孵化と花火(14)
「……しかしものすごい差し入れの山だな。悪いけど、これ消費しないと大変だから、ちょっと手伝ってくれないかい」
保護局員はそう言って、差し入れの満載された書類机の方をおどけた身振りで示して見せた。机を回って防犯カメラを操作し、録画を呼び出し、差し入れた人と品物の確認を始める。
ミランダが手伝いに行った。マリアラも、立とうと思った。差し入れは本当にすごい量で、包み紙や箱を取り払って取り分けるだけでも大変そうだ。手伝いに行こうと思うのに、どうしても立てなかった。今さらながらに身体が震えて、なんだか目眩がする。
と、フェルドがやってきた。彼は黙ったまま、ミランダの座っていた椅子に腰をかけた。まだコートも脱いでおらず、乾かしてもいなかった。来たときにフェルドのコートに積もっていた雪は、出張所の温かさのせいですっかり溶け、袖口やまだ被ったままのフードのふちからぽたぽたしずくが垂れている。
「……濡れてるよ」
マリアラは右手を挙げてフェルドのコートに触れた。冷たい。明るいこの部屋の中では、マリアラでも乾かすのは簡単だった。フェルドは今の今まで自分がびしょ濡れだと言うことに気づかなかったらしい。「あ」と声を上げる。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして……」
語尾が震えた。マリアラは自分を叱咤した。乱暴されたわけでもなければ特に重大な事件になったわけでもないのに、声が震えるなんて、情けないと思わないのかと。ミランダはもう立って普段どおりに動き出しているのに、自分だけ座っているなんて。立てないなんて。
レンドーは、フェルドが来ただけで尻尾を巻いて逃げた。ミランダとマリアラには、あれほど威丈高に、強圧的に、振る舞ったのに。それはとても理不尽なことだという気がする。侮られたと言うことだ。そして、そう、侮られるだけの理由があるのだ。
だってただ怒鳴られただけなのに、足も声も震えて、動き出すことができない。魔力だけじゃなく、こんなにも、自分は弱い。人を恫喝して言うことを聞かせようとする、あんな卑劣な行為に、これほどにダメージを負わされてしまう自分が、情けない。
「……変だよね。こないだは、もっと、ひどい目に遭ったのに」
小さな声でマリアラは囁いた。脳裏に浮かぶのはヴァシルグの、あの怖ろしい男のことだ。ヴァシルグには怒鳴られたばかりではなく、剣まで向けられた。追い回されて逃げ回った。あまつさえ、あの人の無惨な死体までもを間近で見た。更にはそのひと月前にも山火事だの魔物だの狩人だのに遭遇し、手のひらを貫かれるケガまで負った。
なのに、どうしてだろう。どうして大したことをされたわけでもない今の方が、身体が震えて、動き出すことが出来ないのだろう。
「それはそうだろ。当然だと思うよ」
フェルドの声はあくまで低く、静かだった。マリアラはフェルドを見上げた。「え?」
フェルドは前を向いていた。出張所の出入り口を見つめたまま、微動だにしなかった。
「こないだのは……何て言うか……非日常だったから。しょうがないって、諦めがつくというか。確かにあの……」“過去”の話を持ち出すのは、危ういところで止めたらしかった。「……雪山で会った狩人はさ、めちゃくちゃ最低で兇悪だったけど、でも、普通に生活してりゃ会わないで済むって思えた。……でもさ」
黒々とした瞳が、マリアラを見た。
「今日のは現実じゃないか。普通に生活してただけなのに、会っちまった。だからゾッとするし、ショックだし、こないだ以上に怖いのは当然だ。……俺でさえゾッとしたよ」
ああそうかと、マリアラは思った。
涙がにじみそうになって、慌てて下を向く。
低い声が、ありがたかった。すうすうと服の隙間からすきま風が入ってくるような気がしていたが、今はもう、寒気も止まったようだった。フェルドは悔やむように言った。
「遅くなって、ほんとごめん」
「……フェルドのせいじゃないよ。忙しかったんでしょう」
「……そうなんだけど。でも」
「さあ、ふたりとも。お茶が入ったわよ」
ミランダが優しい声を掛けてくれ、マリアラは慌てて立ち上がった。今度はスムーズに身体が動いた。
「ごめん。何にもしてなくて――」
「あら、マリアラは今夜はもうすっごく働いたんだから、ちっとも構わないのよ」
ミランダの笑顔はとても優しかった。
「あの人が嘘ついてるって、気づいたのはマリアラでしょ。私ちっとも疑わなかったもの、本当にありがとう。お陰で助かったわ。さ、食べよ。なんだかお腹空いちゃった。フェルド、夕ご飯もまだなんじゃない?」
そう言って彼女はマリアラとフェルドを差し招いた。申し訳ないことに、事務机の上はもうすっかり綺麗に調えられていた。揚げパンがある。ソーセージがある。揚げたお餅に、おでんに、たこ焼きに、イカ焼きもあった。クィナといちごとみかんと葡萄という、つやつやした美味しそうな果物を見て、マリアラは思わず顔を綻ばせた。
「ねえほら、これ見て。すごいものがあるの」
椅子に座ったミランダが小ぶりの保冷箱を差し出した。中には雪がぎゅうぎゅうに詰められていて、隙間からアイスクリームが覗いていた。マリアラは声を上げた。
「すごい!」
「ね、すごいわよね! 差し入れにアイスなんてすごーく気が利いてる。マリアラ、どれがいい? ラムレーズン、ヨーグルト、チョコレート、それから――」
保護局員は差し入れのチェックを終え、奥の事務机で無線機を片手に仕事を始めていた。気にせず食べろと身振りで言われ、フェルドは唐揚げを食べ始めていた。やはり夕食もまだだったのだろう、焼きおにぎりや揚げ餅にも次々に手を伸ばしていく。相変わらずすがすがしい食べっぷりだ。それを見ながら、マリアラは苺味のアイスクリームを選んだ。甘く煮た苺がたっぷり入ったアイスクリームは、マリアラの大好物だ。
穏やかな時間が流れ、少しずつ、心と体がほぐれていく。もう遅いからか急患も途絶え、さっきの騒ぎが嘘のように、静かに夜が更けていく。アイスクリームを食べながら、マリアラは、それでもこの“現実”は悪いことばかりではない、と、考えた。確かに、マリアラを取り巻く現実の中には、あのような卑劣な人も存在していた。たぶん、これからも今夜のような目に遭うだろうし、その頻度は増えていく恐れだってある。
けれど頼もしい相棒がいてくれて、可愛くて素敵なルームメイトもいてくれて、マリアラを案じてほほえみかけてくれる魔女の友人もいてくれる。ダニエルやララやヒルデやディアナのような頼れる大人もいるし、リンやダリアという友人もいる。ジェイドやミシェルという右巻きたちとの交友関係も、広がりつつある。
明日は非番だ。帰ったら、ゆっくり休もう。そして、起きたら図書室に行って、“ヴィヴィ”の名前を考えよう。そうして元気になろう。どんな“現実”にも立ち向かっていけるように、すこしずつでも強くなろう。
「すっごく美味しい。ひとくち食べる?」
そういうと、ミランダは微笑んだ。
「ありがとう!」
ミランダの選んだアイスクリームは、ほろ苦いファッジが入った濃厚なチョコレートだった。ひと匙ずつ交換して美味しさを分かち合えるのが、しみじみと嬉しかった。
――わたしの“現実”は、けっして悪いものではない。
それどころか、と、マリアラは思った。