書店には並ばないけど限定生産で、保護局員名義で注文した人だけが買える本。年に四冊しか出ないけど、そのたびにフェルドに読ませてくれって頼まれるんだ」
「へええ……」
この世にはまだまだ自分の知らない世界があるものだ。マリアラはなんだか感心した。フェルドが、雪山で狩人に会ったときに協力してくれたジルグ=ガストンという保護局員を既に知っていたことや、いつもこういう雑誌や本を読んでいることなどは既に知っていたけれど、まさか普通に流通していないムックまで読んでいたとは。
二人はしばらく向かい合ってシュカルクッフェンを食べた。粗く刻まれたナッツが生地の間にぎっしり入っていて、甘くて香ばしい。ディノが今のうちに食べろと勧めてくれて良かったと、食べながらマリアラは思った。大勢の人たちが出勤してきたらあっという間になくなってしまうだろうし、食べそびれたらきっととても残念だっただろう。
「あいつ最近、マヌエルに関する法律だの規則だのの勉強ばっかしてるよ」
食べ終えてティッシュを畳みながら、世間話のような口調でディノは言った。
あいつというのはフェルドのことだろうか、と、マリアラは考えた。
――指定場所以外での治療行為には届出が必要なんです。
レンドーに初めて会った時、レンドーの主張をそう言って退けてくれたことを思い出す。
「そう……ですね」
「うんうん、そうなんだよ」
ディノはポットからお茶を注ぎ、マリアラにもくれた。甘くてこってりしたシュカルクッフェンはお茶に本当に良く合う。
「ありがたいです」
「うんうん」
ほのぼのした気分だった。フェルドが今まで築いてきた交友関係が、しみじみとありがたかった。フェルドの友人たちは、みんなマリアラに親切にしてくれて、仲間に入れようとしてくれる。自分一人でいたら、絶対に知り合うことも親しく言葉を交わすこともなかった人たち。
その後は黙ってゆっくりお茶を飲んだ。
詰所のこちら側、休憩所には、もちろんそれ専用の出入り口が付けられていた。マリアラとディノの座る机を挟んだ向かい側の壁は大きなガラス張りの引き戸になっていて、曇り止めの対策もきちんと施されていて、あちら側がよく見える。ちらほらと、早番の右巻きが働いているのが見える。フェルドもきっと近くにいるはずだ。ぴろしきは甘くないようだから、フェルドも食べたがるのではないだろうか。
マリアラの集合時間である朝九時までは、あと十分ほどだ。
そろそろミランダも来る頃合いだ。ティッシュの外に転がり出てしまったシュカルクッフェンの欠片を指でつまんで拾っていると、「おはようございまーす!」聞き覚えのある明るい声と共に、引き戸が開いた。
「おは――」
返事をしかけたディノが、そちらを見て絶句する。マリアラは勢いよく立ち上がった。聞き覚えのある声――そうだ。その明るい声の持ち主は、
「……リン!?」
「あ、マリアラこっちにいた! おっはよー!」
もこもこに着ぶくれたリン=アリエノールが、詰所の入口に立っている。手袋を嵌めたままの手をぶんぶん振りながら元気いっぱいに歩いてくると、「驚いた?」とイタズラっぽく笑った。
「今日ね、あたし研修なの! 魔女のたまごと一緒に、左巻きの魔女の仕事を見学するの! よろしくお願いしまーす!」
「そうなの!? わあっ、嬉しい……!」
嬉しさがこみ上げる。研修、ということは、リンも今日、この詰所に詰めることになるのだ。
勉強を頑張りすぎているからなのか、リンは、真冬に向かうこの時期だというのに少し痩せたように見える。でも、笑顔は元気で力強くて、いつも以上に綺麗なリンだ。
タイミング良く、ミランダも出勤してきていた。彼女も詰所側の方からやって来たようだ。入口でコートを脱ぎ、リンが連れてきた少女にも、防寒具を脱ぐように優しく声を掛けている。
そこにいたのは、とても可愛らしい少女だった。見た感じ、七歳か、八歳か、それくらいだろうか。栗色の巻き毛が愛らしい、とても利発そうな子だ。少女は、防寒具を脱いでとことこ歩いてくると、リンの隣に並んでぺこりとお辞儀をした。
「おはようございます」
「あ、あ、おはようございます」
マリアラも釣られて頭を下げる。リンは可愛くてたまらないというように、よしよしと少女の頭を撫でた。引き戸を閉めたミランダがにこにこしながらやって来て、ふたりに向かい合うようにマリアラの隣に並んだ。
「この子ね、ケティ=アーネスト。今日はこの子と一緒に、ここで、左巻きの仕事を見学させてもらうんです。どうぞ、よろしくお願いします!」
ふたりは揃って頭を下げた。まるで姉妹のようだ。マリアラとミランダも一緒に頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします。わたし、マリアラ=ラクエル・マヌエル。そしてこちらが、」
「ミランダ=レイエル・マヌエルです。よろしく」
ひとしきり挨拶の応酬がすむと、四人はにこやかに顔を見合わせた。今日はこの上なく楽しい一日になるだろう、と言う予感がする。ケティは少し緊張しているようだったが、物怖じしない落ち着いた様子は、彼女の利発さを感じさせる。